第四話 Linkage

「明日の朝食、本当に惣菜パン一個で良いんですか? 私少し遅いので、作ってあげてもいいんですけど」

「俺が多分寝坊するからへーきへーき。ミナは寝てろー」

「いえ……、狗丸さんが動いたら大体起きます」

 めっちゃ目覚めいいな、って笑いましたけどそこ気を遣ってほしい所なんですけどね。まあ……離れると咄嗟に引き留めようとしてしまうから目が覚めてしまうんですけど、多分。閉店間際のスーパーに滑り込んで手早く買い物を済ませた帰り道。住宅地の通りに入ると、狗丸さんは迷いもせずに手を繋いできた。……所謂恋人繋ぎで。

「……見られますよ、人に」

「そんな嫌なのかよー……」

「……嫌とは、言ってません」

 恥ずかしさから出る咄嗟の言葉なのに、いつまで経っても分かってくれないですよね、この人。もう何年になるんですか、私達。離されても寂しくはなるので、握り返す。悔しいですけど、私のペースは乱されてばっかりです。

「へへ……」

「ニヤけないで。……もう」

「許せって。何回も言ってるけど、当たり前に隣に居てくれるのがすげーありがたいんだよ」

「何度も言いますけど、それは狗丸さんが私を置いていった、あるいは連れて行かなかったせいですからね」

 うん、と楽しそうに頷いて、狗丸さんは前を向く。何度このやり取りをしましたっけ。段々、お互いの照れ隠しにこの話題を使っている気がしますね。それでも嫌な気がしないのは、今隣に居てくれるからなんですよね。隣が未だ空っぽだったら、私はそろそろ本当に人恋しくなってどうでもいい人と結婚会見をしていたかもしれない。そうしたら、狗丸さんは泣いたり怒ったりしてくれたんですかね。少し興味はあります。

「狗丸さん」

「お、何だ?」

「……帰ったら、コーヒー淹れてください」

「任せろ。ミナんちのコーヒーメーカーの使い方覚えたしな!」

 自信満々ですね。粉の量、この間やっと適量を覚えたくらいなのに。まあ……考えていたことと、全然違うことを言ってしまった私も大概ではありますが。

 繋いでくれた手が、今日も温かい。この人が居てくれる日が、ずっと続いてくれたらそれでいいですね、やっぱり。

 街灯の明かりがぽつぽつと道を示す静かな通りを、いつもよりゆっくり歩いたのは狗丸さんには秘密です。

 

 仕事で遅くなって、自宅に帰るより近いからなんて言い訳をして訪れた私を、狗丸さんは嫌な顔一つしないで笑顔で迎えてくれた。ここ三日くらいはラビチャの返事もろくに出来てなかったので、寂しかったのもありますけど顔を見たらほっとしてしまいましたが。

「明日の仕事は? マネージャー迎えに来ないのか?」

「来るとは思いますよ。今日は狗丸さんの家に泊まると伝えてきましたので」

「言ったのかのよ! あの人のこえー顔が目に浮かぶ……」

「公認だからいいじゃないですか」

「そりゃまあ……そうかもしんねーけど……」

 歯切れが悪いですね。狗丸さんにとっては逆らえない存在には変わりないですけど。置かせて頂いてる変えの服に着替えて、少し肩の力が抜ける。仕事と思うとどうしても肩に力が入ってしまうんですよね。

 淹れていただいたコーヒーのカップに口をつける。ちょっと熱いですけど、ほっと息をついた。

「腹減ってねーか?」

「大丈夫です。この時間ですし、食べると体に出ますから」

「真面目っていうか、ストイックだよなー。俺ならカップ麺とビールのセットにしちまうとこだよ」

「ふふ。そうしたい気持ちが無いわけではありませんよ。……維持って、大変なんです」

「そっか。やっぱすげーな、ミナは」

 分かってないんだか分かってるんだか。隣に腰掛けた狗丸さんは特に何も言わず私の手を握る。最近、会うたび手に触れてくれてる気がしますね。それはちょっと……照れ臭いですけど、嬉しさが勝る。

 肩に頭を預けると、心が解けるのが分かった。

「狗丸さん」

「んー?」

「……キス……して欲しいです」

「素直だな?!」

 うるさいですよ。声を裏返すことないでしょう。わざわざここに来た意味を考えて欲しい。ちょっとむっとして目を伏せると、狗丸さんの手が頬に触れた。顔を上げる前に唇は重ねられてしまったけど頼んだのは私ですから、抵抗なんてしない。三日……って思うと、胸がぎゅっと苦しい。やっぱり私は、一日だって離れたら寂しいんですよね。

「……明日は、早いのか?」

「どうしてそんな事聞くんです?」

「俺はキスだけじゃ足らないなーと」

「……そこ察してください、いい加減に」

「あ、そーいう。てか、ミナが散々お預けさせて来たんだからな。分かりづれーんだよ。あと」

「いえもう言わなくて良いですから。……痕は、残さないでくださいね」

「頑張る」

 そこも真面目に答えなくて良いんですってば。押し倒されても拒否はしないですし。その……まだ片手で数える程しか、経験値重ねてないですけど。

五年掛けてやっと最近ここまで辿り着けた私達だから、相変わらず何もかもがぎこちない。

 

 局内で御堂さんに遭遇するのは珍しかった。最近は番宣で番組に顔を出すことがなかったですからね。また来期が近付けば伺うことも多そうですが。

「最近は上手くやってるようだな。一緒に暮らさない方が平穏とか、お前達にしては意外だ」

「お互い行ったり来たりはしていますよ。仕事の時間もバラバラですし……一緒に生活するのは難しいんです」

「顔にはそれじゃ嫌だって書いてあるぞ」

 ……それは、否定できませんが。買っていただいた缶コーヒーに口をつけて、天井を仰ぐ。昔なら、四人で缶コーヒーとか飲んでましたね。ふと思い出して和んでしまうくらいには、感傷に浸る余裕があるのは、良いことでしょうけど。

「約束したので。一位を取ったら、その時は一緒に暮らそうと」

「また待つ気なのか? お前も物好きだな。そばに来てるんだ。たまには強引に奪っていけばいいだろうに」

「そうしようとして、失敗したんですよ、私は。……側にいたら、甘えてしまうから。多分、お互い。だから……せめて二人で叶えたい夢の一つを叶えてからにします」

「……そうか」

 ぽん、と御堂さんが背中を叩く。この人には狗丸さんと付き合い始めてからずっと、気を遣ってもらってますよね。亥清さんもですけど、嫌な顔一つせずZOOLで居させてくれた。狗丸さんとの関係を続ける限り、これからも迷惑はかける気がしますね。ふと、笑みが溢れる。

「その先に、ZOOLの夢をきっと繋いでみせますから」

「期待しないでおく。取り敢えずあの音楽馬鹿をトップに立たせてやれ。それはお前しか出来ないことだ。それと、ああ見えて意外と今、トウマは女から人気だからな。頑張れよ」

「それは良いことですよ。捨てられたら、私は二、三日立ち直れないかもしれないですけど……普通、その方が自然でしょう。狗丸さんが幸せなら、私は文句言いません。曲は未練がましく押し付けてあげますけどね」

「それは全然納得してない言い方だぞ。お前らしいが」

 苦笑いを返す。昔だったらすぐに嫌な気持ちに飲まれて、不安でたまらなかったでしょうね、この話題。私も良く言えば大人になりました。あるいは……自信があるのかもしれないですね。あの人はもう私を離したりはしないと。そう……やっと信じられるようになった気がします。

 時間だからとクールに手を振って去った御堂さんを見送って缶コーヒーを飲み干す。多少不味くても狗丸さんがあたふたしながら淹れてくれたコーヒーの方が、やっぱり私は好きですね。

 

 今日行くから、と連絡を貰って、ちょうど良かったので駅前で待ち合わせた。買い出しもしたかったところなので、荷物持ちは甘んじて受け入れて貰いたい。到着時間に合わせて買うものだけ買っておくと、狗丸さんはすぐに察してかエコバッグを私の手から抜き取った。本当、こういうの、慣れては来たんですよね。それは素直に嬉しいです。

 狗丸さんが日本に帰ってきて、もう半年以上が過ぎようとしている。夏が近付く空は、だんだんと高くなっていた。夏の前には、梅雨が来てしまいますけど。

「……あ、ミナ、先家行っててくんね? 俺買いたいのが一つあった」

「お付き合いしますよ」

「いやそれはいいって。すぐ、すぐだし」

 急にしどろもどろですね。何かやましい事でもありそうな気配がします。つい眉根を寄せてじっとみやると、狗丸さんはサングラス越しに怯えた様子で慌てて目を逸らした。……いよいよ怪しい。

「……狗丸さん」

「うぅ……、そのー……だな」

「はい」

「……そこ……」

 恐る恐る指差した先には、道路を挟んで向かいにあった花屋。目を瞬く。花屋に行きたいなんて珍しい。

「こ、ここで待ってろ! いいか、すぐ! すぐ戻るから!」

「え、あ……はい……」

 勢いに負けて、頷いてしまった。荷物もそのままに、車がいないことを確認した狗丸さんは花屋へと駆けていく。流石に、呆気にとられた。どうしたんでしょう。花に興味がある人ではないのに。

 しばし立ち尽くしていると、五分ほどで狗丸さんが戻ってくる。手には……白と紫の花でまとめられた花束。片手で握れるくらいの小さなものだった。メインは……芍薬と桔梗の花、ですかね。

「……ほら」

「え?」

「誕生日。……二日早いけど、先に渡しとく。……明後日は仕事で、渡せねーかもだし」

「わ、私に、ですか?」

 流石に動揺した。え、だって、狗丸さんはそういうキャラじゃないでしょう。どちらかと言えば、御堂さんがやりそうなことですよ、これ。亥清さんが見たって目を丸くしますよ。

 狗丸さんは目をそらしてましたけど、それは完全に照れてる態度ですね。花が少し震えてますし、緊張してるんですか。こんな筈じゃなかった、んでしょうね。花をくれるなんて意外ですけど……嫌では、ないから。

「……ありがとうございます」

「うん」

 素直に受け取って、笑みを返す。狗丸さんはほっとしたように表情を和らげた。でもミニブーケ買うなんて。どんな顔して頼んだのか想像するだけで可愛らしくて笑いが込み上げる。

「あ、おい笑うな」

「すみません。でも本当に嬉しいんですよ。ふふ、初めて狗丸さんから誕生日プレゼントを頂いてしまいました。プリザーブドフラワーにでもして、取っておいてもいいかもしれませんね」

「ぷり……なんて?」

「この花を半永久的に保存するやり方ですよ。亥清さんと御堂さんにも報告しておきますね」

「いやそんな報告しなくていーからな?!」

「それは勿体無いので」

 止められる前に、素早く写真だけ撮っておく。あとで花瓶出さないといけませんね。狗丸さんは苦い顔しましたけど、私今凄く嬉しいんですよ。伝わってないかも知れないですけど。知り合いには自慢して回りたいくらいです。

 花屋の店員さんが、ちらちらと行き過ぎる車越しにこちらを気にしていた。案外、狗丸さんとバレてしまったのかもしれない。いつまでもここにいるわけにはいかないですね。

「行きましょう、狗丸さん。週刊誌に写真売られても困りますしね」

「うお、そ、そうだな、行くか」

 花の香りが心地良い。楽屋や現場では社交辞令に囲まれているようで未だに好きではなかったですけど、狗丸さんからのプレゼントだっていうだけで嬉しくて仕方ないんですから私も単純だった。

 

 狗丸さんがコーヒーをいれてくれる間、花束は花瓶に挿してテーブルの上に置いておいた。眺めてるだけで割と幸せですね。浮かれているのが自分でもわかる。分かるけれども、こんな風に素直になれるのは良いことですよね、多分。

「……そんな嬉しいのか?」

「それはまぁ、初めてですから。四年も付き合って、初めての花束で初めての誕生日プレゼントですよ。喜ぶなって言う方が難しいと思いますが」

「駄目とは言ってねーよ。ただ……そんなに喜ぶとは思ってなかったし、ミナも素直になったなーとちょっとだけ安心した」

 そう言われると少し恥ずかしいですが。カップを私の前に置いて狗丸さんは対面に座る。間には花があるなんてなんだか不思議ですね。

カップに口をつける。今日は粉の量を間違えなかったらしく、程よい苦味が美味しいですね。狗丸さんもカップを傾けて、少しだけ穏やかな沈黙が流れた。

「順番がさ、いや、タイミングがちょっと開いて、なんか間抜けなんだけど」

「はい?」

「……その、プレゼントもう一個ある」

「えっ」

 面食らう。待ってください。プレゼント? この四年で一度もなかったのに? もしかして、何か悪いことでも起きたんですか。それともまた、海外に一人で行きたいとか、あるいは私にもう曲を作らなくていいとかそういう衝撃を緩和する目的で用意されたものですか。信じていないわけではなくても、突然の行動が怖い。一つならまだしも、二つなんて有り得ないでしょう。流石に不安が押し寄せて、ぐっと唇を噛み締めてしまった。

「あ、ちげーって。詫びとかそういうんじゃないって!」

「何も言ってません」

「顔に出てるっての。とり、あえすだな。……これ」

 ことりとテーブルの上に置かれた小箱。真っ赤になって顔を逸らした狗丸さんに、小首を傾げる。箱……ベルベット地の、撮影で見たことがあるような箱……ですけど。そんなわけは。

 じっと箱を見つめたまま、動けなくなる。狗丸さんは引っ込めていた手をもう一度出して、指先で私の方へと二cmほど寄せた。

「……なんですか、これ」

「いやお前絶対分かってて聞いてるだろ」

「分からなくて、聞いています。……いえ、信じられなくて、聞いてます」

「えぇー……ずるいだろそれー……」

 いえ、ずるいのは絶対狗丸さんですよ。これを察しろなんて。そんなの……私が自分の価値に絶対の自信がある時が来ないと、あり得ない。多少は自信が持てるようになったとはいえ、これはあんまりですよ。

 渋ったけれど、狗丸さんは咳払いをして少し乱暴に箱を手に取ると蓋を開けた。閉じ込めていた可能性が開かれて、少しだけ背筋が伸びる。

「……まだ一位取れてねぇし、取れる日が来るかまだ不確定だけど。待ってて欲しいのと、……やっぱり、ちゃんと形にしておきたいって、思ったからさ」

「はい」

「結婚、してほしい。その……法的には無理かも知んないけどさ。気持ちはそういうつもりで俺はいるから。だから受け取ってくれ」

 顔を真っ赤にして、でもちゃんと言葉に包んで、狗丸さんは改めて箱を私の前に置く。シルバーのシンプルな指輪。撮影で、私も散々触れてきた。渡す役のほうが多かったのに、私は今日は渡される立場で……幸福で胸が一杯になる。唇が震えて、ぎゅっと、手を握りしめた。

「……形が、欲しいわけじゃ……なかった、んです」

「そっ、か」

「でも……形が、あるのは……こんなに幸せなんですね。知らなかった。変ですね。嬉しいのに、涙出ます。胸が苦しいです」

「ミナ……」

 どうしてこういう時に泣くのだろうと、ずっと不思議だった。嬉しいんだから笑えばいいのに。けど今は、分かります。感情が追い付かないんですね。嬉しさと驚きがない混ぜになって、激情が凝縮して涙に変わる。声を上げて泣いてしまいそうですよ、こんなの。でもみっともない姿は見せられないから、指先で涙を拭って顔を上げる。緊張の面持ちを浮かべた狗丸さんへ微笑んでみせた。

「ありがとうございます、狗丸さん。喜んで受け取らせていただきます。……貴方には……貰ってばかりですね、私は」

「そんな事ねーよ。先にたくさん俺にくれたのはミナだ。曲も、勇気も……、終わらない夢を見ることも。お前がいないとここまで来れなかったし、この先も足元覚束ないと思うから、頼むな」

 はにかんだ狗丸さんに、大きく頷く。そんなの、幾らだって。頼りにされるのも、助けてくれるのも貴方だからこんなに嬉しい。こういう場合、指に嵌めてくれるものでしょうにそういうのを照れくさくて出来ない狗丸さんが、私は好きですよ。震えた指先で摘んで、左手の薬指に嵌める。……あら。

「小さいですね」

「え! お、おかしいな。最近念入りに手を触って目星つけといたんだけど」

 なるほど。そういえばやたら最近手を繋いできたり、指を撫でたりしてくると思ったらそういう。若干青ざめている狗丸さんに、つい笑ってしまった。いえ、笑うなという方が無理ですが。

「スタイリストに聞いたりとかしないの、狗丸さんらしいですね」

「うぅ、悪かったよ……ちゃんと新しいの、買うから……」

「大丈夫です。薬指になんてつけていたら、すぐ週刊誌の記者が勘ぐって来ますから。小指なら大丈夫そうですし、これでいいですよ」

「でもよぉ……」

「それは、一緒に暮らせる日が来たら買いましょう。ちゃんと、二人分を」

 これは言わば婚約指輪でしょう。なら、結婚指輪があっていいと思うので。狗丸さんは顔を赤くしながら、ぎこちなく頷いた。あらあら、プロポーズしてきたのは、貴方なのに。照れられると、私も気恥ずかしいんですよ。

 指輪の表面を指先で撫でる。冷たいのに、温かい。私は今、世界一幸せですよ狗丸さん。

「プレゼントが大き過ぎますね」

「そ、そうか? なんかそういうタイミングでもないと、渡せそうになかったから。……ありがとな、ミナ」

「お礼を言うのはこちらです。……絶対、幸せにしますから」

 幸せにされるばかりなのは、嫌ですからね。苦笑いを浮かべた狗丸さんには悪いですけど、これでも私もプライドがありますので、宣言させていただきますよ。

 

 

 

 帰宅すると、ベッドに辿り着く前にソファで潰れた狗丸さんがいびきをかいていた。さてはまた飲み過ぎたんですね? 別にそれは良いんですけど、喉は大事な商売道具なんですから、加湿器くらい回しておいてほしい。それに夏から秋に変わる時期とはいえ、何も掛けないのは風邪ひきますよ。もう。

「はぁ……、甘いんですかねぇ、私は」

 ブランケットを掛けて、じっと寝顔を眺める。よくまあ、他人の家に近くで飲んでたから泊めろって簡単に言いますよね。私なんて毎度狗丸さんの家に伺う時は何かしら言い訳を見繕っているというのに。いつも狗丸さんは気持ちに素直で、悔しい。

 起こさないように、それでもなんとなく温度は確かめたくて胸の上に顔を埋める。……少し煙草臭い。居酒屋の匂いですね、これ。気楽で羨ましい。でも、ちゃんと狗丸さんの香りもする。安心してしまう匂いに、意識がぼんやりと溶けそうになっていたら、頭を撫でられた。慌てて顔を起こす。

「……お、おかえり、ミナ」

「起きてたならそう言ってください」

 つい睨むように見てしまいましたけど、こっちは勝手に甘えていたのを見られて恥ずかしいんですからね。狗丸さんは苦笑いを浮かべてあくびを一つ。

「なんか誰かいるなーと思ったんだよ。ごめんて」

「もう……、私もう寝ますから。明日のお仕事は? 何時です?」

「んー、昼から。ミナは?」

「私は早いので。ではちゃんと、目覚ましかけておいてくださいね」

「お袋か嫁さんみたいだな」

 からりと笑った狗丸さんに、ついむっとする。本当、この人私の事をちょっと勘違いしてるところがあります。いつまでも受け身ばかりの私ではないんですからね。

 眠そうに目をこすった狗丸さんに私からキスをする。ぎくりと固まった狗丸さんに、やっと優越感が湧いていつもの私にしてくれる。

「お母様とこんなことします?」

「しま、せん」

「……まあ、嫁くらいは許してあげてもいいですけど。……でもまだ、生憎と私は狗丸さんの恋人で、立場はお預け食らっています」

「それはまぁー……、おいおいな」

「お願いしますね。……待っていますので」

「分かってる。……今日も指輪大事に付けててくれて嬉しいよ」

 ずるいですよ、それは。手を握り合って、私の小指の指輪を確認し合う。こんなに大事なものは、多分私は……初めてです。この人には狂わされっぱなしで本当に悔しいけれど、……今の私は嫌いではないですから。はやる気持はあれど、今日はキスだけ。続きは今度のオフに持ち越しです。

 

 渋滞に捕まってしばし。まあマネージャーが運転をしていて遅刻することはあり得ませんから、ここは黙って台本をチェックしておくことにする。次回の連ドラは出番がそこまで多くないようなので、スケジュール的には少し余裕がある。あるいは、それもマネージャーの手腕かもしれませんが。

 初めこそ反対の姿勢を見せていたこの人も、何だかんだと今では私の事を尊重してくれている。拘束時間の長い仕事は前より減って、音源収録の日取りについては私が言うより早く尋ねてくる。今となっては有り難い。一度は反抗したことを少しは反省しないといけませんね。

「……そうだ、棗くん」

「来期の仕事の話ですか? それとも年末年始の特番案件」

「本当、君は仕事に関して察しが良いのは助かるね。まあそれも来週中には決めていきたいところだけど」

 妙な言い方をする。はっきりとしないのは珍しいですね。台本を閉じて、運転席のマネージャーをルームミラー越しに見やる。今日もいつもと変わらぬ、平静な顔が見えた。

「実は作曲に関してオファー……が掛かるかもしれなくて」

「えっ……?」

「これに関しては君が決めてくれた方がいいと私は判断しているんだけれど、どうする? 春の連ドラにどうか、って」

「それは狗丸さんに歌わせてくれるという意味ですか?」

 それだけは確認しておかなければならない。こんな仕事の話が有難くない訳がない。でも、これは私と狗丸さんとの約束なんです。あの人をトップに持っていくと誓って、仕事もやりくりしながら今日まで来た。それを簡単に投げ捨てたら、私はあの人が費やした二年を無意味にしてしまうから。

 動く気配のない車に、ルームミラー越しに視線を寄越したマネージャーと目があった。今の私はまた、最高に子どもじみた我儘を言っていますね。自覚はありますよ。それでも、譲れないから聞いてるんです。

「ブレないね、君は。そんなに大事なのかい」

「否定はしませんけど、……私はZOOLを諦めたわけではないんです。だからその為にまずは狗丸さんをトップに帰さなければいけない。私の音があって、狗丸さんの声があって、そうすれば亥清さんの声も欲しくなるでしょう。見栄えのためには、御堂さんだって欠かせない。私達は、四人揃わないと意味がない。そう思わせるために、大事な一歩なんです、これは。この約束は」

 確かに狗丸さんの為だというのは否定しない。でも、私達二人は亥清さんと御堂さんの期待を背負っている。帰るべき場所を照らすのが、今の私達の役目なんです。ZOOLがあった頃私達がずっと助けられてきたお二人を、必ず四人のステージへ戻す。そう、二人で誓ったのが今の私達を支えている。だから……私が妥協することは許されない。私はただ音楽がやりたいのではなくて、四人でまた、歌いたいから。

 沈黙。少し動き出した道路に、マネージャーは遠回りにはなるけれど交通量の少ない通りへと折れる。加速しだす感覚に、私はぎゅっと手を握り締めた。

「……それすら決めるのは、君で良いんだよ、棗くん」

「マネージャー……」

「二人で決めなさい。断る理由なんて幾らでもこっちにはあるから。撮影も多いし。……それに、そもそも君には難しい事かもしれないしね」

 

 ミナはじっと難しい顔をして黙り込んでいた。怖いな。俺なんかしたっけ? 今日は早く帰って来てたからマンション下まで迎えに行ったし、さっきはレトルトのカレー出してやったんだけどな。テレビをじっと見てたけどCM入っても表情を変えてないし、仕事のことでも考えてんのかな。ビールの缶をテーブルの上に置いて、それとなく肩に手を伸ばす。

「狗丸さん」

「まだなんもしてねぇよ?!」

 咄嗟に言ってしまったけど、ミナが今更拒否るわけはないんだよな。最近は黙って甘えてくる事のほうが多いし。そういう所は可愛げがある。普段めちゃめちゃクールで澄ましてるけど。ミナは難しい顔のまま俺を見つめて……てか近……っ?! 何でそんな近距離で見てくる?! 顔近付けられて、流石にビビる。え、なに、俺目を閉じたほうが良いやつか? たまに押せ押せモードになるからよく分かんねぇんだよ……! 思わずぎゅっと瞼を閉じる。うわ、絶対まつげ震えてる。

「……どきどきは……しますね」

「は……?」

 恐る恐る目を開いたら、ぺしっと頬を両手で挟まれた。目の前でミナがふっと笑う。

「何期待してるんですか。何もしませんよ。ちょっと確かめてみただけです」

「は、はぁ?」

「狗丸さん、ラブソング歌う勇気あります?」

 ぽかんとした。急だな、おい。新曲の話か? 珍しいテイストだな……。いつもがなり立てるような音が好きなミナにしては、新しい。

「作ってくれるならそりゃ歌うけど」

「じゃあ、質問を変えますけど……私がラブソングなんて、かけると思いますか?」

 それは……どうなんだろうな。世の中のそれとは少しズレた曲作りそうだけど。でもミナの瞳は真剣に悩んでる目だ。書こうとして書けないとか、そういうやつかもしれない。なら、俺がすべきは一つだよな。頬に触れてる手に触れて、にっと笑ってやった。

「俺が好きだってこと書き連ねたらいいんじゃね」

「……歌うの狗丸さんですよ?」

「最初に歌って聞かせるのはミナだろ。そしたら俺、めっちゃヘビロテしてやるよ」

 Endlessばっか聞いてると拗ねるからな。超えるもの……とは言わないけど、俺への気持ちなんて照れくさいだろうな。聞いてみたい。ミナは恥ずかしそうに目を逸らして、俺の頬から手を離した。それだけなのに、急に寒くなったような感覚になる。

「ドラマの曲を作ってみないかと、言われまして」

「あ。それがラブソングってことか。へー、良いじゃんか。受けるだろ?」

「そう……してみようかと、思います。恋なんて……私には似合いでは、ないかもしれせんけどね」

「そんな事ねーよ。今俺達めっちゃ恋愛してんだろ」

 ミナの小指に触れると、今日だってそこには指輪がある。すでに三ヶ月位待たせてるけど、ずっと嵌めてくれてるの、プレッシャーだけど嬉しい。ミナは黙って手を握り返す。そういう所、本当素直になったよな。昔なら払い除けられてた。時間はちゃんと、俺達を近づけてくれてる。

「好きですか、私のこと」

「当たり前だろ。どうでもいいやつと、キスなんてしねーよ」

「そ、そうですけど」

 急にしどろもどろになるなよ。俺だって恥ずかしくなるだろ。気恥ずかしさが膨れてしまうのが落ち着かない。変な沈黙が降りる。

「……あの」

「なんだ?」

「参考というか、曲への糧にしたいので……好きって聞かせてください」

「おま……そういう……恥ずかしいことをやらせるの好きだよな……」

「いえそういう好きではなく」

 分かってるよ! 真顔で言うな! いや冗談ではあるんだろうけどさ! 期待するでもなくじっと見てくるの、人間の感情を知りたい子どもか宇宙人かよ。ミナっぽいけど。なんかむずむずする。目を逸らしたら怒られそうな気がして、取り敢えず咳払いで誤魔化した。いや、改めて言うのはやっぱ恥ずかしいだろ。こういう空気は、ほんとに……告白キメた時以来だ。[newpage]

 ふとあの日を思い出す。今思えば、あの時のミナって怯えてたんだな。気持ちが同じなんて思ってなくてずっと秘めていようって決めてたんだ。耐え切れなくて言っちまった俺って、後先考えてなかったんだよな。そうしなくて良かったと、今なら言えるけど。ミナは、どう思ってんだろ。

「……あの日さ、俺が気持ち伝えてなくてミナも気持ちに蓋してたら、俺達今頃何してたんだろうな」

「あの。話聞いてました?」

「いや分かってるって。たださ、俺が変に弱虫で勇気あって、下手だけど言葉に出来たから、付き合おうかって一歩進めたわけだろ」

「それは……はい……」

「俺、そこから好きを始めた気がすんだよな。前よりミナを知って、知らない一面も好きだなって思ったし。あの時よりも今のほうが俺はミナのこと好きなんだよな、多分」

 言葉にすると照れくさいけど、本音だ。くす、とミナが笑う。そっちはそっちで照れ臭そうに。

「……私も、そうです」

「な。それに俺達死ぬほど恋愛下手だし、多分これらからもそうだ。まあだから、ずっと俺はミナのこと好きだったし、きっとこの先も今より好きになること、あると思うぜ」

 笑って見せる。ミナはちょっとぽかんとしたけど、そう言うの聞かせろって言ったのはお前だろーが。本当……そういう所笑っちまう。

「今もちょっと好きになった」

「へ、変な冗談言わないで」

「そーいうとこだろ。てか俺にも聞かせろ。俺ばっかずるい」

「それはその、作詞の参考に」

「ミナー?」

 う、と怯んでミナは目を伏せた。照れるよな、言葉にする時はいつも。そういう変に弱いというか意気地なしなところが俺は愛おしいなって思うよ。ちょっと期待して待ってたら、ミナが顔を上げる。顔真っ赤だ。ウケる。

「……好きです。好きになったのが貴方で良かったといつだって思うくらいには。だから……もっと愛してください。私のこと。……こういう気持ち、曲に込めて伝えてもいいですか」

「うん。はは、やっぱ……照れくさいな」

「そうですね。……うん、出来る気がします。待っていてください、狗丸さん」

「おー、楽しみにしてる」

 頷いたミナに俺も笑みを返した。言葉にするのは恥ずかしいな、やっぱりさ。指先を掴んだミナに、ちょっと笑ってしまいそうになったけどご所望どおりにキスをする。自覚、あんのかなこいつは。いつもそうやってねだって来るの、俺だって最近は分かるようになってきたんだよ。

 

 気が狂いそうになってそれでもやっと曲を書き上げてサンプル収録を終える。ほんとに……自分の気持ちを洗いざらい吐かされて蒸留させて純度を高めたような気がして、改めて聞くと恥ずかしいし胸が苦しい。スイッチが入れば平気ですけど、そこまでに羞恥で気が狂いそうでしたね……。聞く人が聞いたら、どれだけ狗丸さんが好きなんだって笑うかもしれない。もちろん、ドラマの内容に沿うようにはしましたけど、それにしても、ですから。帰ったらもう一度狗丸さんに渡す前に確認しないといけませんね。

「……あら?」

 撮影を終えて楽屋に戻り、着替えを済ませたところで気付く。私……指輪、どこに置いたんでしたっけ……? いつも仕舞っておくピルケースに見当たらず。鞄の中身を全部取り出して確認してもどこにもない。冷や汗が出てくる。私、今の所世界で一番大事なものを、失くした? そんなはずは。

 楽屋入りしてからのことを落ち着いて思い出してみましょう。ジャケットはハンガーに掛けていたし、そこまでは指輪を外していない。たまたま楽屋が近くだった千さんと二階堂さんが来て……そこで慌てて外した気が、する。しばらく二人が居座って他愛ない話をして……それからスタイリストさんとメイクさんが呼びに来たから、楽屋を出たんでしたっけ。でもちゃんと鞄のそばに置いていたはず。ジャケットのポケットも探して、無くて、心臓が痛くなる。狗丸さんには失くしたなんてとても言えない。どうしたら。

「……棗くん? まだ支度終わらないのかい?」

「あ……い、いえ……今行きます」

 扉を開けたマネージャーに、慌てて返答するも、内心全然落ち着かない。今ここを離れたら、うっかり落としていた場合取り返しがつかないのでは。やはり、もう少し時間を……。

「……棗くん」

「マネージャー……あの」

 もう少し時間を、と言いかけた私の前に、マネージャーが手を差し出す。思わず目を見張る。その手のひらに載っていたのは、私が今失くしたと焦っていた指輪だった。

「探しものはこれ?」

 頷いてしまうのは、簡単だった。でも、言ってはいけない気もして言葉が詰まる。知られていないわけでは、無いですけど。私が簡単に動揺するのを見せるのが躊躇われた。

「大事なものは、預っていてあげるから言いなさい」

「え……」

「毎日毎日嵌めていて、たまに大事そうに撫でてた自覚はないのか……」

 そんな事してましたっけ。嵌めていたのは間違いないですけど。まあ……無意識に触れてたことは、きっとあるでしょうね。見られていたというのは恥ずかしいですが。そこまでご存知なら、大人しく受け取っておくことにする。

 指先に触れた金属の硬さに、不覚にもほっとしてしまった。ふっとマネージャーが笑みを零す。

「本当、君がそこまでご執心なのは意外だよ。落ちてたから拾っておいて良かった」

「助かりました。でも、執着については私が一番そう思ってるんですから、言わないでください」

「曲は? 大丈夫だとは思うけれど念の為聞いておくよ」

「ご安心を。私はいつだって最高の曲を書き上げる信頼がありますので」

「それは楽しみだ」

 マネージャーを前にしたら自信を纏うなんて簡単なのに。本当、一人になったりあの人の前では自信の欠片を集めるので精一杯な私は未だに歪ですね。

 

「ねぇ、それずっと気になってたんだけど、やっぱりトウマがくれたやつ?」

「や、やっぱりってなんだよ! やっぱりって!」

 声上ずってますよ狗丸さん。亥清さんはにやにやと楽しそうですが。

 狗丸さんが日本に帰国してもうすぐ一年。亥清さんの帰国にあわせて目前に迫っていた狗丸さんと亥清さんの誕生日を四人でお祝いしようと言う事で今日も集まっていた。亥清さんが日本に戻る度四人で集まるのだから、私達は相変わらずですけど。本日の主賓の一人は複雑そうな顔でビールに口をつけていた。

「だって巳波が仕事以外で指輪とかしてるの見たことないしさぁ」

「見るからに安物そうだしな」

「うるせぇ! そりゃめちゃめちゃ高くはないけど!」

 あらそうだったんですか。まあ、ちゃんとしたジュエリーショップに一人で入っていった狗丸さんを想像したら面白いですね。なんて言って買ったんでしょう、これ。少し気になります。その内聞いてみましょう。

 亥清さんは苦笑いで私を見やった。

「ごめん巳波、トウマが拗ねた」

「ふふ、あとで機嫌を取っておきますからご心配なく。そもそもこれ、サイズ間違えてるんですよ。だから小指に付けてるんです」

「え、トウマまたそういうドジ踏んだの? 懲りないやつ」

「仕方ねーだろ! サイズいくつって聞いたらバレるし、だから頑張って見当をつけてだな」

「そうですねぇ。その頃事あるごとに手を繋いできたり指撫でたりして、努力してらっしゃいましたもんね」

「言わなくていいんだよ! もうやめてくれ……」

 真っ赤になってますね。少しいじめ過ぎてしまいました。でもこの件は嬉しかったので二人に話したいんですよ私は。亥清さんは必死に笑いをこらえて、御堂さんは心底面倒そうな顔をしましたけどね。

「いいじゃないですか。あの時くださった花もちゃんとプリザーブドフラワーにして飾ってあるでしょう」

「トウマも花とかやっと買えるようになったのか。そこは成長したな」

「もういい、その話はやめてくれ。恥ずかしくて死ぬ」

「えーオレもっと聞きたいけどなー。面白いもん。主に巳波が」

「私は別に面白いことしてませんが」

「いやしてるよ。昔の巳波じゃ指輪もらっても後生大事にしまいこんでただろうし、それにまつわるエピソードだって自分だけの思い出にしてたよ」

 そう……でしょうか。亥清さんの指摘に口を噤む。確かに少し、私口が軽くなりましたね。狗丸さんについては特に。この二人の前だから気が緩んでる……わけでも、ないんですかね。マネージャーにもバレてしまうくらいですから。そう思うと、少し浮かれているのでしょう。……恥ずかしいですね。

「あ、やっと自覚した」

「……はい」

「素直にはなったよな。俺は嬉しいけどさ!」

 笑顔が眩しい。何だか悔しいのでぎゅっと頬を抓って差し上げた。亥清さんと御堂さんは顔を見合わせて笑い出しましたけど、笑うところじゃないでしょうここは。不服です。目で訴えると、御堂さんは肩をすくめた。

「まあ機嫌を直せ。主賓が泣いてる」

「巳波たまに子どもだよなー」

 亥清さんまでそんなことを。渋々手を離すと、狗丸さんは頬をさすりながらため息をついた。そちらはそちらで、私に遠慮がなくなったと私は思ってますよ。

「あ、ところでお前らのとこにちゃんと話言ってんのかな」

「今度は急になんだ。挙式か? 式場が必要ならうちのホテルを使わせてやらないこともない」

「そ、そういうのはもっと先で……」

 先って。する気あるんですか。それはちょっと要検討なんですけど。流石にマスコミが嗅ぎ付けそうなので。思わず横顔をじっと見つめていたら、狗丸さんは私の視線に慌てて首を振った。

「や、考えてないわけじゃないから! 一位取ってからな! 頑張るから!」

「……それについては後日改めて相談しましょうね」

「もちろん! てかそうじゃなくて、春のライブの話だよ!」

「もうチケット完売してるらしいじゃん。おめでと、トウマ。まあ前もそうだったけど」

「サンキューなハル。てかそうじゃなくて、もうマネージャーが話固めてくれ始めてんだけど、ゲストにお前ら三人呼ぶから」

「え? 何それ」

「アンコールの中の一曲だけ。一夜一曲限り、ZOOLをやっていい許可もぎ取った」

 思わず私も目を見張る。それって。得意げな顔をした狗丸さんに、亥清さんも御堂さんも言葉がないようだった。だってそれは、私達が三年前に眠らせた空間だから。

「……あ、あれ? 喜んでくれねぇのか?」

「びっくりしすぎて……何も言えないって……」

「そうか? でも俺もミナも、その為に頑張ってきたよな?」

「……一人で可能性を掴んできたんですから、私の手柄にしなくて良いんですよ」

「何言ってんだよ。俺一人じゃこの話通すのは無理だったって。ってわけだから、お前らもちろん良いよな? この話乗るだろ」

「……断る理由ないじゃん」

「スケジュールの話がどうも曖昧だと思ったらお前のせいか、トウマ。俺の仕事を削ってでも呼ぶからにはお前も覚悟しろよ」

「なんの覚悟だよ!」

 私も亥清さんも笑ってしまった。確かに御堂さんは、他人のライブ会場に現れて簡単にファンを攫っていきそうです。本当に、この人はいつまでも私達を引っ張っていってくれる。あの頃からZOOLでいることを諦めなかった狗丸さんは、やっぱり私達には必要だった。

 たった一曲なのに、合同レッスンをいつにしようとか、どの曲で行こうかとか、私達には悩める話題が沢山ある。四人で同じ場所へ辿り着ける日は、案外本当に近いのかもしれなかった。

 

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