第二話 空のない風見鶏

 ずっと、話しかける声には気付いていた。フィルター越しに聞くような、あるいは無線の中から聞こえる小さな断続的なノイズのようなはっきりと聞こえては来ない声。

 聞こえないように耳を塞いで来たのはもちろん、フーガ自身だったが。知らない声が、いつしか聞き覚えのある声になって、暗く深い光の刺さない心の底に届いていた。

 死ぬのはきっと、簡単だった。それでもフーガは生きていた。拾い上げられた命を憂いて世界を拒絶しても、死ぬ事すらなく。それは生かされていたわけではなく、もっと単純に……自分自身がまだ生きていたいのだと、やっと認識する。

 成したいことがあるわけではなかった。ただ、かつて一人で痛みと恐怖に震えていたあの時と違ってそばで案じてくれる声があったから、安心が灯り続けた。欲しかったのは、たったそれだけ。だから。

――怖いものは、何もないッスよ。

 そう言ってくれた声の主をちゃんと認識した瞬間に、生きていていいんだと安心してしまった。背中をさすってくれた手の温もりも、冷たくなった得体のしれない味の悪くないスープも、フーガにとってはずっと求めていたものだったのだから。

 扉の開く音がして、微睡みからフーガは目を覚ます。視線を向けると、まだ見慣れない青年が、今日も両手にたくさん物を抱えていた。

「あ、起きたッスね。顔色も良さそうだし、安心したッス。包帯変えますからね!」

「……うん」

 心を閉ざしていた頃から毎日聞かされた言葉が、沁みる。見られないように、フーガは滲んだ涙を拭った。まだ完治していない傷口が痛んだが、恐怖は感じない。生き延びた証が、今は嬉しかった。

 

 名前を教えて欲しい、と言われたのはフーガが泣き崩れた日から、二日後のことだった。思わずコノエはぽかんとする。

「なまえ……」

「……なんで、知ってんのか分かんないけど。……僕はフーガ……、です」

 取ってつけたような語尾に、コノエはつい噴き出した。初対面であんなに溌剌として、あるいは狂い叫んでいたとは思えないほどだ。声音があまりに弱々しく、対比が凄まじい。

 笑いが込み上げて、コノエはつい顔を逸した。不審げなフーガの視線が刺さる。軽く咳払いをして、改めて向き直る。

「や、うん、すんません。えっと、コノエって言います」

「この……え」

「はい。……よろしくッス、フーガくん」

 フーガは小さく頷くと、小さな声で何度かコノエの名前を呟いた。慣れない言葉を転がしているのだろうが、どうにもくすぐったい。

「今日もちゃんと食べて、ゆっくり寝て……と言いたいとこッスけど、そろそろ歩けるなら歩かないとッスね。寝てたら筋力が落ちるばっかりッスから」

「……でも、外……」

「大丈夫ッス。カバネさんには許可貰ってるんで。頑張るッスよ。……じゃないと、フーガくんが困るんで」

「僕が……?」

 曖昧に笑って、コノエはこの話題を一旦切り上げる。フーガもそれ以上問い掛ける事は無かった。聞かれたところで、コノエは嘘しか言えない。今は、フーガには嘘は言いたくない。折角生き直そうとしているのに。

――ここから出て一人で生きる為に歩けなんて、残酷ッスよね、ホントに。

 でも、カバネの忠告は無視出来なかった。コノエには終わりがない。永遠の命を持つなんて、バケモノでしかないのだ。早く普通の人々の元へ返さないと、フーガ自身がきっと困る。何より、コノエにとっても普通の人間と認識されたまま見送りたい気持ちが、膨れつつあった。

 

 光の差さない地下空洞。その中に作られた住居は、最低限を残して随分朽ちて来ていた。三人しか暮らさないこの空間では、広すぎるとは常々感じる。まだ少し足取りのふらつくフーガとの距離に注意を払いつつ、コノエは決めていた散歩コースを進んでいた。

「あ、そこ気をつけて。古くなってるんで割れるかもしれないッス」

「……人が全然、いないんだ」

「そー……ッスね。今はもう、住んでないッスよ。昔は賑やかだったッスけど」

「ライフラインもちゃんとあるのに……?」

「……ホントッスね」

 言われてみれば急に居なくなる理由は見当たらない。時間を掛けて減っていったのが事実だが、フーガからしてみれば、コノエは少し年上程度の認識に違いない。普通は、そうだ。千年も生きているなど誰も信じない。語れることは数多くあるこの場所だというのに、フーガには聞かせられないことしか、残っていないのだ。

 差を痛感する。自然と口が重くなった。

「……暗くて空が見えないのは、なんか変な感じだけど。……いいな。世界には、こんな風に暮らせるところが、あったんだ」

 寂しそうな声音に、思わず振り返る。周りに触れないように気を払いつつ、フーガは暗い空間を眩しそうに見回していた。コノエにとっては憂鬱な静寂な空間だ。だが、フーガにとっては心の奥底でずっと願い続けた平穏な場所に違いない。

――ここにいて良い。

 そう言いかけそうになった自分を、コノエは慌てて押し留める。フーガとコノエとは、生きていく時間が違う。苦しむ未来を分かっていて、気軽に口にできる提案ではなかった。

「……そッスかね。俺は……外のほうが、良いと思うッスよ」

 フーガは傷付いたような表情を見せる。そうなるだろうと分かって返した言葉とはいえ、コノエ自身にも痛みが返る。

 好かれないように、ここに居心地の良さを覚えないように。フーガの理想の空間がここだとうっすら感じつつも、コノエはそれを受け入れるわけにはいかなかった。少なくとも、……長期的には。

「水の音がする」

「ああ、フーガくんも流れ着いたじゃないッスか。あそこですよ」

 下を指差す。灯ったライトが、水面で光を反射して不規則に揺れていた。覗き混んだフーガは、寂しそうに小さく微笑む。

「……あそこで、死んでれば良かった。……そしたら、リーベルさんを困らせることも、アルムを傷つけることも、無かったのに。……僕なんて、生きてても、何も出来ない」

「フーガくん……」

「やだな。生きるの、やっぱり怖い。痛い……」

 認識しているのかしていないのか。フーガは震えも声を詰まらせることもなく、ただ涙を流していた。

 寄り添うことは今後のフーガのためにならないと、コノエも分かっていた。それでも、コノエの十分の一すら生きていない足元の覚束ない少年を無視は出来ず。コノエが黙って背中を擦ると、フーガは一度だけ鼻を啜った。

 

 ほんの少し歩いた程度ですっかり疲れ果て、体力が落ちたことを痛感する。少しだけ眠ったつもりが昼を飛ばして夕食の時間になるまで眠りこけ、コノエが夕食を持ってきた足音で目を覚ました。慌てて体を起こすとめまいに襲われ、頭を抑える。コノエが笑ったのが聞こえた。

「急に起きるのは良くないッスね。それに、もっと寝ていても良かったッスよ」

「でも、ね、寝てばっかだし」

「怪我人は体力回復が大事ッス。寝るのは一番簡単で重要な回復方法なんで寝るのはフーガくんの一番大事な仕事ッスよー」

 そうかもしれないけど。そう言われては何も反論できない。ぎゅっと唇を噛み締めて目を伏せると、コノエが傍らに腰を下ろした。

「今は、怪我を治すことだけ考えてれば良いッス。フーガくんは怪我を治して、歩けるくらい元気になってくれたら、それで」

「……あの」

「なんすか?」

 ぎゅっと手のひらを握り締める。そうでもしないと、体が震えてしまいそうだから。

 ぽかんとしたコノエを見やり、フーガは口を開く。

「……二人に、会わせて……くだ、さい」

「二人って……クオンさんとカバネさんのことッスか?」

 頷く。フーガにはあの二人に頭を下げなければならない理由がある。向こうは顔も見たくないかもしれない。それでも、避けては通れない。

 コノエは腕を組んで、小さく唸る。フーガが認識している限り、コノエはあの二人の番人だ。それに何より、今のフーガにはコノエしか頼るものがない。最終的には守ってくれないとしても。

「じゃあー……、今日は流石に無理だと思うんで、明日時間あけてもらう……って事で良いッスか?」

「え、会って……い、いいの……か?」

「もちろんッスよ! クオンさん、フーガくんのこと気にしてたんで、嬉しいと思うッス。じゃあ俺話してきますんで、今日はこれで! あ、食器は明日の朝回収するんでそのまま置いといてくださいッス。食べたら薬飲んで、早く寝るッスよ」

 ぱっと立ち上がると流れるように言葉を紡いでコノエは踵を返す。俄然元気なコノエに、フーガは呆気に取られた。コノエが、扉を閉めようとした瞬間。

「あ、こ、コノエっ」

「はい?」

 咄嗟に呼び止めてしまったものの、言葉は喉に詰まってしまった。言うべき言葉は、山ほどあるはずなのに。不思議そうに首を傾げたコノエに、フーガはそれとなく視線をそらす。

「その……、……おや、すみ……なさい」

「ちゃんと食べて、良く寝るッスよー。また明日ッス、フーガくん」

 コノエは明るく笑って出て行った。扉が閉まると、急に心細さが顔を出す。どうしても、一人は怖い。ほとんど治った傷口が、また開いてしまいそうな錯覚をする。

「あした……明日が来たら、平気だ」

 光の届かないこの地下でも、朝が来ればコノエが顔を出す。フーガにとっては、それが朝を迎えた合図だ。銃声も爆発音もしない。ここには怖いものはないのだから、怯えながら眠る必要は、一つもないのだ。

 それでも不安が足を掴んで離さない。無心で食事を胃に詰めると何かを考える前に眠りへと逃げた。

 

「あぁ、良かった。元気になったみたいで、安心したよ」

 翌日、昼に差し掛かる頃約束の場所にフーガを連れて行くと、待っていたのはクオンだけだった。ソファに座って穏やかに微笑むクオン以外には室内には誰もいない。念の為カバネの姿を探して見回すと、首を振られた。

「カバネは会わないって」

「はっきり言うッスね?!」

「意地悪じゃないよ。カバネにはカバネの、思うところがあるんだろうし。それより……初めまして、と言ったほうがいいのかな。僕はクオン。よろしくね、フーガ」

「……その」

 言葉を詰まらせたフーガをコノエは一瞥する。見るからに緊張で顔が強ばり、むしろ折角戻ってきた顔色が真っ青だった。クオンはにこにこと邪気のない笑みを浮かべているが、フーガからしてみれば得体のしれない反応だろう。殺そうとした相手が自分に笑いかけているなど、コノエがフーガの立場でも背筋が寒くなる。

「……僕……、あ、の……その」

「謝罪は必要ないよ、フーガ。あの時君が殺そうとしたのは、僕達じゃない。君自身だ。とりあえず座って。君はまだ、治りきってるわけじゃないんだから」

「そーッス、ね。よっし、フーガくん、座った座った。大丈夫ッス、取って食うような人じゃないんで」

 肩を押して、フーガを促す。何か言いたげな顔はされたが、対話はクオンの望みでもある。コノエにはそれを叶える使命があった。

 正面に座るには抵抗があったか、少し場所はずらしてフーガも座る。ほっと安堵しつつ、コノエは定位置にあたるクオンの後ろへと立った。フーガは居心地が悪そうに、目を伏せてしまったが。

 会いたいと言い出したのは、謝罪のためだ。それを不要と言われては、フーガは何を言っていいのかわからないに違いない。

「……フーガは動き出そうとしている。それは羽ばたくこと。風を掴むこと。フーガは、そういう運命の紡ぎ方をするんだ」

「なに……言ってんの?」

「いや、完全には分からなくて良いッス。まあ……要は、元気になって、良かったなぁというクオンさんなりの言い方……ッスよね?」

「うーん、少し違うけど……僕はね、教えて欲しいんだ、フーガ」

「え……?」

 クオンが指を組み直す。ふっと空気が変わった気がした。クオン特有の……空間を穏やかに支配する空気。相手の意識を自分に閉じ込めてしまうような、クオンにしか出来ない気配だ。ちょっとした高揚感に似た感覚がコノエの肌をぞわりと泡立たせた。

「……帰る場所を失ってしまった君は、その羽で何処へ向かうの?」

「僕は……」

「風は、同じ場所で渦を生むことはあっても、止まることはないよ。それはもう、風ではないから」

「……リベリオンに……戻って……罪を、裁かれに……」

「それが、コノエが救い上げてくれた君の命の使い方?」

「ちょっ……クオンさん、そんな言い方は」

 咄嗟に口を挟んでしまった。クオンは笑みを浮かべたままコノエを見やった。責めているわけではないのだろう。コノエはフーガを勝手に助けただけだと、クオンも分かっている。わかっていて……そんな言い方しか出来ないのも、クオンらしいのだが。

「ほかに……他に、何ができるんだよ……」

「フーガくん……」

 痛みに満ちた声が、搾り出される。俯いたフーガは、一人で震えていた。

「僕は、なんにも、できないのに。何にもなれないのに」

「それは、リベリオンのフーガだよ」

「え……」

 フーガは顔を上げる。コノエも、思わずクオンを見てしまった。クオンは動かない。ただそこに、今日も自然にいる。

「今のフーガはただのフーガだ。人は、同じなんて一つもない。同じでいいなら、要らないよ。君がここで生きているのは、君がフーガとして生きるためだ」

「でも、僕は……」

「……ごめんね。まだ万全じゃないのに、こんな話は疲れてしまうね。誰かと話せるのが嬉しくて、僕もつい、焦って話してしまった」

「嬉しい……?」

「うん。……見て通り、ここには僕達しかもういないから」

 フーガは表情を曇らせた。悪いことを聞いた、とでも思ったのかもしれない。気にすることは何もないのだけれど。もう何百年も……人の姿は、見ていなかったのだから。

 折角の客人も、直ぐに立ち去った。長居させることは元より叶わないのだが。

「治って、心が決まったら教えてくれるかな、フーガ」

「……うん」

 それはすなわち、ここを出ていくときだと遠回しに行っていることを、クオンもフーガも、気付いているのだろうか。コノエが過ぎった不安を他所に、クオンはここでの生活の感想をフーガへと問い掛けていた。

 

 眠そうな顔で、フーガは歩いていた。気を抜いたら手すりを乗り越えて落下しかねない危うさに、コノエはそれとなく手首を掴んで部屋への道を歩かせる。

「……へんな、やつだった」

「めちゃめちゃ失礼な発言は今は許してやるッスよ。……感謝するッス。クオンさん、たくさん話が出来て喜んでましたからね」

「怖く、なかった」

「……優しいッスよ、居なかったッスけど、カバネさんも」

「コノエも、……優しいよ」

 ぽつ、と呟いたフーガの声に、思わず目を向ける。フーガは目を伏せて、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が、瞳に影を落とす。

「……ありがとう、ございました。……助けてくれて、優しくしてくれて」

「フーガくん……」

「あと、ごめんなさい。死にたいなんて、言って。食事も、毎日作ってくれたのに、食べなくて、すみません。僕なんて、憎いはずなのに。いっぱい……謝らなきゃ、いけない、です」

 泣きそうな顔で、震えながらフーガは初めて謝罪を口にした。それも別段、コノエの気にしていないことを。むしろ、押し付けがましくしてしまったんじゃないかと、危惧していたことを。出かかった言葉で、喉が、熱くなる。

「……腹、減ってないッスか、フーガくん」

「え……」

「作れそうなものだったら、何でも作ってあげるッス。……フーガくんが元気になってくれるなら、俺はそれで満足ッスよ」

「コノエ……」

「それに……ちゃんと後悔できるフーガくんなら、もう間違わないッスよ」

 恐怖と孤独で、そうでもしないと自我を保てなかった場所には、もういない。諍いがない世界があることを知ってくれたフーガなら、道を踏み外すことは、きっともうない。少なくとも、コノエはそう信じている。

「ゆっくり考えるといいッス。ここは暗くて変化のない場所で俺にはつまらないッスけど、フーガくんが怖いものは何もない。……答えが見つかるまでは、俺の手伝いでもしてくれたらいいッスよ」

「……うん。……ありがと、コノエ。……ほんとに」

――助けてくれてありがとう。

 ほとんど聞こえないような小さな声を、コノエの耳はちゃんと拾った。虚空を見つめて死を願っていたフーガも、もう、ここには居なくなっていた。

 

 

 知らないことが、山程あった。こんな地下だというのに、電気が通り、水道が完備され、陽の当たらない土の上では木や草に花が咲いて実をつけている。コノエ曰く、観賞用の植物は殆どないそうだ。畑の手入れとライフラインのメンテナンス。それから食事を作って掃除や洗濯。生活のすべてをコノエが担っていた。

「……フーガくん、手際は悪くないんすけど……雑ッスね」

 至極がっかりされた声で言われ、フーガは慌てて振り返る。鍬を土に突き刺して腕を組むコノエは、さながら現場監督だ。簡単だからと種まきを任されたのだが、どうやらコノエの目には不合格らしかった。

「だ、だってやったことないし」

「それは経験値とは違うッスよ。はー、アルムくんとは違った残念さッスね……」

「アルムもやったんだ」

 あの無邪気な笑顔を思い出して、次いで連れて行かれた際のフーガの名前を呼んだ悲痛な声が鼓膜に蘇る。ぎゅっと胸が詰まった。

――お前なんかが僕の名前を呼ぶな。

 聞こえていたかも分からない。聞こえていなかったら良いなんて、都合の良いことが今更後悔になって押し寄せる。後悔することしか、今はない。

「……謝りたいな……」

「アルムくんに、ッスか?」

「うん。……許してくれないかもだけど。僕なんかに……会いたくもない、かもだけどさ」

 それでも、アルムといた時間は、楽しかった気がするのだ。今となっては、よく分からなくなってしまったけれど。罪悪感はあれどその先に何を求めているのか、フーガは自分自身のことが良く分からない。

「……良いんじゃないッスか、それでも」

「え……?」

 コノエを見やる。鍬で土を均すコノエは、楽しそうに微笑んでいた。

「難しく考えるのは、今じゃなくていいんすよ。……フーガくんは、アルムくんに会いに行くっていう目標が一つ、できたッス。それは、良いことッスよ。一歩前進ッスね」

「……ちっさくない?」

「ベッドで泣いて暮らしてるよりは良いと思うッスよ。俺は」

 屈託のない笑顔で言い切られ、フーガは口を噤む。それはほんの数日前までのフーガそのものだ。それに比べれば……確かに、マジではある。

「……なんか、コノエ嫌いだ」

「面倒みてあげてる相手に失礼ッスね?!」

「それは……ありがと」

 何か言いかけて、コノエは押し黙る。振り上げた拳の先を見失った顔。つい、フーガは笑みを零した。

 

 見上げても、空は見えない。元々霞んだ雲の向こうにアークが見下ろしてくるだけの空だったが、それでも地下から洞窟の天井を見上げるのとはやはり違う。空が恋しいなんて思う日が来るとは思ってもいなかった。

「……生きてて……いいのかな、ほんとに」

 つい、弱音を零す。コノエに聞かれていたら当たり前だと笑われてしまうのだろうけれど。フーガには、世界はまだ、怖くて大きすぎるものだった。

「生きるのは大変だけど……許可がいるものでもないよ」

「あ……」

 足音もなく、淡い光が煌めくように声が滑り込む。クオンが傍らに立ち、フーガの隣で同じように上を見やった。

「何も無くて、つまらない空に見えるね」

「これは、空じゃない」

「うん、知ってる。でも、僕らはこれを空としないと居られないんだよ」

 つい、眉を顰めた。地上に出れば、良いのでは。閉じ込められているわけでもなく、クオンたちは望んで地下にいるのだ。フーガが知らないだけで、出てはならないルールがある可能性は、あれども。

「……ねぇフーガ。君は、明日どんな自分でいたいと思う?」

「どんな……自分?」

「うん。僕はね、カバネと他愛ない話をしたいな。コノエにお茶をいれてもらって、良ければフーガもいて欲しい。そこにいていいよと言われる自分でいたい」

 それは……今でも可能なんじゃ。そう言いかけて、フーガは思い留まる。クオンが言いたいことは、きっとそんな表層の話ではないのだ。

 それでも引け目とコンプレックスが足を絡めとる。動かないでいろと、縛り付ける。自分で自分を一番殺そうとしているのが、フーガという本質なのだ。

「僕は……なにも、出来ないから……。何をしたいとも、言えない」

 踏み出して穴に落ちるのも、怖い。間違えたら今度こそ終わりだという恐怖は、いつまでも消えないままだ。

「別に、何かが出来なくちゃいけないわけじゃない。でも、きっと意味はあるんだ。ここにフーガが来たことも、生き残ったことも。……今はわからなくても、きっといつか」

「なにも……分からなかったら?」

「それは考えるために存在したんじゃないかな。自分を見つめるのが、人は一番難しいんだよ」

「……ずるくないか、それ?」

「じゃあ僕はもしかしたらフーガに意地悪を言うためにここに居るのかもしれないね」

 蝶が舞うようにクオンの言葉が踊る。アルムとは違うが、それと似たものがクオンにはあった。アルムもクオンも、話していると思考が穏やかになるのだ。

 並んで、昼か夜かすら分からない空洞の天井を見上げる。星など、見えるわけもなかった。

「……恩返し……はしたいと、思ってる」

「うん」

「明日……もっと、コノエの手伝い……する。クオンには、何したら、いい?」

「コノエの手伝いをしてあげて欲しいな。喜ぶと思うから。……その後、一緒にお茶をしてくれたら嬉しい。今度は、カバネも来てくれるといいけど」

「……うん」

 自然と、笑みが浮かんだ。やっと笑えるようになった自分に、フーガは安堵した。

 

 また少し表情に明るさが戻ったフーガを見送って、クオンはどこからか滑り込む風を頬に受けていた。いつだってこの空洞には細やかな風しか入らない。先日の侵入者達が開けた穴が、きっと風を呼び込んでいるのだろう。風向きのせいか、普段と少し香りが違っていた。

「……何も言わないのは、怒っているのかな」

「怒っていない」

 即答されて、つい苦笑を零す。こんな風に言葉を返してくれる日がまた来たなんて、嬉しくなっているのはカバネには秘密だ。振り返ることなく、クオンは瞳を閉じる。

「そうだね。カバネはいつも冷静で……優しい」

「そんなことはないだろう。……俺はリーベルに解呪の話をしなかった。それさえ行えば少なくともアルムは天子の呪いから解放され、それ以上リーベルが呪いを受けることもないのに」

「それは、優しいからだよ。……僕達みたいに、口をきくのが怖くなったらかわいそうだからって、カバネは思ってるんだ。想いは維持するのが、難しいから」

「……何が言いたい?」

 瞳を開く。クオンの見える世界は、いつもぼんやりとした明かりに照らされた静かなこの密室だった。それを嫌だとは、思わない。でも。

「リーベルとアルムは特別な運命を背負ってしまっている」

「ああ、そうだな……」

「だからこそ、僕らはここまで生きて、ここにいる運命を背負ってしまったんだ。……けど、彼らは僕らじゃないから、別の答えを出すかもしれない」

「……ああ」

 同意の声に滲んだ温かさを、クオンは噛み締める。人はいつだって、言葉が足りない。こんな時に言うべき言葉が、クオンにすらうまく紡げない。さっきまで、散々フーガに言葉を編んでいたのに。

「見届けてこいと、言っているのか?」

「……少し、……違う、かな」

「違う?」

「コノエに、……普通を、返してあげたい」

 珍しくクオンの中に芽吹いた願いだった。祈りのような聖なるものではなく、純粋な欲としての願い。人らしい、願い。黙り込んだカバネには、クオンの真意が読めないのだろう。笑みを浮かべて、クオンは口を開く。

「フーガはね、普通の子なんだよ。人並みに傷付いて、憧れて、怯えて、嫉妬して、笑って。怖いから身を守るために爪を牙を振るうんだ。……そうある事を、フーガと居ると、僕は思い出した。きっと、コノエも」

「……普通、か」

「うん。……僕らの命は、あと何千年続くか分からない。分からないけど……普通を、一度くらい思い出しても、いいんじゃないかな」

「……アークになら……、書き換えた呪いさえ変えられる何かが、あると?」

「悪魔の証明だね」

 ふっと、カバネが笑ったのが聞こえた。カバネも、変わろうとしているのだ。それがクオンには何より嬉しい。

「……今天子に死なれると、何処かが滅ぶだろう。それは、止めなくてはな」

「……ごめんね、頼ってばかりで」

「何を言ってるんだ?」

 一歩、踏み出した気配に振り返る。クオンの脇に、カバネが立った。その事実にクオンは息を忘れる。

「その為に生きてきたんだろう、俺も、クオンも」

「……カバネ」

「あまり、期待はするな。俺にも、リーベルにも……アルムにも」

「しないよ。……信じているだけだからね」

 そういう所だ、とため息まじりに零したカバネに、クオンは笑みを零す。大丈夫、と心の中で呟きながら。千年もの間黙って地下に肩を寄せ合い続けた自分たちが動き出すより大きな出来事は、きっとこの世界の何処にもない。

 

 カバネがアークへ向かうと聞いて、一瞬コノエは止めそうになった。だが、クオンの表情は完全に送り出すことを決めたそれで、コノエが口を挟める訳もなく。せめて同行をとも考えたが、クオンを一人残すリスクが答えを躊躇した。

「……僕も行ったら、駄目?」

「は?」

 呆気にとられる。どんな冗談かと思い慌ててフーガを見やるも、その顔は至極真面目だった。

「邪魔だ。お守りをする余裕はない」

「じゃあ勝手に行く」

「いやいやいやいやフーガくんそれはないッス。一週間前まで飯もロクに食わないで寝てたんすよ? そもそも、アークに行くってことは、それはつまり戦うことは避けられないッスよ?!」

「分かってるよ」

「怪我しても俺助けてやれないッスからね?!」

「それでも、アルムをここで助けに行かなくてあいつが死んだりでもしたら、僕は一生自分を許せなくなる」

 初めて強い口調で返され、コノエは思わず息を呑む。フーガの瞳に迷いは、消えていた。コノエの言っていることも覚悟の上での発言だと、伝わるほどに。

 引き留めるすべが見つからず、コノエは目を逸らした。

「……心配してくれて、ありがとう、コノエ」

「心配とかじゃ……」

「でも僕は……帰るところがない」

「いや、だから……!」

「だから、見つかるまで、ここに居たい。……とりあえず、今出ていって……見つからなかったら、戻ってきて……い、いです……か」

 フーガの語尾が弱る。コノエは呆気にとられる。クオンはくすくすと笑いだした。

 今、なんて?

「だって、コノエ。どうする?」

「え、俺?! ここの主はクオンさんかカバネさんッスよね?!」

「こいつが聞いてるのはお前だろう、コノエ」

「えぇ……ぇえええ……」

 何故急に全権限を与えられたのか分からない。分からないが、不安げな表情で目を伏せたフーガに答えは、返さなければ。

 頭を掻き毟る。かつて、千年近く前に部下がいた頃の記憶が一瞬だけ脳裏を掠めた。

「はぁぁぁ……いーッスか、フーガくん」

「うん」

「絶対死ぬのは駄目ッス。それから、カバネさんの邪魔をするのも。無理だと思ったらちゃんと退いて、命を捨てるような行動は駄目ッス。それから」

「注文が多い」

「これが最後ッス。……俺もクオンさんもここ居るッス。だから、カバネさんと二人で、ちゃんと帰ってくること。……それだけは、何があっても約束してくださいッス」

 フーガは迷わず頷いた。止めても聞かないだろう。コノエにできるのは、ここまでだ。預かっていた銃を返し、何かあったときようにと最低限の医療資材を持たせる。カバネは……何だかんだ面倒は見てくれるだろうが、不安は尽きない。

 二人を送り出しても、コノエはなかなかそこから動けなかった。

「……ねえコノエ」

「はい」

「フーガが戻って来たら、ちゃんと……話そうね、僕達の本当の事」

「……そーッスね。……取りあえずは……無事の帰還を祈る他、ないッスよね」

 うん、とクオンが頷く。いつ、戻るかは分からない。だがコノエがすべきことはいつだって決まっている。この場所を、維持することだ。

「……水やり、してきます」

「それ、僕も手伝っていいかな、コノエ」

「え?! いや、クオンさんのお手を煩わせることは」

「僕がそうしたいんだ。……それにね、カバネと……昨日話したんだ。僕らは千年近くここで腐ってたんだから、これから千年かかるかもしれないけれど、今度は死ぬ方法を探して生きようかって」

 コノエは目を見張った。それは、望んだことではあるかもしれないが……絶対に口には出来なかった願望だ。クオンは微笑みを浮かべたまま、天井を仰ぐ。

「……普通に生きて、普通に死ぬ。……僕らもそれを望んで良いと、背中を押された気がしたんだ」

「背中を……」

「そう。風は、予感を運んでくるものだから。……風向きが……変わったんだよ。きっと、コノエのお陰でね」

 ぽかんとするコノエを残して、クオンは踵を返す。そのまま見送りそうになって、慌ててコノエはクオンを追い掛けた。

 風が、地下空洞に滑り込む。そよ風が、土からやっと顔を出した新芽を音もなく揺らしていた。

 

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