誰のためでもなく、私のために、この曲を。

後編

 

 桜さんはやっぱり風のように逝ってしまった。それでも、彼らしく音楽に包まれて旅立っていったことに、私は安心した。凍りついていたと思っていた私の心すら溶かして、私が出会えた人達を紹介できて、本当に良かった。

 凍りつきそうな温度の国の中で、春風のように命の灯を終えた桜さんが、ほんの少し羨ましくもある。私は……そんな風に人生を終えられるか、不安です。

「巳波、寒くない? そろそろ中に戻ろうよ」

「すみません、亥清さんは先に戻っていても良いですよ」

「えぇー……オレまだ時間じゃないんだけど……」

「時間?」

 しまった、という顔をして慌てて首を振ると、亥清さんは隙間なく巻いたマフラーに顔を埋めた。耳も鼻の頭も赤い。私は多少慣れてますけど、亥清さんにはきついようですね。

 時間……そういえば、さっき狗丸さんと交代するように亥清さんが外で夜空を見上げる私の所に来た。交代で見張ってるんですかね、私のこと。後追いでもしないようにと。

 なんて、流石に自惚れですかね、これは。散々他人を排除してきたのに、気を遣ってもらえるわけ、ないですから。

 見上げた夜空には、時折オーロラが光る。さっきまでは雪がちらついていたけれど、今は雲が切れていた。綺麗でありながらも、それは危険な報せ。宇宙からの攻撃の合図のようなもの。まるで私達が浴びるスポットライトのような。

「……ねぇー……戻ろうってー……、トウマが心配して窓に張り付いてる」

「心配……してます?」

「してる。めっちゃしてる。巳波だって知ってるじゃん。トウマは暑苦しいほどメンバーに執着すごいんだからさぁ」

 声を発する度に真っ白な息が視界を掠める。納得して、つい、笑みを零した。そうですね。私が桜さんに執着していたように、狗丸さんはメンバーというものに対して過剰な不安と期待とを抱いていますから。

 はぁ、と大きくため息をついて、亥清さんは目を伏せた。

「オレも分かるけど。……巳波、放っといたら凍死しそうだもん」

「そこまで馬鹿じゃないですよ。ただ、明日にはもうここにいないんだなと思うと……少し物悲しいんです」

「また来ればいいじゃん。その時は、巳波の曲いっぱい持って、オレたちが墓の前で歌ってやろうよ」

「……本当、亥清さんは心強いですねぇ」

「誰かさんに影響されてきた気がする。……オレらしくないかも」

「いいえ。……そうですね、その時は皆さんに付き合ってもらいます。戻りましょうか、寒いですもんね」

「あ……うん!」

 嬉しそうに亥清さんは頷くとさっさと踵を返してホテルの入り口へと走る。余程寒かったんでしょう。それでも、私を一人にしないようにと。昔の亥清さんなら、そんな事はしなかった。ホテルに飛び込んでいった亥清さんの頭に募った雪を、狗丸さんは苦笑いで払い落としてあげていた。

 私も、このまま行ったら払ってもらえるんですかね。……なんて。

「……本当、私も誰かさんに影響されてるのかも、しれませんね」

 もっと悲しみから立ち直れないかと思った。でも、踏みしめた雪に足を絡めとられて動けなくなるようなことはなく、私は歩ける。明るい場所へと、足を踏み出せる。

 ホテルの扉が開くと、温かい空気が流れて冷えきった指先と頬を、ふわりと暖められた空気が包み込んだ。

「さむっ、ほんと寒っ! うー、何か温かいもの買ってよ」

「はは、子どものくせに悠は寒がりだな。ご褒美にホットチョコレートをルームサービスで頼んでやる」

「やった。流石は虎於。ホテルは私物みたいなもんだよね」

「いやそれは流石にない。……まあ、今はいいか」

 早く早くと亥清さんに背中を押されて、御堂さんはエレベーターホールへと連行された。やっぱり不思議な光景です。

「ったく、ハルは……。あ、ミナ冷えたろ。これやるな」

「え、あ」

 手渡されたそれを、かじかんだ指先では上手く掴めなかったらしく、手から滑り落ちた。慌てて拾おうとする私より早く、苦笑いで狗丸さんが拾い上げて、私の取って手のひらに載せる。……あったかい。

「冷え過ぎだろー。カイロ使えカイロ。沢山持ってきたから足りなかったらやるな! まあハルにだいぶ取られたんだけどよ……」

「ありがとう……ございます」

「おー。……まあ、こっち来てから全然俺役に立ってないからなぁ」

 からりと笑って狗丸さんは、自虐する。確かにまあ、そうなんですが。亥清さんは殿下の気を引いてもらったり、御堂さんに関しては軟禁中に世話係の方から桜さんの元に行くために交渉をしてくれた。私は皆さんに助けられて、桜さんに会えた。その点だけ拾えば、確かに狗丸さんは、何もできてないんですけど。……でも。

 ぎゅっと渡されたカイロを握りしめる。やっと温度が通い始めて指が動いた。

「……狗丸さんは、一緒に泣いてくれました」

「へ?」

「桜さんが亡くなったとき、私の隣に居て、一緒に泣いてくれましたよ」

「わ、悪い……貰い泣きする質なんだよ……」

 罰が悪そうな顔をした狗丸さんに、首を振る。優しさの塊を手のひらで握り締めて、ぎこちなく笑みを浮かべた。

「……狗丸さんが私より悲しそうだから、私も泣いていいんだって安心しました」

「いやそれおかしくね?! おかしいだろ!?」

「ふふ、さぁ、どうでしょう。……部屋、戻りましょうか。きっと御堂さんの事だから、ホットチョコレートと赤ワインを用意して待ってますよ」

「ワインは駄目だろ……」

 そうですかね。そういう変に気を使えないところ、御堂さんらしくて私は結構好きですよ。ホットチョコレートを待ち遠しそうにしているであろう亥清さんも。

 ぺし、と軽く頭を叩かれて雪を落としてくれた狗丸さんに、私は見えないように笑みを零した。

 

 帰国便は何故かエコノミーしか取れなくて、亥清さんと狗丸さんに挟まれて座る事になった。搭乗手続き前に三人で何かこそこそ話し合っていたかと思ったら、席決めだったらしい。中学生じゃないんですから、って笑ってしまいましたけど。

「オレら一応レッフェス成功してきたのに、最後に罰ゲームじゃん」

「悠はまだ小さいから良いだろ。俺なんて」

「小さいって言うな! オレだってその内でっかくなるし、虎於なんて見下ろしてやるからな!」

「それは楽しみにしておいてやる」

 馬鹿にしてー! と喚いてる亥清さんには悪いですが、多分成長期はそろそろ終わります。あともう少し伸びしろ欲しいのは、分かりますけれど。

「はぁ……でも、了さん機嫌悪くないといいな……、レッフェスで生卵投げられて帰ってくるの楽しみにしてたじゃん……」

「さぁ。案外喜んでくれているかもしれませんよ。あの人、天邪鬼ですから」

「……だったら、ちょっと嬉しいかも」

 ブランケットを広げながら、亥清さんは言う。どちらにしろ、帰国したら了さんとは一度、話をしなくてはいけませんから。私達は、ちゃんと私達の力でやりたいと。その為に皆さんにも一緒に頼んでほしいとお願いしたんですから。

 あの人の危うさは分かっていますから……少し不安は、ありますけれど。

「でもやっと日本かー。日本語通じなくてほんっと不安だったんだよな。安心する……」

「トウマは本気でちゃんと英会話を習うべきだな。歌うときは平気なくせに、どうしてカタカナ英語になるんだ? 不思議だよ」

「アレは音楽だから、意味はわかんなくても何とかなる」

 自慢気に腕を組みましたけど、それ歌詞書いてる私の横で言い切ります……? 思わずちらりとみやると、狗丸さんの奥に座っていた御堂さんと目が合った。瞬間、にやりと意地悪そうに御堂さんが笑みを浮かべる。

「おいトウマ、作詞家がお怒りだぞ」

「いっ?! で、でも俺歌えてるだろ? な?!」

「な、じゃないですが。……今度から英歌詞部分の訳、付けましょうか?」

「えっ」

 何故そこで驚きますか。こっちとしては意味も分かってくれていたほうが、気持ちを込めてくれると思ってるんですけれど。

「……不満ですか?」

「違うよ巳波。トウマ、しばらく巳波は曲書いてくれないかもって心配してただけ。だから、嬉しいんだよ」

「そう……なんですか?」

 ゆっくりと瞬きをして、もう一度狗丸さんを見やる。狗丸さんはぱっと顔を逸らした。

 横顔に視線を刺していると、渋々と言った様子で狗丸さんは口を開く。

「だ、だってよ……書く気持ちじゃねぇかもって……」

「そんな心配、なさってたんですか」

「や、曲じゃなくて普通にミナが心配だからだぞ?! やっぱほら、つれえだろ」

 言葉尻を濁した狗丸さんは、どうやら私の心が余程繊細だと思ってくれているらしい。いえ、確かに強くはありませんけれど。……でも、泣いて喚いて立ち直れないなんていうのは、棗巳波らしくないでしょう。

 つい、噴き出してしまった。この人の中の私って、一体何なんでしょうね。不安そうに目を向けた狗丸さんに、私は静かに笑みを返す。

「一緒に歌ってくれるなら、何処まででもお供しますよ」

「ミナ……でも、無理はしなくていいんだからな?」

「トウマ、そこは地獄まで道連れにしたって後悔はさせない、くらいは言わないと女は落とせないぞ」

「いやミナ女じゃねえし口説いてねえよ!」

 御堂さんの横やりに狗丸さんは、即座に言い返す。亥清さんは大人って面倒くさいと呆れていた。バラバラな思考の私達がZOOLというグループをやっている。いえ、まだ、始まったばかりなんですよね。

「書きますよ、私は。もっとたくさんの曲を皆さんに歌ってほしいんです。……だって、こんなに楽しいこと、人生で初めて出来ているんですから」

「……そっか」

「はい。……だから、逃げ出さないでくださいね、狗丸さんも」

 おう、と狗丸さんは明るく笑う。この人は、本当に私の曲を楽しみにしてくれた最初の人ですからね。どんなに私が手を払い除けても、ずっと見捨てなかったのは、狗丸さんが初めてだったかもしれない。……頼りないには、頼りないんですけれど。その点の不安は御堂さんや亥清さんがカバーしてくれる。私達は四人で、やっと一つなんですよね。

 飛行機が動き出す。加速の慣性に、心の中で桜さんへ別れを告げる。大丈夫。私はもう一人ではないので、一人では泣きませんよ、桜さん。

 

――私達の希望と決意とは相反して、了さんは頑なに攻撃の手を緩めるつもりがないのは、正直予想の範囲内でありながらも、苦しい展開となった。

 解散。手回し済みの勝利。そんな事は、今の私達にとって一番嫌なことだ。

 だから、決着を自分たちの手でつけなくてはいけない。TRIGGERにしてしまったことを。私達がくだらないと吐き捨ててきたものすべてに、贖うために。

「記者に話す日取りは……決まったんですか?」

「あー、うん。一応次のレッスンの前に予定入れた。悪い、だから少し遅れる」

「一人で行くの? トウマ、囲まれたりしない?」

「大丈夫だろ。あの人、悪い人じゃない。筋が通ってる人間なのは、レッフェスの時に感じたよ」

 狗丸さんにとっては大抵の人は悪い人じゃないと、思うんですが。つい不安になってしまって、三人で顔を見合わせた。誰も、反対はできませんでしたけど。

 レッフェスについてきたツクモに良い印象のない記者。私達の失敗を語り尽くすために現地に来たのに、私達はその時には本気で「ZOOL」をやっていくことを決意したばかりだったから、持てる限りの勇気と力でステージに立ち続けた。観客に届いた思いは、ホールを揺るがして、私達の心さえ揺さぶったくらいに、成功した。それに立ち会ってくれたあの人は、確かに他よりは信用がありますけれど……。狗丸さんは騙されそうなタイプですから、心配なんですよね……。亥清さんや御堂さんもきっとそれは同じ気持ちだ。

 反対は出来ないけれど、心配は尽きない。私達にとって、この人は支えそのものだから。

「取り敢えず、それまでは仕事だ。JIMAもあるし、仮にそこが八百長でも何でも、俺達が本気でやれば、それは偽物の栄光なんかじゃない。……たぶん」

「締まりが悪いな。そこは言い切れ。トウマには自信が足らな過ぎる」

「トラは少し謙遜しろよな!?」

「何故だ? 事実は事実として受け止めているだけだが」

「……ハル、こうはなるなよ……」

 亥清さんは興味なさそうにステップの練習を始めていた。納得いかないのか、時折舌打ちをしながら何度も。亥清さん、ダンスも極めてレベルが高いんですよね。パフォーマーという立場の私と御堂さんよりも、断然上手い。もっとも今は、明確な役割に分けることをやめたんですが。

「……曲は、来週には用意できるかと思いますので」

「早っ。巳波、今までで一番早くない?」

「そうかもしれません。たくさん……流れるんです。私の中で、皆さんに歌ってほしい音楽が。私の奏でたいメロディーが。遠い昔にやり忘れたことが、今更溢れて来てるんです。……恥ずかしい話ですけど」

「全然恥ずかしくねーよ!」

 前のめりに、狗丸さんは言う。今日もきらきらと、嬉しそうに狗丸さんは私を真っ直ぐ見据える。

「俺もやり残したことがたくさんあった。けど、お前らと一緒にならもっとやれるって今は思うんだ。だから、やろうぜ。もっとZOOLを、社会に叩きつけようぜ!」

「うわー、出たトウマの熱血」

「わ、悪いかよ」

 踊りながら口を挟んだ亥清さんが、たん、とターンを華麗に決める。怯んだ狗丸さんに亥清さんは強気に笑った。

「ううん。最高。ZOOLって感じ」

「ハル……!」

「いや感動しないでよ。気持ち悪いから。ほら、練習始めようよ。時間もったいないじゃん」

 亥清さんはまだ青少年保護法に引っ掛かる年齢。レッスン時間も限られる。時間は一分一秒でも惜しいのは、確かです。それぞれストレッチを開始したところで、ふと私は思い出す。

「あの、狗丸さん。このあと、お時間ありますか?」

「特に予定は無いけど……どした? ラーメン行くか?」

「ふふ。それはそれで素敵なお誘いですが……ちょっとお願いがあるんです。お時間少し、くださると嬉しいです」

「分かった。いいぜ、あとでな!」

 歯を見せて笑った狗丸さんに、笑みを返す。そう。私にはもう一つ、大事な曲があるんです。

 

 

「なぁ、ほんとに良いのか? 俺に付き合ってもミナに何も良いことねーかもしんねーけど」

「それをお願いしたのは、私ですよ。ほら、一日の時間は二十四時間と決まっているんです。すでに午前十時。残りは十四時間しかありませんよ」

「そ、そう言われると何か時間ない感じがするな。ま、まぁ行くか」

 キャップを被り直して、微妙に似合っていないサングラスを押し上げると狗丸さんは歩き出す。苦笑を零しつつ、私は隣に並んだ。

 人に溢れたスクランブル交差点では、私達は周囲にとってはただのノイズだった。

 今日は久しぶりのオフ日。そんな貴重な日を使っていいと快諾してくれたのは、流石は狗丸さんという感じです。私は、どうしてもこの時間が欲しかったので。

「で、今日のミナの目的って……なんだ?」

「狗丸さんをもっと知りたいと思いまして。……ソロ、もうすぐ完成させなきゃいけないでしょう」

「あ。そっか、なるほどな! あぁ、ソロかぁ。トラとミナの、良かったよなぁ」

「狗丸さんも、亥清さんも、私がしっかり作ります。……期待して」

「もちろん。めちゃめちゃ楽しみにしてるって」

 素直にそう言われるのは前からですけど、最近は少しくすぐったい。昔ならお世辞にしか思えなかったのに、今の私は素直に受け止められるようになった。少なくとも、狗丸さんは嘘は言わないから。

「まずは何処に、行くんです?」

「んー、特にコレってのはねぇんだけど……あ、CD見に行ってもいいか?」

「狗丸さんのお好きなように」

 それが私の目的なんですから。私に気を使って欲しくはない。じゃあこっちな、といそいそと案内を始める狗丸さんを見て、そう言えば私はこの人と初めて二人だけの時間を持ったことに気付いた。

 

「あ、これ新譜出てたのかぁ。買ってねぇや。買っとこ」

「狗丸さんは、デジタルのタイプじゃないんですね。少し意外です」

「ん? そうかぁ?」

 店舗内を歩き、何枚目かのCDを手に取りながら狗丸さんは首を傾げる。洋楽に邦楽ロック、ヒップホップ、割と何でも聞くらしい。初めて聞く名前の洋楽アーティストのジャケットに指を滑らせつつ、私は頷いた。

「はい。物を増やすのは嫌いかと思いまして」

「日用品とかはあんま興味ねーけど……、音楽はやっぱCDがいいぜ。音質がいいから、デジタルでも買うけどさ。なんか、この形が好きなんだ。ここに詰め込まれた曲がある、伝えたい情熱が篭ってるって感じでさ」

「……ふふ。狗丸さんらしいです」

「そうか? あとは……そうだな。デジタルだと、ボタン一つで消えたら終わっちまうだろ。まあ再ダウンロードすりゃ良いんだけど。……何かそういうの、最近苦手なんだ」

 少し声音に寂しさが混じった。傷に、触れてしまった。咄嗟に話題を逸らそうにも、何も浮かばない。手のひらに、汗が滲んだ。

「……解散直後は、CDショップ来るのマジでキツかった」

「え……」

「解散してもNO_MADのCDは変わらず並んでんだよ。誰も必要としないから、なくなったはずなのに。なのになんでもない顔してそこにある。馬鹿馬鹿しくて、悔しくて、今でも見ると目を逸らしちまう」

「狗丸さん……」

「でも今はさ、あっ、ほら見ろよ」

 私の肩を引き寄せ狗丸さんの指差した先には、アイドルコーナーがあった。その周りには、学校帰りの女子高生が三人でCDを手に取って笑っている。それぞれ手にしたCDは違ったけれども、一人の女の子はレッフェスの私達の新曲を手にしていた。

 この店では何の変哲もない光景なはずなのに、ぎゅっと胸が熱くなる。

「ミナの曲、ちゃんと誰かが聞いてんだ。俺すっげーメンバーとして誇らしいぜ」

「……歌ってるのは、狗丸さんも、ですよ」

「おう。だから、最近はここ来るの怖くねぇんだ。ミナのお陰だよ」

 そんなこと。だって私は、最初、貴方や亥清さんに曲の声帯以外のことは何一つ期待なんてしていなかった。道具と変わらないような感情しか。

――めっちゃアイドルっぽくねぇ! 何だよこれ最高!

 初めて曲を聞いてもらったあの日に狗丸さんが言った言葉を不意に思い出す。ああ、なんだ。狗丸さんは最初から、本当に嘘なんて何一つ言えない人だったんですね。

 急に納得して、おかしくなる。私は本当に素直じゃない。くすくすと笑い出した私に狗丸さんは不思議な顔をした。あの時の声と、今自慢気に語ってくれた声の温度は同じだった。その相似に、胸がくすぐったい。

「ふふ、すみません。……なんだか、おかしくて」

「面白いこと言ってねーぞ?!」

「ええ、そうですね。あぁ、もう少し見て回ります? あと今日は十二時間になってしまいましたね」

「うぇっ?! もうそんなかよ! ごめんな付き合わせて。買ってくるから待ってろよ」

「もちろんですよ。ちゃんと待ってます」

 慌ててレジに走っていく狗丸さんを手を振って見送る。少し目を離した間に、女子高生達は居なくなっていた。レジに向かう姿は見ていないから、購入はしなかったのでしょう。学生は、自由に使えるお金がそんなにあるわけでは、ありませんよね。なけなしのお金で私の曲を手にしてくれる人が、いるのかもしれない。

――それがどんなに価値のあることか、今やっと分かった気がした。

 狗丸さんが小走りで戻ってくる。この人の期待は裏切りたくないと、ぼんやりと思った。

 

 ファストフードのテイクアウトを奢ってもらい、油まみれのポテトをよく食べられるなと感心した。期間限定の肉増しバーガーだから! と本気で肉で構成された最早バーガーと言えない代物を食べさせられて、手が油まみれになりましたけども。ウェットティッシュはもちろん持参していたのでそれで手を拭いていたら、狗丸さんは羨ましそうな顔をしていたので二枚ほど差し上げた。物凄く有難がられましたけど。狗丸さんは普段からハンカチくらいは持ち歩くべきだと思うんですよね。

 ヴィンテージの服が見たいと言うからついて行ったら、狗丸さんは指や首に重いシルバーアクセサリーをキラキラした目で眺めていた。中学生ですか、貴方。つい笑ってしまったら、ミナにも見繕ってやろうかと言われたので丁重にお断りした。残念そうにされましまけど、生憎と私はそういうジャラジャラしたものは苦手なんです。服は結局買いませんでしたけど、また来ようなーと勝手に約束をして楽しそうに店を後にした。

 足元はぼんやりと暗い。日が落ちるのが早くなってきた秋の入り口は、この時間でもう薄暗くなり始めていた。

「もう暗くなってきたなぁ」

「そうですねぇ。お次はどちらへ?」

「んー、飯でも行くか? あ、ミナが良ければだけど」

「ラーメンならお付き合いしますよ」

「おっ、いいぜ! じゃあ今度は俺がミナに付き合ってやるな」

 冗談のつもりだったんですが。いえ、だって、今日は狗丸さんのために時間を使うって私朝言いましたよね……?

 言い淀んで黙り込んだ私に狗丸さんは不思議そうな顔をして、ついで噴き出した。

「何だよ、嫌なのか?」

「いえ、そうではなくて……、私……狗丸さんのことを知るために今日は……」

「ふふん、俺はメンバーとそいつの好きなメシが食えるのが嬉しい男なんだ。メモ忘れんなよー」

「……なるほど。……ふふ、狗丸さんは、本当……お人好しというか何というか」

 この人といると、私は棗巳波を被り続けなくて良い気がしてしまう。棗巳波でない私なんて、もう忘れてしまったけれど。いつか、思い出せたらいいなんて感傷が過る。

 ここから近くにある気になっていたラーメン屋に行きたいと言うと、もちろん狗丸さんは快諾してくれた。二人で地図アプリを見ながら向かう道は、冷たい秋の風が吹いても寒さを感じずに済んだ。

 

 曲を一から書き直そうと、ピアノを弾いた。

 本当は、疾走感のある曲を提示しようと思っていた。その方が音楽に対する情熱を声と瞳に宿した狗丸さんには似合いだと思っていたから。

 でも、違った。あの人は傷を抱えて、迷子になっていた自分をやっと乗り越える所だった。狗丸さんが願っていたのは、ただ歌うことではなくて、誰かに狗丸トウマという存在を認めてもらうことだったんですね。ずっとそう言っていたはずなのに、私は分かってなかった。

 狗丸さんはどんな曲だってきっと喜んでくれるでしょう。でも、それじゃ意味がない。あの人が諦めずにZOOLでいることを望み続けていてくれたから、私は桜さんを看取れた。御堂さんや亥清さんの優しさを引き出してくれたのは、やっぱり狗丸さんだって、私は思うんです。

――だから今度は、私が貴方に返す番です。

 狗丸さんが言えないことを、抱えた思いを私が曲にする。イメージとは違うかもしれないけれど、私は貴方に歌って欲しいんです。これから、私達と一緒に。昔に引っ張られてたまに落ち込むかもしれない狗丸さんで、構わないから。

「……変ですねぇ」

 ぽつりと呟いて、ペンを置く。狗丸さん用の、五線譜を埋めた。あとはもう一度見直して、楽器を選ばないと。アコースティックギターが、良さそうですけれど。……それにしても、私、気付いたらずっと狗丸さんのことばかり、考えてるじゃないですか。本当、どうしたんでしょうね、私は。

 鍵盤の蓋を閉じる。反射して映った私の顔は、久しぶりに満足そうに笑っていた。

 

 譜面と歌詞を渡すと、狗丸さんは少し驚いたみたいだった。その日はテレビの収録が押して時間もなかったので、サンプルはデータごと渡して申し訳ないけれど五日後の収録までに練習をお願いしたのは、作曲担当として不甲斐ない。歌ってもらうからには、きちんと時間をとって練習してもらいたかったのに。

 でも、流石です。私が思っていた以上に、狗丸さんは歌い上げてくれた。

「はぁ、凄いね。短期間で歌いこんできた感じするよ」

「はい……」

「……棗くんがそうなるのも、珍しいね」

 レコーディングに付き合ってくださっている畑中さんは愉快そうに肩を揺らして笑った。そう、かもしれない。私、どうしてこんなに緊張してるんでしょう。震えそうな体を抱き締めるように腕を抱いて、ブースを見つめていた。

 そうでもしないと、何故だか泣いてしまいそうだったから。その意味は、自分でも説明できないんですが。息を忘れそうなほどです。

 最後まで歌い終えて、大きく息を吐き出すと狗丸さんはこちらを見やった。

「あの……もっかいやりたいんですけど良いですか?」

「だって、棗くん。どうする?」

 マイク越しの狗丸さんの要望に、畑中さんが傍らに立っていた私を見上げた。

「何度でも。……これは私が狗丸さんの為に作った曲ですから。……本人が満足するまで、時間が許す限りは何度でも。手間をかけて申し訳ないですが」

「いいよいいよ。よし、じゃあ狗丸くんもう一度最初から行こうか」

「ありがとうございます!」

 嬉しそうに頭を下げ、せわしなく狗丸さんは咳払いをする。ああ、そんなに強くやったら喉を痛めますよ……。気合入ってるのは、分かりますから。

 ハラハラしてしまうけれど、やっぱり歌い出せば狗丸さんは狗丸さんらしく、見事だなぁと感心してしまった。聞こえる声に、心臓が早鐘を打つ。その意味が、やっぱり分からない。

「はは、いいね、今度の新曲も、彼のソロも。棗くんが本気出してきたって感じするよ」

「私はいつも本気ですよ。……でも、そう……ですね」

 狗丸さんに歌ってもらう曲は、妥協できないって、そう思ったんですよ。

 ヘッドホンから響く声に泣きそうになったのは、本人には秘密ですが。

 

 TRIGGERの皆さんには、叱られて窘められて、私達はZOOLでいることを許された。最悪、叩かれて人生まるごと終わるところでしたが。……敵に回した相手が、良かったのかもしれませんが。

 彼らの稽古場を後にした私達の口も足も、それぞれ重い。

「……あ」

 不意に亥清さんが声を漏らす。視線を向けると、亥清さんは街頭テレビジョンを見上げていた。つられて見上げたそこには、去年のブラホワのIDOLiSH7の映像。

「オレ、勝ちたい」

「亥清さん……」

「正々堂々やって、勝って自分を褒めてやりたい」

「そうだな。……その為に、ギリギリまで練習して、誰からも文句言われねぇくらい見せ付けてやろうぜ!」

「始まったートウマの熱血ー」

「るっせ。勝つんだろ、やるしかねぇだろ!」

 ああ、いつもどおり戯れてますね。でも、それくらいで丁度良いのかもしれない。

 俯いているのは、私達には似合いませんから。

「元気だな、あいつら」

「あら、御堂さんだって混ざりたいのでは?」

「柄じゃない。……でも、悔いは残したくはないな。巳波もそうだろう」

 私は……どうなんでしょう。悔い。私がもしも、今悔いを感じることがあるとすれば。

 亥清さんを捕まえて頭を小突いている狗丸さんに、つい笑みを零す。

「私は……勝敗より、誰かさんがつまらない曲って言うような曲は、作りたくはないですね」

「……そうか。良いんじゃないか。……お前はもう、ちゃんと巣立った筈だからな」

 含みのある言い方が少々気になりましたが、亥清さんが救いを求めて叫んでますのでそろそろ助けにいかないといけない。戯れている時間は、私達にはないんですから。

 前には一人では進めない私達ですから、背中を押し合って今日も進むしかない。

 

 

――初めて聞いたとき、泣けたんだ。

 そう言ってくれた言葉を、また思い出してしまった。世界で一人になったような気になって、でも今はZOOLがある。私が書いた曲があると言ってくれたその言葉に、安心した感覚は今でも忘れられない。間違ってなかったんだと、心底安心した。

 それと同時に、心の奥底がじわじわと熱い。この感覚は何なんでしょう。私はこの気持ちが、よく分からない。悩んでいても答えは見つかりそうにないんですが。

 楽屋の扉を開ける。いたのは、狗丸さんだけだった。何かスマホで音楽を聞いていたようですが。

「おはようございます、狗丸さん」

「おはよう、ミナ。今日も早いな」

「遅刻は嫌いなので。……何を、聞いてたんです? この間買ったCDですか? それとも、憧れのRe:valeとか?」

「言い方に悪意があるな?!」

 そんなつもりはありませんが。……まあ、少しは、嫉妬はするかもしれませんけれど。狗丸さんはため息をついて、黙ってイヤホンの片方を差し出した。聞かせてくれるって事ですか。不思議に思いつつ、耳にはめ……――。

「これ、私の差し上げたEndlessのサンプルじゃないですか」

 自分の声に驚いて慌てて耳から外した。は、恥ずかしい。収録現場以外で自分の声を聞くのは、どうにも恥ずかしいです。狗丸さんは得意げに歯を見せて笑った。

「すっげー嬉しかったから、何か気合入れるときはこれ聞いてんだよ。ミナの声って珍しいしさ」

「そ、そんなに聞いてるんですか……?」

「ずっとじゃねーけど、まあまあ? だってさ、俺を理解してくれてるヤツが作ってくれてんだなって、すげー嬉しくて。もっと歌いたいって何度も思うんだよ」

「狗丸さん……」

 私の手からイヤホンを抜き取って、恥ずかしそうに笑った狗丸さんに、ぎゅっと胸が詰まる。ちりちりと、指先が痛い。

「……何度だって」

「ん?」

「いくらだって、歌わせてあげます。一年先も、二年先も、狗丸さんには私の曲を、歌っていて欲しいので」

 そっか、と狗丸さんははにかんだ。無邪気に笑ってくれるのは、いつも音楽の話をするときですね。私にできることは、曲を作ることだけしかないかもしれませんけど。私を救ってくれた狗丸さんには、たくさん恩を返していきたいなと、思うんです。勝手な……私の願いみたいな、ものですけれど。

「俺、最初はめちゃめちゃ不安だったけど、ZOOLで良かったよ。ありがとな、ミナ。俺さ、この曲があれば、多分何度だって前向こうって思えた。本当、最高だよ」

「ふふ。そこまで褒められるとどう返していいのか悩みますけど。……それは、私が思う狗丸さんです。間違ってないのなら、私が狗丸さんの考えは大体読めたことになってしまいますね」

「そうなるのか?! そっか、そうだな? うわぁ、もうミナには嘘つけねぇじゃん」

 途端に頭を抱え始めましたけど、そもそも狗丸さんは嘘をつくのがとても下手じゃないですか。顔に何時も出ていますし。

 それでも、その耳元でいつも流れている音楽が私のものでいいと言ってもらえるのは……少し、胸が熱くなった。

 

「巳波さぁ……、最近楽しそうだね」

「そうですか?」

 うん、と頷いて亥清さんはチョコレートパフェのウエハースを指で摘んで齧る。収録が早く終わったので付き合ってと言われてファミレスに収まっていた。注文したクリームあんみつの豆をスプーンですくい上げ、じっと見つめる。楽しいんですか、ね、私は。

「前より丸くなった」

「あらあら、それは亥清さんもですよ」

「うん。……オレも楽しい。毎日怖いし、不安だし、でも踊れて、歌えてすっごい幸せなんだなって思った。トウマじゃないけど……オレZOOLで、良かった」

「……私も、皆さんで良かったです」

 抹茶ゼリーの苦さを黒蜜と一緒に飲み込む。甘くて苦い日々が、今はかけがえが無いものだとつくづく思います。亥清さんは頬杖をついてじっと私の瞳を見据える。意志の強い真っ直ぐな瞳に、瞬きをひとつ。

「えっと?」

「ううん。……意外と巳波も鈍いんだなぁと思って。……まあいいや。トウマがトウマなら、巳波も巳波だ。……ふーん、面白いな」

 亥清さんが何を言っているのか、よく分からない。面白いおもちゃを見つけたみたいににこにこと楽しそうなので、悪いことではないんでしょう。多分。溶け出したソフトクリームが黒蜜と混ざって色を帯びる。

 何だか帰りにラーメンが食べたくなった。

 

 亥清さんと別れて、道すがら見つけたラーメン屋にふらりと足を向けた。

 少し食べてしまったので、今日は大盛りは無しで、トッピングに煮卵だけ追加する。気分が良ければ替え玉をするところですけど、今日はやめておきましょう。

 鰹出汁の香りが効いた、割合さっぱりとしたスープと中太麺で案外大盛りでも良かったかもしれなかったけれど。煮卵は味が染みていたので満足です。今度また亥清さんか狗丸さんにでも付き合ってもらいましょう。

「ごちそうさまでした」

 店主に声をかけて、店をあとにする。日付は変わっていなくても、夜はすっかり様相を変えてなんとはなしに、空気にアルコールの匂いが混じっているような気がした。髪留めを外しつつ、電車で帰るかタクシーを捕まえるかぼんやりと考えていると、向かいから歩いてくる姿に足を止めた。

「御堂さんに……狗丸さん」

 それと……どこかの撮影で会った、女性歌手の方……な気がする。どこかで遭遇して、一緒に食事でも行ったんですかね。御堂さんは女性の扱いを熟知していますし、狗丸さんは賑やかなことが好きですから、不思議はない。

 不思議はないけど、胃もたれが、する。あれ、私食べすぎましたっけ……。

「あ」

 ふと、御堂さんと視線が合う。私と気付いたのか、軽く手を上げた。苦笑しつつ、私もひらりと手を振り返す。大丈夫ですよ、お邪魔はしませんから。

 会話で盛り上がってるのか全然私に気付かない狗丸さんに、御堂さんが何やら耳打ちをし……――

「え?」

 逃げた。えっ、狗丸さんこっち見て私と気付いたら逃げました? え、どうして?

 ぽかんとしたのは私だけじゃなく、ご一緒していた女性歌手の方もですが、御堂さんだけが肩をすくめていた。わけが分からなくて、立ち竦む。

 スマホが振動する。機械反射のように画面を確認すると、御堂さんからのラビチャ。

――腹が痛いだけだ。気にするな。

 分かりやすい嘘ですね、随分。それに私は別に……何も思ってないのですが。

――お大事にとお伝えください。

 それだけ返してスマホをしまう。私からのメッセージを確認したのか、御堂さんは苦笑をこちらに向けて、それから女性陣を丁寧にエスコートし始めた。彼女たちのフォローは、御堂さんなら心配いらない。狗丸さんは……どうするんでしょう。後から合流……ですかね。

「変ですね……」

 何故だか、胸が軋む。いつもの狗丸さんらしくない反応に、不安を覚えたのは確かだった。

 

 ヘッドホンから、ブラホワに向けて録り終えた新曲の音源が繰り返し流れる。何回聞いたかもう分からない。音楽って、やっぱり楽しいですね、桜さん。いつか貴方の墓前で披露したいと、思えるほどには。

「……はぁ」

 ヘッドホンを外していたら、不意に狗丸さんを思い出してため息をついた。どうして、逃げたんでしょう。いえ、逃げたなんて自意識過剰かもしれません。喧嘩中の誰かと間違えたのかもしれませんし。……誰かと私を、間違えたとか失礼なのでは。なら、何か私と顔を合わせたら気まずい事があるとか? 私、別にここ最近狗丸さんに不愉快にさせられたことは一度も。

 むしろ……あの人には、たくさんの小さな勇気を貰っているのに。

 ぽす、と胸に抱えていたクッションに顎を載せる。ずっと座ったままだといつも疲れるだろうからって、この間亥清さんがくれた大きいクッションは重宝していた。ビーズクッションの、特有の砂の音のような音色が、鼓膜を揺らす。海みたいですね。

「……私、狗丸さんに、嫌われることしましたかね……」

 ぽつ、と呟くと、何故だか視界が滲んだ。嫌だ、って心が叫ぶ。嫌われるのは嫌だ。狗丸さんに嫌われたら、もう私の曲なんていらないってことじゃないですが。そんなの嫌だ。だって私、狗丸さんを歌わせてあげたい。……いえ、それは嘘ですね。

「私の曲を、私のために歌って……狗丸さん……」

 歌ってほしいのは、いつだって私だった。私の心を書き写した曲を、良い子の皮を剥がせない私の代わりに誰かに叫んで欲しくて書いているから。

 狗丸さん。私、楽しいって最高だって何度でも言ってくれた貴方のために、頑張ってるんですよ。本当は出来が不安でいつだって最初に皆さんに聞かれるとき身構えていた。なんか違うって否定されるのが怖くて。だけど、狗丸さんはそんなこと一度も言わなかった。なんか違うかもしれないけど、これはこれで最高だって。私は、そう言って笑う貴方がずっと見たい。一番近くで見ていたい。

「……ふふ、やだなぁ」

 目を閉じると、クッションが湿る。何で泣いてるんでしょうね、私。

 さらさらと、波のような音がする。海にすべての想いを溶かして薄めてしまえたらいいのに。喉の奥で渦巻く気持ちの名前をようやく理解した。

――私、狗丸さんが好きなんだ。

 誰よりも何よりも。多分、桜さんとは違う意味で。でも、こんな想いは伝えてはいけない。だっておかしいでしょう。きっと狗丸さん、困ってしまう。もしかしたら気持ち悪いって思うかもしれない。私だってこんなの、変だって思いますよ。

 なのに、自覚したら急に悲しくなった。潰れそうなくらい、不安になる。嫌われたくない嫌われたくない。好きになってもらわなくていい。メンバーとして、最高の仲間でいられるだけで十分じゃないですか。曲を作って、歌ってもらって。こんな立場、私じゃなきゃ貰えない。御堂さんでも亥清さんでも、それは出来ない。それを感情に任せて捨てるなんて、絶対に嫌だ。

だから、沈黙していなければ。メンバーとして、それでいいんだ。心の奥底に閉まっておくのは得意だから、大丈夫。

でも今は、とにかく泣きたくなって、ヘッドホンを抜いてスピーカーに切り替える。大声を出したいわけでもないけれど、泣くなら音楽に包まれていたいから。音量を上げて、クッションに顔を埋める。大丈夫大丈夫。明日の私はいつもの棗巳波です。

 ずっとずっと、棗巳波を演じるのは得意だった。だから、心配なんていらない。

 ぎゅっと抱きしめたクッションからは、波の音が聞こえた。

 

――私としたことが、盲点だった。

 仕事日。今日は雑誌のインタビューだった。しかもよりによって、狗丸さんと二人の。ZOOLのリーダーと、作詞作曲担当の私で、音楽雑誌のインタビューを受ける。新曲の宣伝も兼ねた仕事は、あの日狗丸さんに逃げられて、自分の気持ちを自覚して初めて顔を合わせる仕事だった。

正直……最悪です。それは、私は棗巳波ですから、演じることは得意です。感情を抑えて受け答えなんて造作もない。だけど、どこか自信がない。狗丸さんの行動の意味をわからないまま顔を合わせるのが怖い。開口一番に何を言われるか不安でたまらなくなる。

タクシーの静かな振動が、手にしたスマホを僅かに揺らす。いえ……震えてるのは、私の手かも、しれませんが。狗丸さんはすぐ顔に出るから。好きも嫌いもどちらもすぐに。

棗巳波を演らなければ。いつも通りの、飄々とした私を。いつだって適度な自信と余裕を纏わせた棗巳波を。亥清さんや御堂さんがいる収録なら、なんてこと無いのに。

悩んでいる間にも、車窓はどんどんと目的地へ近付いていた。

 

仮面を被りきらないうちに、指定された控室へ辿り着く。係の方がお茶を持ってきますと言い残して出て行くと、私は部屋にぽつんと一人残された。狗丸さん、まだ来てなかったんだ。珍しい。立っていても仕方ないので、L型に配置されたテーブルに並べられたパイプ椅子を引く。何だか、落ち着かない、ですね。

「棗さんお待たせしましたー!」

 先程の女性がペットボトル二本を手に戻ってきた。その後ろには、狗丸さん。ぎくりと背中が震えたけれど、見えてないですよね。狗丸さんはちょっと困ったように笑みを返してくれた。……胸は、軋みましたが。

「すみません、前のインタビューが押してて、担当が三十分ほど遅れてしまいそうなんですが、お時間大丈夫でしょうか……」

「俺は大丈夫っすよ。これで今日は終わりなんで」

「私も問題ありません。インタビューは貴重な機会です。沢山お話を伺っていい記事にしてください。もちろん、私達の分も」

「あぁ……! ありがとうございます! その点もしっかり担当には伝えておきますね!」

 ぐっと両手を握りしめて頭を何度も下げつつ、彼女は出て行った。パタンと扉が閉まると、途端に空間ごと切り取られたように音が無くなる。いけない。しっかりしないと。

「おはようございます、狗丸さん。取り敢えず座ったらいかがですか?」

「お、おう。おはよ……ミナ」

 笑みで着席を促し、初手をやり切る。そうです。私はあの日狗丸さんを視認してないことにしたらいいんですから、それでいい。

 どこかぎこちなく、狗丸さんも腰を下ろす。ちょうど九十度。正面でも隣でもないこの位置は、表情が適度に伺いにくくて安堵してしまった。三十分。持ってきた明日撮影のドラマの台本でももう一度確認しておきましょうか。その方が、沈黙に違和感もない。

 黙って鞄から台本を取り出し、適当に開く。正直もう頭には入っているんですけれど。二ページ、三ページ捲って……ちらりと狗丸さんをみやると、眉間にシワを寄せてスマホを見つめていた。イヤホンもしていない。暇さえあれば、音楽を聞いている狗丸さんにしては珍しかった。

 じっと見つめていると、視線に気付いたのか狗丸さんは顔を上げて、表情を強張らせた。

「……な、何だ?」

「ああ、いえ。いつもなら音楽聞いているのに珍しいなと」

「ちょっとな、ええっと、今日はイヤホン忘れて」

「あらそうなんですか。お貸ししましょうか? 変換アダプタも確か持っていたと思いますので」

「い?! いや、い、大丈夫! あっ、鞄の底にあったかもな?!」

 しどろもどろじゃないですか。嘘が下手すぎますよ。……音楽、聞きたくない気分だったんですかね。いつもご自分のソロ……のサンプル聞いてるんじゃ。

 ……ああ、そういう。納得したら、きゅっと胸が苦しくなった。

「ふふ。私の曲、飽きました?」

「は?!」

「良いんですよ。いつかは熱は冷めるものです。私のだけを聞いていて欲しいなんてそんな束縛しませんよ」

 嘘です。聞いていてほしい。ずっと、私の曲以外を歌わないで。聞かないで。みっともない我儘が心の奥で叫んでいる。でも表を飾るのは、いつもの棗巳波。どうしてこんなに私は歪なのだろう。好意なんて抜いたって、それくらい言っても許してくれるでしょう、この人は。笑ってくれるでしょう、狗丸さんなら。

 台本の上に重ねた手を、握り締める。泣くな。爪を立てて、自分を殺す。困らせないで。狗丸さんを、これ以上私から遠ざけないために、血を流すのは私自身でいい。

 ぽかんとした狗丸さんに、余裕の笑みを残して台本に視線を落とす。なんだっけ、このシーン。視界が滲みそうで、堪えるので精一杯です。何か言って、狗丸さん。じゃないと、私は台本に情けない涙を落としてしまう。

「でも、俺はミナの曲ずっと歌ってやるよ」

 息が、詰まる。喉の奥が、小さく鳴った。優しい。本当に、私はそれだけでいい。何て、返すべきなのだろう。ありがとうございます? 当然ですよ? 棗巳波なら、なんて言いますか、狗丸さん。

 ……どうして、そんなに思い詰めた顔、してるんですか?

「狗丸……さん?」

「俺は。何年経っても、踊れなくなっても、ZOOLを解散しても、誰もファンがいなくなっても。俺はミナのために、俺の好きなミナの曲をずっと歌うよ」

 真面目な顔で、ちょっと照れくさいのか顔を赤くして、狗丸さんはそう言った。

 私は、作詞作曲家としてなんて幸せな言葉を貰っているんだろう。狗丸さんの人生に、そんなに寄り添っていいなんて。下手をすれば、自惚れたくなる。もしかしたら、同じ気持ちかもしれないなんて、そんなあり得ない希望を。

 否定して。希望を消して。じゃないと、私は貴方にもっと、多くを望んでしまうから。

「狗丸さんの好きな曲って……何ですか」

 私の歌さえ愛してくれるなら、それでいい。だから、それを教えてほしい。何よりそれを、私は大切にするので。胸の奥でいつまでも響かせる音を、共有できるなら。

「……えっと」

「はい」

「俺は……ミナの曲、その、全部好きだし。つまり、そのだな。……み、ミナがす……好き、だ」

 ……どうして、いつもみたいに言ってくれないんですか。普段通りあそこの焼肉のカルビが好きだくらいのノリだったら、笑っていられたのに。笑えない。全然笑えない。だってこれ、そういう事でしょう。そんなに緊張で今にも心臓を口から吐いてしまいそうな顔をして言う好きなんて、青春ドラマのワンシーンでしか、見たことないですよ。

 私、面倒くさいんですよ。そんなので、良いんですか。私、曲しか出来ないんですよ。私は貴方をきっと、たくさん困らせてしまうのに。手の甲についた爪痕が、私を叱咤する。

 顔を、上げる。

「永遠なんて誓わなくて、結構です」

 嘘だ。私は永遠が欲しくてしょうがない。

「ただ、今の曲を、今の私を見て……ください」

 本当は、弱くて今にも逃げ出したい私を、きっと分かってないでしょうけど。いつかは、出せるかもしれないから、だから、見ていて欲しい。

「曲は、私そのものです。私が一番、伝えたいことがそこにあります」

「ミナ……」

「だから、見ていて、くれますか。今の私を、これからの私を。……狗丸さんの好きな私の、曲を、見てて、ください」

 もっとわかり易く言えない自分が情けない。これじゃ、狗丸さんには何にも伝わらないかもしれないのに。狗丸さん、とてつもない鈍感なんだから。

「……帰りに、ラーメン行くか」

「……仕方ないので付き合って、あげます」

「くくっ……そっか、うん」

 おかしそうに、狗丸さんが笑う。な、何ですか。私普通に返事してあげたでしょう?

 狗丸さんは立ち上がると椅子だけ引っ張ってきて私の隣に座った。きゅ、急に近い。

「ホント分かりづれえ。トラの言うとおりだ」

「はぁ……」

「ミナに告ってもノーはあってもイエスは絶対言わねぇから、拒否されなけりゃオーケーだって思えって言われてたんだ」

「な……何です、それ」

「……ほらよ」

 徐に、狗丸さんがイヤホンの片方を差し出す。……本当にポケットに閉まってただけじゃないですか。訳がわからないですね。ちらりと説明を求めて狗丸さんを見やると、にっと得意げな笑みを返される。

「付き合うって事でいいなら、一緒に時間待ちまで聞こうぜ。あ、ごめん今Re:valeのアルバムなんだけどさ」

「狗丸さん……」

「……俺、はっきり聞かねぇと怖いんだ。ごめんな」

 謝ることなんて何もない。ごめんなさい。私がはっきり素直に返せないばっかりに。好きなんて、何より怖くて言えないんです。否定されたら私がまた、終わってしまうから。それを素直に口に出来る狗丸さんは、凄い人ですよ。

 恐る恐る、震える指でイヤホンを受け取る。これが答えで、いいんですよね。狗丸さんを伺うと、何故か顔を覆って天を仰いでいた。

「い、狗丸さん?」

「ごめ……嬉しい……すっげー恥ずかしい上にめちゃめちゃ嬉しい……」

「……もう」

 笑ってしまった。それは私だって、そうなんですよ。顔に出なくて、自分でも悔しいんですけれど。

先程提示された時間より十分ほど早く、担当の方が飛び込んでくる。並んでイヤホンを共有していた私達に、仲が良いんですねと彼は笑った。

 

 

 慌ただしい日々に追われて、気付けば年が明けていた。ブラホワの勝利は得られなかったけれど、私達にはトロフィー以外の勲章を手にしたから、それでいい。

 亥清さんと御堂さんには私達のことは伝えた。亥清さんは「やっと?!」と言われましたし、御堂さんには何故か頭を撫でられた。意味がわからなくて非情に癪です。そもそも……大きく何かが変わったわけでも、ないので。仕事帰りのご飯は前からそうですし、嫌でも仕事では顔を合わせますし。恋人らしいことって、何ですかね。

「お前それ大真面目に聞くのか」

「いえ……分かりますけど。わかりますけど……、どうなんでしょうね」

「色気のない恋人同士だな本当……、何かないのか。トウマにしてほしいこと。もしくは、されたいこと」

 狗丸さんにして欲しいこと……。何でしょうね。他の誰にもさせられないこと、してもらえないこと。亥清さんと歌パートの確認中の狗丸さんをぼんやりと見つめつつ、思考を回す。マイクイヤホンの位置を調節する仕草を見つつ、つい笑った。

「私の曲を、歌っていてくれること、ですかね」

「……トウマには女を紹介しておくか……」

 即座に睨んでしまった。それは困ります。狗丸さんは、すぐハニトラに引っ掛かりそうですからね。

 それでも、劇的な変化が欲しいわけではないから。今日もあの人の声が響くステージが、私への最高のプレゼントなんです。

 

 狗丸さんみたいな人は、簡単に制御できると思っていた。初めて会った時は、少なくとも単純で扱いやすい存在だろうと軽く見ていたのに、今ではすっかり私の心を制御不能にしてしまった。扱いにくい私という存在をコントロールされてしまっている。本人には、その自覚はないでしょうけれど。

「ミナー、これ一緒に聞こうぜ」

「あらあら、今日は何ですか」

 今日も片方のイヤホンを差し出されて、受け取る。僅かに触れた指先に心臓が跳ねたのなんて、狗丸さんは今日も知らないに違いない。

「狗丸さんは、次どんな曲を歌いたいですか?」

「えっ、要望出していいのか?!」

「参考にする程度ですけどね」

 そっくりそのまま採用は約束できませんから。狗丸さんは腕を組んで唸る。真剣に考えるのは、本当にこの人らしい。勝手にスマホは起動して、音楽プレーヤーを起動する。あらこれは先日のIDOLiSH7の新曲ですね。

「Endlessの続きとか?」

「何ですかそれ、哲学みたい。終わらないものの続きなんて、下手したら終わりが来てしまいますよ」

「それはそれでおもしれーじゃん」

 何が面白いんだか、私には分からないですけど。

 永遠は、それでもきっといつか、終わりが来てしまうから。貴方に託した四分二十一秒の曲以上の世界を、上書きできるのは、私だけですからね。

「……やっぱり聞かなかったことにしておきます」

「何でだよ?!」

「ふふ、私はいつでも過去の私が最大のライバルなので」

 ぽかんとする狗丸さんに笑みを返して、曲を再生する。

 愛だの恋だの、私が書くには馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしい曲ばかりが世界には溢れていると思っていた。でも今なら、少しわかる気がした。自分で書くのは、まだもう少しだけ時間がかかりそうですけど。

 

 願いを込めた曲を世界にばら撒く。桜さんが芽吹かせてくれて、ZOOLが育ててくれた私の曲を。

――だから、これからも私のためだけに歌い続けて、狗丸さん。

 

Fin