第八話 守りたいもの、諦めるもの

 目を覚ますと、ベッドの上だった。最後に見たのは、荒れた大地だった気がするのに、フーガが目を覚ましたのは見慣れて来た天井が見えるベッドの上。頭も痛い。ぼうっとする。視線を巡らせると、見覚えのある髪色がすぐ隣にあることに気づいた。

「……コノ、エ?」

「は……あっ! フーガ、よかっ……、大丈夫ッスか、どこも痛くないッスか?」

「え、え」

 頬を両手で包んで真剣な顔で問いかけたコノエに目を瞬く。痛み。手をゆっくり握って、腹を、胸をさすって確かめる。何もない。痛みはどこにもない。

「どこも痛く、ない。平気……な、何で?」

「なら、いいんす。……うん、いいんすよ、フーガ」

「よ、良くないだろ。大体、僕なんで寝てるんだよ。ここ、地下じゃん。僕達、十二地区に行っ……」

「もういいって言ってるじゃないッスか!」

 大声を出したコノエに、体が震えた。怒らせてしまった。理由は分からなくても、フーガはそれだけは分かる。心臓が、ばくばくとうるさくなる。怖い。これ以上何かを言えばコノエに嫌われる気が、した。

 何も言えず口を閉ざすと、コノエは我に返った様子で慌てて笑みを浮かべた。

「えっと、フーガは、そ……そう、疲れて、途中で寝ちゃったんすよ。だから、俺がおぶって。ええと、うん、それだけなんすよ」

「……コノエ」

「何にも心配いらないッスよ。腹減ったッスよね。何か作ってくるんで、大人しく寝てるんすよ」

「……うん」

 そう答えるほか、フーガは穏便に済ます方法が分からない。そっと額にキスを落として、コノエが出ていく。扉が閉まり、フーガは痛みも傷もない手をそっと額に当てた。コノエは、嘘が下手だ。

「滅多にしてくれないじゃん……こんなの」

 何も分からない。先ほどのコノエの質問の意味も、ここで眠っていたことも。抜け落ちた記憶が、その答えを持っている事だけは分かった。

 

 吐きそうだった。何もなかったように、いつもの顔でフーガが目覚めて良かったと思うと同時に、倒れる直前のパニック状態がリフレインされる。どこかで、勝手に完結させていた自分がコノエは呪わしい。

 一度は壊れてしまったフーガが、ここの生活で、自分たちと過ごすことで、完全に治ったのだと勝手に思い込んでいた。思い込んで楽になろうとしていたことを、突きつけられる。人の心なんて、そんな簡単に治るわけがないのに。

「ああ……最低ッスねぇ……」

 フーガを怒鳴ってしまった。何も覚えていないなら、笑っていつも通り振る舞うべきだったのに。不安と焦りが、余裕を奪っている。あの悲痛な叫びが、助けを求める声が、ずっと胸の奥で軋み続けていた。

「いっ……つ」

 よそ事を考えて気を抜いていたら、うっかり包丁で指先を切ってしまった。ぱたぱたと、まな板の上に血が落ちる。らしくないミスをした。ぼんやりと傷口を見つめていると、数秒も経たずして血は止まった。血を拭っても、もうコノエの指先に傷はない。何度も繰り返した、異常。コノエは、自嘲を零す。

「は……はは……あぁ……、無理ッス……もう、無理ッスよ……」

 数日前には、嬉しくて泣けたのに。今は痛くて、辛くて涙が出る。無力感が、思考を鈍らせる。

 コノエが千年ぶりに見つけた大切な人は、今にも壊れそうな場所に未だ立っていた。

 

 取り繕った笑いに合わせるのが、フーガの日課になっていた。慣れて来た畑仕事をして、設備のメンテナンスに随行して手順を教えてもらって。行動だけはいつもと変わらないコノエだが、フーガを見る目に悲痛が掠める事にはすぐに気づいた。もしかしたら何かが原因で倒れて、その結果心配が募りすぎているのだろうと思おうとしたものの、それでも長すぎる。一週間も経つと、疑問は不安に変わって、今は顔を合わすことが怖い。

「……大丈夫、フーガ。顔色が悪い」

「え、そう?」

「寝てる?」

 頷く。睡眠は十分……しているはずだった。水やりを終えて、生育が順調か葉を確かめる作業をしながら、クオンと二人今日も並んでいる。これが終われば、カバネにまた勉強を教えてもらう時間だった。今日はコノエと顔を合わせるのはあとは夕食時だけ。ほっとしてしまうなんて、自分勝手すぎてフーガは笑ってしまった。

「……僕さぁ、最低だから、最近ずっとコノエに会いたくないんだ」

「喧嘩をしたの?」

「ううん。……その方が、コノエが楽そうだから。僕の顔見ると、苦しそうなんだよ、コノエ。何でだろ。実は僕、見えない所が怪我してる? 死にそう?」

「フーガ……?」

 喉が詰まる。我慢していたはずなのに、ぱたぱたと涙が零れ出した。胸が軋んで、たまらない。理由も分からないままに、苦しい。クオンの手が優しくフーガの背を叩く。泣いていい、大丈夫、と無言で伝える手が。

「……僕は、コノエがいないと、だめなのに。顔見るのが、怖いなんて、いやなのに」

「心配してるんだよ、コノエは」

「どうしてだよ! だって、何にもないんだろ! 何にもなくて、何を心配するんだよ! そうだよ、何で、どうして僕ここに帰ってきた記憶がないんだよ。十二地区からの帰り道、アルムは? リーベルさんは、なんで帰ってきてな……うっ」

 頭痛が走り地面に手をついたフーガの肩を、クオンがそっと抱いた。寄り添う温度が、何故か遠く感じる。

「僕、どう、し」

「大丈夫。落ち着いて、深呼吸して。そうしたら、大丈夫だから」

「し、ろ。……土……、血……?」

 記憶の断片が、脳裏を過ぎる。心臓の拍動が頭痛を助長していた。息が上手くできない。ずきずきする。頭も、足も、胸も。どこか覚えのある場所が、治っているはずの場所が痛む。

「あ……あぁ……」

 荒野の只中で自信を纏った笑みを浮かべた青年と、痛みの記憶が結びつく。

「嫌、だ。い、っ……、あ、うぁああああああ!」

「フーガ!」

 激痛で割れそうな頭の中で、コノエの声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。それよりも、痛い。体が痛みを覚えていた。自分の内側で骨の折れる音も感覚も。血と共にした土の味も。死んだほうがましな恐怖と痛みがフーガを襲う。

「大丈夫、大丈夫ッスから! もう平気だから、もう何もっ……いいから……!」

「たす、け……コノエ……、や、だ。みえ、な」

 抱き締めてくれる誰かが、ぎりぎり認識できる。安心する匂いがした。それでも、意識が焦点を結ばない。

「たすけて、しにた、く……な……」

 ぶちん、と意識がブラックアウトした。

 

 意識を失ったフーガを抱き締めたまま、コノエは動かなかった。クオンは何も言えず、じっと見つめるほかなく。負荷に耐えられなかったフーガは、また目を覚ませば今の事を忘れているのだろう。

――ここへ戻ってきて、もう四度目だ。流石にクオンも言葉がない。

 ぱたりと、気を失ったままのフーガの頬に、涙が落ちる。

「……コノエ」

 俯いたまま、コノエは涙を流していた。限界なのだろう。この数日間コノエはずっと無力感に苛まれているのを、クオンも気付いていた。

「俺……どうしたら、いい……ッスか……」

「どうしたいと、思ってる?」

「……殺してやりたいッスよ……最低百回は」

「人は一度死んだら終わりだよ」

「ほんとッスね。……しかも、悪いのはフーガなのに。あぁ……いやだ。人を久々に守りたいと、笑っていて欲しいと、こんなに思ってるのに。それと同じくらい、憎くて、殺したくて、たまらない」

 罪悪の判別は出来ても、感情は伴わない。それだけコノエにとってフーガは特別大事なのだから、無理もない。無限に終わらない地獄に現れた、永遠を終わらせたいと願えるほどの存在だ。クオンにも、もちろんカバネにとっても希望でもある。長年苦労に付き合わせたコノエへの、最後のお礼に命の終え方を探す原動力として。

 コノエをたしなめる事は、クオンにも出来る。だが、一番分かっているのは、コノエ自身なのだ。だから今も、苦しんでいる。元凶を取り除いたところでフーガを救う事にはならないと分かっているからこそ、もがき苦しんで、泣いている。

「……フーガは、コノエが心配そうにしてるのが、不安だって言ってたよ。自分がどこか、怪我してるのかなって」

「心配なんて、当たり前じゃないッスか。こんなに泣いて、叫んで、ありもしない傷を痛がって。永遠に治らない怪我を、よく今まで我慢してたなって、ほんとは褒めてやりたいッスよ……」

「うん……」

「気付いてやれなかった。俺は、分かってたつもりで、フーガのこと何にも、分かって……なかっ……」

「コノエが悪いわけじゃないよ。……自分を責めないで、コノエ」

 誰が悪いわけでもない。この世界は常に奪う事でしか維持できなかったのだから。コノエは深く息を吐き出すと、目元を拭ってフーガを抱き上げる。その顔は、随分疲れていた。

「……コノエ」

「大丈夫ッスよ。大丈夫……俺は、大丈夫なんで」

 笑って見せたコノエに、クオンは何も言えなかった。無理に笑っているのも、もう限界を超えている。

 

「……フーガは、また発作か。……スパンが短いな」

「うん……、コノエが限界っぽいんだ。顔に出てるみたい。千年も繕えたものが、一週間でぼろぼろだ。コノエには、やっぱりフーガが必要だよ」

「分かっている。でも……俺達は、体の治し方を知っていても、心の治し方は知らないんだ」

 目を伏せたカバネに、クオンは微笑んで隣に座る。持参したカップを広げていた本を避けて置くと、カバネがクオンを見やる。

「大丈夫。……信じてあげて、カバネ」

「……共倒れする可能性があるとしてもか?」

「倒れないよ。……コノエは、頑張りすぎなんだ。頑張らなくて大丈夫だって、気付くから。それより、僕達は僕達のすべきことを頑張ろう、カバネ」

「……俺は、そうは、思えないんだ。コノエの気持ちは、分かる。俺も……長い時間の中で後悔と恨み言を、何度も」

「僕達が今歩みを止めれば、一番苦しむのは誰だか、分かる?」

 ずるい質問をしたと、クオンも分かっていた。だが、カバネに必要なのは背中を押し続ける誰かだった。今まではコノエがその役を担ってくれていた。泣き言も、恨み言も言わずに、ずっと。だから今は、クオンがその役割を引き継がなければならない。言葉選びが得意ではない自覚はあれど。

 カバネはしばし沈黙した後、カップに手を伸ばす。

「……退路断つタイプとは、思ってなかったな」

「あはは。カバネは、僕のことを全部分かってるつもりだった?」

「いや。……千年経っても、俺はクオンもコノエも、分からないな」

「そういうこと。……永遠に近い時間を過ごしたって、人間は分からない面を持ってるんだ。たった半年程度で分かったなんて、それこそ奇跡なんだよ。でも、人間は奇跡を信じたいんだ。荒野が緑に包まれることを、空を鳥が飛ぶ日を、夢を見るように。僕は……知らないことがあるままで、カバネやコノエと、永遠の別れを、したいな」

 カバネが、小さく笑う。終わりを望むなんて、馬鹿げている。それでも、クオンにとってこれが生きる事で、歩み続ける事なのだ。終わらせることは、始める事より難しい。

「……聖印のことだが」

 切り出した話題に、クオンは思わず笑ってしまった。怪訝そうに目を向けたカバネに、何でもない、と首を振る。

 いつだってカバネは最後まで話をしないで自己完結させる。話題の切り替え方が少々唐突になってきたと、クオンは最近気づいた。

 

 またベッドの上に居た。最近回数が多いと、フーガはベッドに転がりつつ思考を回す。

 起きると大概頭が重く、目が腫れている。喉が痛い時さえある。泣き叫んだ……のかもしれないが、覚えがない。コノエならば何か知っているのかもしれないが、問いかけることが怖かった。答えの内容よりも、話しかけることに勇気がいる。避けられている……気もするほどだ。自分に問題があるなら注意をしてくれていたコノエだけに、その変化がフーガには理解できない。

「……カバネか、クオンなら知ってるかな……」

 二人は忙しそうに資料をひっくり返している日々で、少々声を掛けづらいのはあるが、立ち止まっていても仕方ない。

 ベッドから抜け出し、古いコートを羽織って部屋を出る。この時間だと、コノエはメンテナンスであちこちを歩き回っている。鉢合わせる事はあれど、忙しくてフーガに構う余裕はいつだってない。カバネとクオンに話を聞いてもらうなら今が丁度良かった。

静かな通路をカバネの私室へと向けて歩く。フーガの使う部屋よりは上層にあるので、少し距離は遠い。途中にあるクオンの部屋は空っぽだったので、あるいは二人でいるかもしれなかった。

(なんて……聞けばいいんだろ)

 コノエに避けられている、と言えばカバネの事だから、二人で解決しろと言われかねない。なら、度々記憶もなくベッドの上で目が覚める事か。ぞくりと背筋が震え、慌てて首を振った。理由も分からず、足元が冷える。恐怖がフーガを捕まえようとしているようだった。

 恐怖から逃げるように早足でカバネの部屋へ続く通路を進む。

「……急に何を言い出すかと思えば、本気か?」

 不意に聞こえたカバネの声に足を止める。すぐ近く……、通信設備のある扉が開いていた。通信機のパネルを操作するカバネの横顔が見える。どうやら誰かいるようだった。クオンならば話は早い。ぽっと明るくなった気持ちで扉に近づき、

「はい。……もう、やめましょう」

 聞こえた声に、ぴたりと足を止める。コノエの声だった。随分と疲れた、コノエの声。ざわざわ、した。

「諦めることは自体は、お前がそれでいいなら、クオンにも伝えよう。……だが、どうする。それで解決するのか?」

「しません。……何にも、元に戻るだけッス。でも、それでいい。それが良いんすよ」

「何が良いんだ。永遠など、別に俺はどうでもいい。だが、お前は違うだろう。フーガが一人で老いていくのを、見届けて、あわよくば看取って、そうしてまた何事もなく永遠を受け入れられるのか」

――なんで。

 喉まで言葉が出掛かって、フーガは慌てて口を噤む。コノエが、カバネが何を言っているのか分からない。手が、震えた。

「耐えます。耐えた方が、百倍マシッス。無理ッスよ、だって、耐えられると思いますか。トリガーを引いてしまった。フーガはあんな状態じゃ、アークどころかリベリオンにも顔を出せないッスよ」

「そうだな」

「でも、俺達が死ぬための方法を探すには必ずアークに行かなきゃならないでしょう。少なくともカバネさんは行く。きっとクオンさんも行くでしょう。俺は従者ですから、お二人が行くなら必ず行きます。そうなれば、フーガも来るって言うでしょう。無理ッスよ。発狂して精神が摩耗する方が、絶対に早い」

「え……」

 何の話をしているのか、分からない。立ち尽くしたフーガに、中にいるカバネもコノエも気付いている様子はなかった。ただ、声だけは聞こえる。会話は、終わらない。

「そもそも、俺が無理ッス。あっちに非はないって頭で分かっていても、フーガがあんな風になった元凶と行動を共にすることになるなんて、絶対に無理なんすよ。殺したくなる。無意識に殴ってしまっても、謝罪だって多分出ない」

「……コノエ」

「最低ッスよ。だったら、終わることを諦めた方がいい。地下で、またすべて閉ざして、それじゃ駄目ッスか。俺はもう嫌ッス。フーガが泣いて苦しがってるのを、もう、見てるのは……無理ですよ、カバネ様」

「諦めた所で、フーガの状態が改善するわけじゃない。お前は……あいつに、出て行かせるつもりか?」

 嫌だ。そう叫んで、飛び込みたかった。だがそれより早く。

「……はは……、最悪、俺はそうするのかも、しれないッスね」

 乾いた、疲れ切ったコノエの声が、フーガの胸に刺さった。そんな声を、聞いたことがない。そんなにも追い詰めてしまったのは、多分自分で。逃げ出したかった。だが、フーガは動くことすら出来ず。

「……なん、で?」

 疑問が零れる。フーガが記憶していない何かで、コノエは悩んでいた。だから、避けていたのだろう。それは、分かる。疲弊して、出て行かせたいとしても、それはフーガが受け入れるべき道の一つだ。言い争うとしても、折れることは受け入れられる。ただ、受け入れがたいのは、そんな事ではなく。胸の奥が、焼けるように痛む。

 ぎゅっと手を握りしめ、口を引き結んで一歩踏み出す。激情で頭が熱くなったまま、扉を乱暴に開けた。

「な……」

 コノエの驚愕の表情めがけて、フーガは勢いに任せて拳を振り上げる。反応が鈍っていたのか、綺麗にコノエの頬にストレートが決まる。ふらついたコノエは壁に手をついて何とか持ち直していたが、フーガはたった一発で息を切らしていた。

「はぁ……はぁ……」

「……ふ、フーガ……? え、え?」

「何なんだよ! さっきから! どうしてコノエは僕のこといつもそうやって、何もできないみたいに言うんだよ!」

「な……、そ、そんなこと言って」

「言ってる! ずっとそうだ。ここに来た時から、怪我してた僕を助けてくれた時から、ずっとずっとそうだよ!」

 口を切ったか、口の端から血を滲ませているコノエを睨んで、フーガは拳を握りしめる。体の芯が熱いし、怖い。血は嫌だ。恐怖そのものだ。痛みを思い出させる。ずっとこびりついて離れない、孤独に繋がる。思い出す。いつもここで、記憶が押し流されていたことを。だが、今日はそれよりも、憤りが勝っていた。

「そうだよ。僕は何にもできない。何にもなれない。きっと何も成せない」

「ち、が、そんな事は」

「でも、そうじゃなくていいって、クオンは言ってくれた。だから、僕は立ってられた。僕でいることを、諦めずにいられた。いつか僕だって、何か出来るかもって。だから、頭悪いのに、勉強してんだよ!」

「フーガ」

「コノエだけだよ。僕のこといつまでも守らなきゃ助けなきゃって言ってんの。そんなの、僕は嫌なんだよ! 力になれるなんて思ってない。思ってないけど、重荷になるのは、嫌なんだよ。なんで、僕の前では絶対に大丈夫なコノエでいようとするんだよ。いつだって完璧なコノエなんて、僕は求めてないのに」

 ずっと心の奥で言葉に出来なかったものが形を成して紡がれる。

頼りにしていた。それはフーガの中で疑いようがない。ただ、頼りにならなくたって、良かったのだ。隣に居てくれるなら。一緒に困ったって、構わなかった。コノエは、そうしなかったけれど。一度だって、絶対にフーガの不安や恐怖に、受け止められないとは言わなかった。それでも、構わなかったのに。

 感情が高ぶって、涙が止まらない。泣けばまたコノエが慰めようとするのを、分かっているのに。唖然として何も言わないコノエに大股で踏み込み、胸倉を掴む。息を呑んだコノエを、フーガは涙を拭いもせずに睨んだ。

「コノエまで、神様になろうとすんなよ」

「え……」

「人間で、いろよ。いつだって助けてくれて、守ってくれるヒーローなんて、もう駄目なんだよ。僕は弱いから、ヒーローがいつも欲しい。その上馬鹿だから、きっと同じことを繰り返す。分かんなくなる。コノエが神様みたいになったら、僕のヒーローになったら、神様だから好きなのか、分からなくなる。いやだ。それは嫌だ」

「どうして……」

「人間と神様じゃ、世界が違うだろ。神様は僕だけの物には……なって、くれない……」

 ああ、と自分を心の中でフーガは笑う。自分でも把握しきれていなかった独占欲が顔を出していた。コノエの胸倉を掴んでいた震える手を、離す。鼻をすすって、息を吸った。顔を上げると、困った顔をしたコノエと目が合う。

「めんどくさい。僕、本当にめんどくさいな」

「……そんなこと、ないッスよ」

「僕……迷惑、かけてたの、気付いてなかった。……コノエの負担になってたの、知らなかった」

「フーガが悪いわけじゃないッス。……言ったら、自分を責めると思って俺が言わずにいて、勝手に潰れそうになってたんすよ」

「……そういうところじゃないか、コノエ」

 ずっと黙っていたカバネが不意に口を挟む。すっかりフーガはカバネの存在を忘れていたが。コノエは小さく呻いて、目を伏せる。

「正直……怖かったッスよ。そのまま、フーガの自我が壊れて仕舞いそうで」

「……言ってくんなきゃ、別の意味で壊れるとこだろ。……トラウマになってたのは、僕も……知らなかった。そっか。僕やっぱり死ぬほど弱い」

「無理もないッスよ。……だから、リベリオンと関わるのはやめませんかと、カバネ様に相談を」

「それとこれは話が違うだろ! 僕のトラウマは、僕が解決すべき問題で死なない呪いを解くのとは話が別!」

「いやでも」

「でもじゃないっての! それとも何。コノエは僕がジジイになって死ぬまで世話して、墓に埋めて、毎日墓参りしたくなったってそういうこと?」

「何でそうなるんすか?! そんなわけないでしょーが! 極端なんすよフーガは!」

「はぁ?! コノエも一人でため込んだ答えがカバネ達の死ぬ方法まで根こそぎ邪魔しようとしたじゃんか!」

「おい。痴話喧嘩にシフトしたなら作業の邪魔だ。出ていけ」

 口を再度挟んだカバネの口調には苛立ちが混じっていた。慌ててフーガは口を噤む。

「す……すんません、カバネ様」

「……さっきの嘆願は聞かなかったことにしておく。……ほどほどにしておけ、コノエ。お前が思う程、フーガはもう、そんなに弱くはない」

「そーだぞ。コノエの馬鹿」

「この二週間でトラウマ発作を五回も起こしてる人間が言う台詞とは思えないッスね、ホントに!」

「なんでその回数を起こしてたことを一生誤魔化せると思ってんの?! 信じらんないんだけど?!」

 また言い争いに発展しそうになったのを、カバネの眼光が黙らせる。コノエが素早く頭を下げて、フーガの手を引いた。出ていく一瞬、カバネが安心した様な笑みを浮かべていたはあるいは気のせいだったかもしれない。

 

 ライデンに再会して、トラウマの蓋が開いたのだろうと、コノエは渋々この二週間ほどのことを説明してくれた。泣いて叫んで、気を失って。毎度黙って部屋まで運んでくれていたのだと、やっと知った。

「……そか。……ごめん……迷惑、いっぱいかけた」

「迷惑じゃ……ないッスよ。むしろ、もう完全に大丈夫だと勝手に思ってた俺がいけないんで」

「次からは、ヤバくなる前に何とかする」

「いや、出来ないから発狂してるんすよ?」

「頑張れるかもしんないだろー」

 もちろん出来る気はしないけれども。お茶を出してくれたものの、不服そうな顔をしたコノエに、フーガは笑う。

「じゃあ、抱き締めて大丈夫って言ってほしい」

「は……? いや、割として……」

「僕に届くまで、ずっと言って。……頑張れなかったらごめん」

「……はぁ」

「あと、無理だったら、無理って言え。僕の前まで無理して、笑わなくていいから。無理させて……ごめん」

 弱い自分の為に、繕わせているのは薄々感付いていた。フーガなりに寄り添おうとしてきても、経験値の差が大きすぎて一向に埋まらないまま。結果、酷く疲弊させてしまった。それは、胸が痛い。

「……あと、殴ってごめん」

「あー、はは。結構効いたッスよ。もう治ってるんで、そこは気にしなくていいッスから」

「僕は結構痛い」

「自業自得ッスね」

「……あと、ありがとう」

 コノエが首を傾げる。カップを手元に寄せて、フーガは笑みを向ける。

「僕の為に、殺したいほど怒ってくれるとか、嬉しいなーって思ってさ」

「いや……まぁ、はぁ。……フーガが悪いんすけどね」

「うん、知ってる。それでも……自業自得のくせにトラウマとか、ダサすぎるし」

 むしろ、精神を壊して同情して貰える価値もない。何一つ、フーガは正義なんて持っていなかった。それを苦痛とは思わない。他人だったら、フーガも鼻で笑っていた。つい、自嘲を浮かべる。

「……フーガが壊れてここに乗り込んでこなきゃ、今頃ここには居なかった」

「え?」

「そうじゃなかったほうが、良かったって、思うッス。でも、そうじゃなかったから俺が命を拾えた。死ぬために生きる意味を、見つけられた。……複雑、ッスね。……俺はフーガが苦しいのは、辛いッスよ」

 コノエは優しすぎると、つくづく思う。フーガは、ここでやっと自分を生きられるようになって嬉しいくらいなのに。

 淹れてくれたお茶は、今日もあまり美味しいとは言えない。それでも親しみ始めたコノエの味だった。これは、手放したくない。

「……神様には、ならないッスよ、俺は」

「ん?」

 カップの水面を見つめていたフーガは顔を上げる。苦笑を浮かべたコノエが、傍らに立って頬を撫でた。どうにも、くすぐったい。

「発作起こしたら泣き止むまで傍に居て、気を喪ったら目が覚めるまで傍に居る。きつくなったら、たまには逃がしてもらいますからね。俺だって、弱音を吐きたい時があるんで」

「……うん」

「でも、気付いて無かったら寄り添って貰って、良いッスか」

「当たり前だろ。……コノエ意外と鈍いもんな」

「そーなんすよね。あと神様じゃないので」

 ふっと笑って、コノエがキスをする。いつもの額ではなく、唇に。触れた温度を認識した瞬間、フーガは動けなくなった。

 硬直したまま息を詰めていたフーガに、コノエが苦笑を零す。

「……なんつー顔してんすか。やっぱまだ早かったッスね」

「すっ、するなら言え馬鹿!」

「いや……普通今からしますって言わないッスよ?」

「そう言う所で年上の余裕を出すなよ! ずっる、ほんと、ずっる……」

 顔が熱い。思わず愉快そうに笑ったコノエから目を反らした。ばくばく煩い心臓を押さえたくて服の上から手で押さえていると、コノエの腕が抱き締めてまた息が詰まった。

「……いつか」

「へ……」

「必ず、フーガのトラウマ、失くしますんで。……頼りないとは、思うッスけど」

「良いってば、気負わなくて。……一緒に、居てくれたらそれでいい」

 死ぬまでにこびりついた苦痛の忘れられるなら、それで。今は支えてくれる温度に身を委ねて、フーガはそっと笑った。

 

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