第十話 円環の途中

 

 ふわりと吹いた風に混じって、芽吹いた緑の匂いが鼻を掠めた。壊れた家屋の足元にも、今季は花が咲いている。生命というのは、逞しい。

「よう、今日は一人か。保護者はどうした」

「コノエなら荷物があるからもたついてる。僕は作業に時間かかるから先に来ただけ。……ていうか保護者じゃないし」

「違うのか? 後ろを引っ付いて不安げな顔してたのは幻ってか」

「オルカは記憶が更新されない病にでも罹ってんのか? 僕、頭開いたことはないんだけど試させてもらおうかな。麻酔無しで」

「殺す気かよ。冗談が怖いやつだな」

 半分は本気だが。フーガは肩をすくめて肩から下げた重い鞄を担ぎ直した。

「で、今日はどこに行けばいい?」

「ああ、こっちだ。今日もよろしく頼むぜ、センセ」

「ホントお前、いちいちムカつくな!」

 吠えたフーガにオルカはけろりと笑って踵を返す。置いて行かれるわけにもいかず、フーガは大地を踏みしめた。通りの向こうから、人の声が聞こえる。怒鳴り合う声に続いて何かが壊れる音がして、フーガは恐らく増えたであろう作業にため息をついた。

 

 ぽかんとした。稲穂の前で監督者のように崩れた塀の上に座したヴィダの膝の上。枯れた稲穂をぶんぶん振り回す少年がいた。コノエが口を開けて呆気にとられていると、ヴィダか忌々しげに舌打ちをする。

「何だその顔は。ボケっとしてねぇでさっさと仕事しろ」

「え、いや、え? 子ども生まれたんすか? え?」

「あ? アホかお前。オレがそんな面倒くせぇことするわけねぇだろ」

 ではその膝の上の少年は。そう心の中で再度質問をしていると、傍らにいたクオンがくすりと笑った。

「違うよ、コノエ。彼は移民じゃないかな。ヴィダやオルカの一族とは別だもの」

「あ、なるほど。そーなんすね。……てかそんな事もわかるんすか……」

「うーん、勘……みたいなものだけどね」

「おい。べらべらいつまても喋ってんじゃねぇぞ。腕切り落とされねぇと目が覚めないのか?」

「分かってますってば! 怖いこと言うのやめてくださいよホント!」

 ふんと鼻を鳴らしたヴィダにため息をついた。ぽんとクオンが背中を叩く。元気を出して、の意だ。コノエは気持ちを切り替えて顔を上げる。

 かつて荒れ放題の不毛の地は、恐らく地上で一番食に困らない地区へと変わる途上だった。

 

 世界一不幸だ、死に近いと言われてきた第十二地区は、その評判によって長らく他の地域からも見捨てられてきた。お陰で今も、大きな侵攻もなく済んでいる。まだ知られていない潤いの地。時折流れ着いた人々が、ヴィダの恐怖を感じつつ暮らしているらしい。

「……にしても、あの生きる災厄が鍬握るの面白すぎだろ」

「ヴィダは何もしねぇよ。それは主にオレがやってる。最近は人手も少し、出来たけどな」

「子どもばっかじゃん。……口減らしの」

 ぼそりと付け加えたフーガに、オルカは薄く笑みを返しただけだった。包帯を巻き終えると、ぐすぐす泣いていた少年の頭をフーガは撫でる。

「おし、終わり。あとそこの怖い顔したデカいやつに薬渡しておくから、ちゃんと飲んどけよ」

「う、うん。……ありがと、おにいちゃん」

 うん、と笑みを返してフーガは処置道具を仕舞う。今日は三人。いずれも切ったり折れたりの外傷だった。立ち上がると、扉の脇で待っていたオルカにさっさと歩み寄る。

「てわけでこれ。あとよろしく」

「はいはい。……毎度助かる。謝礼は弾むぜ」

「困った時はお互い様って、カバネやクオンが良く言ってる。だから僕もそうしてるだけだから、無理に恩を売ってるつもりはないっての」

「そういうことにしといてやるよ」

 薬液の瓶を受取りつつ、オルカは苦笑いを浮かべた。もっとも、せめて収穫した小麦程度は分けてもらわないと割に合わないとフーガも思ってはいたが。

 フーガの仕事はこれで終わりだ。あとはコノエやクオンと合流して畑作業を手伝う。簡易診療所をあとにして、オルカに案内をさせつつ、フーガは空に腕を伸ばした。

「はー……なんか、やっぱ不思議だ」

「黒縄夜行とリベリオンが仲良く不毛の大地を歩いてることか?」

「いや僕お前と仲良しのつもりはないし、それにもうリベリオンでもないし。そうじゃなくて……地上にいるなぁって」

「あー、お前らが引き篭もりの地下暮らしを辞めてもう二年か? 早いもんだな」

 頷く。もっとも完全に地下を捨てたわけではない。あそこにしかない資料や設備も沢山あり、完全に地上へ出たというには語弊がある。週の半分は地上、あとの半分は地下暮らしだ。フーガとしては、相変わらず地下での生活のほうが安心して夜眠れるけれども。

 見上げれば、空がある。アークも変わらず空に浮いて、こちらを見下ろして侮蔑の表情を浮かべていた。

「身にあった暮らしをしていれば、それで良かったんだよ」

「ん?」

「少なくともオレは、ここに固執してるわけでもないし、オレ一人が日々暮らせる程度の衣食住がありゃあそれでいい。……そう思ってたし、今でもそう思う」

「でも、最近は口減らしで流れ着いた子どもを面倒みたりアホみたいなゴロツキを農夫にしたりと、面白いな、黒縄夜行」

「全部独り占めしちまえば良いのにな。……もう、終わりにしたいんだよ。誰かが一日多く生きるために、誰かを殺して生き延びるのは。次にまた生まれてきた時に、腹すかして死ぬのは御免だ」

「……そだな。僕も、また親が目の前で死んで銃を握って心を潰しながら生きるのはイヤだ」

 第十二地区は、再生しようとしている。それは滅びに向かっていた世界からすれば奇跡だと、クオンは言っていた。そして再生しようとするのもまた、必然だと。世界も生きることを願っているからだと。……相変わらず何を言ってるのかとは思ったが、フーガにとっては心地いい言葉でもあった。

 いつだってやり直せる。罪は消えなくても、生き直すことはできる。その道程は険しくて果てしないとしても。肩から下げた鞄は、その決意そのものだ。

「ま、つまらない話をしたな。ああそうだ、一応忠告だ。ガラの悪いヤツも増えてきたからな、あんまり一人で出歩かないほうが良いぜ」

「何それ」

「お前は割と顔が可愛いからな。勘違いして飢えた野郎どもに襲われても不愉快だろ」

「げぇ、めんどくさ。コノエに殺されても知らないよって忠告しとけよ。僕知らないからな」

「……やっぱ保護者じゃねーか」

「違うし。僕はコノエのモノだって、三年前から決まってんの」

 

 成長速度は当初に比較して格段に落ちていた。それは裏を返せば環境が本来あるべき姿を取り戻しているということになる。それでも、かつては収穫まで三ヶ月かかっていたのに比較しても収穫まで一ヶ月は早い。加えて、この地の苗を他で埋めても成長速度は落ち、三ヶ月はかかる。それこそクオンの言うように、この地の加護……なのだろう。

 見えない力は、この世界にはやはり存在するのだと、コノエはつくづく身に沁みた。

「凄いッスね、クオンさん。……呪いだなんて言われてたらしいッスけど、ここの住民にとってはやっぱり守り神なんすね」

「本来、呪術とは根源があるからね。僕にも少しくらい使えたらいいんだけど」

「そういや……無理なんすか? 天子の呪い以外は……何も?」

「知らないからね。この血に課せられた、かの地の根源を。……それが分かれば、カバネに道を示せるのにな」

 ぽつ、とクオンは寂しそうに語尾を加える。コノエは眉を顰めた。この二年、カバネとクオンはまた少し、昔のような距離感を取り戻していた。その一方で、コノエに対して以前よりも多くを語らなくなった。何か二人で背負い始めていることには気付いていたが、踏み込む勇気はまだコノエにはなく。

 風が吹き、穂を揺らす。最近引いてきたという水路からは、小さな水の音が聞こえていた。

「……おい地下モグラ」

「ふふ、その呼び方可愛いよね。……大丈夫、気をつけて、ヴィダ」

「ハッ。……死ぬかよ。この世は雑魚ばっかだ」

 吐き捨てて、膝で寝ていた子どもをクオンに託すとヴィダは踵を返す。その手には相変わらず片時も離さない戦斧がある。

「……いくら実りがあっても争いが消えるわけじゃないのは、悲しいッスね」

「そうだね。でも、人間はそれしかできないのかもしれない。戦って、その度に文明を進化させて、文化を変えていく。かつては呪術と科学が拮抗していたはずなのに、今はもう呪術が廃れてしまったようにね」

「失われたものに苦しめられてるってのは、何か……一周回って滑稽ッスね」

 クオンは微笑むだけだった。その目に映した彼岸には、きっとまだ、届かないのだろう。

 

 断つというより、重量で轢き潰すというほうが、ヴィダの戦い方は正しい。反応速度も、武器の大きさに比例しない振り抜きの速さも、敵う相手はいない。

 びしゃ、と血溜まりになった荒れ地を踏みつけヴィダは今日もそこに生存した。

「……よぅ、遅かったじゃねぇか。まあ、手伝いなんていらねぇんだけどな」

「物見だ。手出しする必要もない。ここはお前たちの土地で、そこに侵入するものを拒絶するも受け入れるも、主たるお前が決めればいい」

 チッ、と面白くなさそうに舌打ちをしたヴィダに、カバネは歩み寄る。まだ苛立ちの収まらない様子のヴィダに、カバネは薄く笑う。

「……動きがまた落ちたな」

「あぁ? 喧嘩売ってんのか?」

「安心しろ、それでもお前はまだ世界最強だ。恐らくは、最強で有り続ける。生きている内はな」

「そりゃあありがたい事だ。……奪わせてたまるかってんだよ。最底辺を生きてきたオレ達から奪おうなんて浅ましいにも程がある」

 十二地区の資源を奪いに来る輩は後を絶たない。その為に、ヴィダは変わらず生きる災厄として死を振りまいていた。先程まで十人居たはずの野盗は、五人が血の海、三人が呻きながら命乞いをして地面に蹲り震えている。残り二人は早々に逃げ出した。しばらくは近寄っては来ないだろう。

殺した頭を踏み付けて、ヴィダは吐き捨てると空を仰いだ。

「まだあの能天気共はあの空を落とそうとしてんのか」

「そのようだな」

「くだらねぇ。あいつらを皆殺しにしても救われるモノなんてねぇよ。地面を這いつくばって他人から奪ってくることでしか生きる方法を知らねぇヤツだらけだ。アークから奪って、また足りなくなっての繰り返しだ」

「……ああ、そうだろうな」

 真理をつく、とカバネは感心する。誰かが管理しない限り、この世界は統御できないところまで差し掛かっている。空を睨んだままのヴィダを見やり、カバネも空を見上げた。浮かぶアークは、今日も地上にユニティオーダーを放ち、アルムの捜索と街の破壊を続けている。地上を完全に沈黙させるための活動には、余念がない。

「その為に、知識を欲したのだろう、お前は」

「……オレはまともに読み書きもできねえから、武器を握るしか出来ねぇんだよ。でも、あのバカ共が空を黙らせたら必要になるのは力じゃねえ。頭だ。オルカみたいな頭の回るヤツが生き残れる」

 その為に、ヴィダはカバネに流れ着いた子ども達への教育を依頼した。地上での生活の支援と引き換えに。フーガに治療を頼んでいるのもその一環だ。奪わなくていい未来を足元に手に入れた時から、ヴィダの世界も少し変わったのだろう。

「……あのクソガキの放送は、頭が痛い」

「アルムのことか?」

 頷いて、ヴィダは自分のしているヘッドホンに触れた。リベリオン協力の下、アルムは定期的に電波ジャックをしている。とるに足らない、日常を語るだけのラジオだ。ここにいる。希望を見ている。そう伝えるかのような。

「オレの耳元で叫び続けたあの声と大差ねえ。繰り返し聞いてるうちに、そうしなきゃならない気になるんだよ。そうじゃねえ自分を、認められなくなる。声が正しい気になる」

「……プロパガンダの基礎だ。アルムの声も口調も、人の心に届きやすい。本人に悪意はないから、尚更な。今はいい。リベリオンが噛んでいない事になっているからな。露呈すればそれはリベリオンの広告塔になる。それだけは……避けなければいけない」

「良いじゃねぇか。あのガキの為に命を差し出すヤツが増えるのはあいつらも大歓迎だろ。何しろ、殺し合いに人手はいくら合っても損はねぇからな」

 そこだ、とカバネは嘆息する。それでは、ナーヴの象徴からリベリオンの象徴にすげ変わったに過ぎない。それは何一つ、アルム個人を尊重していない。それを本人が望むならば、カバネが口を出す必要もないが。

「……お前、人間ってモンに期待を持ち過ぎなんだよ」

「は……?」

「オレはここ以外の土地が滅びようがどうでもいい。誰にも奪わせやしない。お前達には借りがあるから、辛うじて目を瞑ってやってるだけだ。……慈悲なんてモンは、オレに期待するな」

 その割に、子どもには多少甘いようだが。かつての自分を、喪ったという幼馴染を思って無下には出来ないのだろう。

 踵を返したヴィダにカバネも続く。血の匂いを嗅ぎつけたハイエナが、岩陰に潜んでいた。

 

 背の高い木々は、果たしてどれだけの間ここから大地と空を見つめていたのだろう。首が痛くなるほどに高い木のてっぺんは、アルムには見えなかった。

「今度のここは、凄いな。どれもみんな、背が高い。果てしない木登りが出来そうだ」

「疲れては……いないか。元気だものな」

「うん。私は元気だぞ。むしろここは興味深い。地面の植物も少し違うな。コノエやカバネなら、名前を知ってるんだろうか」

 しゃがみこんでまじまじと観察する。苔むした岩に、水分を多く含んだ土と背の低い植物。迂闊に触れるのは危険だからという教えを守って、アルムは観察に留めた。

「いいな。今度フーガとコノエを連れてきて教えてもらおう。もしかしたら、新種かもしれない。そのときは私の名前をつけてもらう約束なんだ」

「な、名前? アルムの?」

「そうなんだ。ふふ、見つけた人が名前をつけていいらしい。だから、私の名前にしたら後世まで、これを見たら皆が私の名を呼ぶんだ。面白いだろう」

 クヴァルは反対と顔に書いていたが、アルムはそういう細やかな楽しみを糧に今を生きている。隠れて逃げて、人の顔を何日も見ないのは、やはり時折泣きたくなるものだった。

「なぁクヴァル、もし、もしもだぞ。もし私が本当にこの天子の呪いから解放されて自由になったら……クヴァルはどうする?」

「どうするって……?」

「うーん。要は、今は私の警護のためにクヴァルはここに居るだろう。それが必要なくなって、もちろん私も呪いがないから何処へでも行けるし、街で暮らせる。そうなった時、クヴァルはどうする?」

「え……」

 ぽかんとしたクヴァルに、アルムはずいと指を突きつけた。息を飲んだクヴァルに、アルムは眼前で指を振る。

「前にコノエが言ってたんだ。働かざるもの食うべからずって。私はまだ、お客さんみたいなものなんだろう。でも自由になったらお客さんは駄目だ。道を作ってもらってその上を歩くだけじゃ、私は自由なんかになってない」

「アルム……」

「私はな、人を幸せにしたいんだ。私も幸せになりたいから。その為には、何かを身に着けないと。この世界は、気持ちだけでは食べていけないからな。だからー……うーん、悩み中だ」

 アルムは地上が好きだ。この世界には美しいものがたくさんある。十二地区に花が咲いたように、世界はきっと、まだ輝く場所がある。生きている間になせる事は、そんなに多くないとしても。

 ふっと、クヴァルが微笑んだ。

「凄いな、アルムは。俺には、そんな先のことまで考えられない。ただ君と在れるなら、それでいいと思っていたくらいだ」

「それは駄目だぞ、クヴァル。私の道とクヴァルの道は、沿うことはあっても同じじゃ無いんだ。私に未来を委ねないでほしい。責任は取れない」

「難しいな。……俺は軍の規律と、アルムの護衛以外、何もしたことがないから」

「うん。私にも難しい。でも、いっぱい、悩まないとな。私には知らないことが多いから、たくさん悩んでしまうんだ。それは素敵なことだと思う」

 可能性は未来の数だ。それでも選べるものはたった一つ。次の木を右に避けるか左に避けるかで、アルムの未来も大きく変わってしまうのかもしれないのだから。

 笑い合って、アルムは鞄から地図を取り出す。現在地はリベリオン本部のある街から北に約二日分の距離。ここで三週間を過ごしたら一旦リベリオン本部へ戻る予定だった。人の姿を見るのは少し楽しみだが、やはり呪いを思うと喜んでもいられない。

「アルム、今日はこの辺りで休もう。そろそろ日も落ちる」

「あぁ、うん。あっ、待った! 今日は私がテントを張るぞ」

 ちょうど岩で風よけが出来そうな場所を見つけたクヴァルにアルムは慌てて駆け寄る。いつも先を越されて野営の設営をされてしまうのだ。今日こそと息巻くアルムに、クヴァルは苦笑して折れてくれた。

……とはいえ、結局手伝って貰う羽目にはなったが。

 湿気た大地に苦労して焚き火を作る頃にはすっかり夜に包まれていた。ぱちぱちと枝の爆ぜる音が静かな森に響く。温めた湯に砂糖漬けのレモンを溶かすのが、アルムは最近のお気に入りだった。これもそろそろ底をついてしまうが。

「そういえばな、クヴァル。最近面白い夢を見るんだ」

「夢?」

「エーテルネーア様が、私を呼んでいる夢。扉の前で、手招いているんだ」

「なっ……!」

「ふふ。可笑しいだろう。エーテルネーア様はもう亡くなっているのに。でも、変なんだ。怖くないというか……、私はその先に行かなければならない気がするんだ。その先を知りたいと、思うんだ」

「アルム、それは駄目だ。……俺は行ってはいけないと思う」

 まじまじと見つめたクヴァルに、アルムは苦笑を零す。

「大丈夫。ただの夢だ。もしかしたら、昔エーテルネーア様に連れて行ってもらった大聖堂が恋しいのかもしれないな、私は」

 思えば、エーテルネーアは優しかった。教養も与えてくれたし、何よりアルムを責めることは一度もなく。むしろ見守るように常に慈しみに満ちた瞳を向けてくれていた。それは、アルムが孤独を感じなくて済んだ一つの要因でもあったのだと、今では思うが。

 アークに帰還して次に会ったときには、動かなくなっていたエーテルネーアが思い出されて、ぎゅっと体に力が籠もった。速やかに帰還すれば、エーテルネーアが死ぬことは無かったのでは。何度も後悔した結果だ。

「……アルム」

「あ……あぁ、うん。なんでもない」

「エーテルネーア様のことは、君のせいじゃない。……いや、何もかも君が責任を感じることはない」

「クヴァル……」

 それは、駄目だと思う。そう喉まで出掛かって、アルムは飲み込んだ。リーベルもクヴァルも、自分は被害者だからと言ってくれるのが、最近はずっと心に重い。自由を取り戻す。アルムを解放する。正義の味方だと、誇らしい二人だ。

(でも何だろうなぁ……)

 つい、クヴァルには見えないように寂しく笑みをこぼす。

 罪を背負ったままで、傷を負いながら生きているフーガを思い出すと、羨ましくなる。アルムは罪が欲しいわけでは無いが、無いものとして扱うのとは、違う。

 アルムが最後に見たフーガは、コノエ達と楽しそうにリベリオンを発つ姿だった。彼にはもう、リベリオンという仮宿は必要なくなったのだとあの時分かった。攫われた時に素気無くされたフーガはもう何処にも居なかったけれど、あの後ろ姿が本当のフーガだったのだろう。アルムも、そんな自分が、欲しくなった。

「……私も、本当の私を……知りたいな」

 ぽつりと呟いて、カップに口をつける。仄かに甘い味が、今日も寂しさに飲まれそうな心を溶かして流した。

 

 アルム。

 誰かに呼ばれた気がして、アルムは顔を上げる。真っ暗な空間だった。なのに、自分の姿は闇に飲まれない。まるで内側の光に守られているように。

 視線を巡らせると、背後に青白い扉があった。氷で出来たような、透明な扉。でもその向こう側の景色は見えない。闇に浮かんだ扉の傍らには、人の姿。この景色に、アルムは覚えがあった。

「エーテルネーア様。……ここは、どこなんだ。私は何度この夢を見てるんだ。何か、意味があるのか?」

 夢の景色だ。最近ずっと見続けている夢。ここで目が覚めて終わる。扉の傍らに立つエーテルネーアは、寂しげな笑みを浮かべたまま、そこに居た。

「教えてくれ、エーテルネーア様。私は、私は何の為にここに居るんだ」

 叫んで飛び出したいのに、喉が締まっているように大きな声も出せない。足も動かせない。悔しくて、歯を食いしばる。ふと、気付く。自分の手に握られていたものを。

「……経典?」

 ロイエが託されたという原典。中身はなんてことは無い、ナーヴ教会の教えが記されたものだった。古くから根幹の変わっていない内容だったことは、少し驚いたが。むしろ簡素化された内容だけに、シンプルに教えが分かる。

「……違う」

 気付く。これは、ただの読み物で片付けて良いものではなく。変わらずに有り続け、上位者のみが閲覧可能だったこれは。

 顔を上げて、アルムはエーテルネーアを再度見やる。

「……覚悟は、いいかい。アルム」

「ああ。……私はもう、天子を終わらせるんだ」

 頷いて、アルムは今度こそ足を踏み出した。

 

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