第二部 光の先

 

 

 雨が降りそうな黒い雲が流れてきていた。傷が痛むのは、気象の変化のせいかもしれない。雨に降られる前に屋内へ戻らなくては、と視線を落としたクオンの視界に、苦笑いを浮かべた青年がいた。

「……確か……、コノエ?」

「あ、覚えててくれました? 良かった。こんにちは、クオンさん」

「どうしてここに……」

 二日前に突然現れた来訪者だ。忘れるわけもない。たった数分話しただけの彼が何故ここにまた現れたのか分からない。

「カバネ様の指示です。あー……、あの、近付いたら即死します? ちょっと使い方を教えたいものがあるんですけど」

「使い方?」

「コレです。通信端末」

 コノエが顔の横に掲げてみせた手のひらに収まる程度の長方形の機械。クオンは目を瞬いた。通信端末なんて、触れたこともない。

「直接近付くと貴方が困るだろうから、せめてこれで話をしないか、との伝言です」

「え……え?」

 意味がわからず困惑するクオンを他所に、コノエは柵を飛び越えてクオンへと歩み寄った。逃げなければならない筈なのに、足は動かず。一メートルほどの距離まで近づいたコノエを、ぽかんと見つめていた。

「あの人は正義感が強くて、一度決めたら譲らないんですよ。……今、大臣達を説得して、研究員を掻き集めています。まだ、間に合いますよね?」

「え……」

「必ず助けに行くから、待っていろ、と。……まあクオンさんが断っても勝手に救い出しますよ、あの人は。それまで、何か必要な連絡があればこれを使ってほしいって事です」

「……どうして、僕なんかのために……」

 呪いなんてどうにもならない。今まで自分でコントロールしようとしても無理だったのだ。人といることを、近頃は諦めてしまった。寂しくないと言い聞かせながら。なのに、手を差し伸べようとする手がここにあって、心が震える。その手を取れば、きっと不幸を背負わせてしまうのに。

 ふっと、コノエが微笑んだ。

「重荷だったら、世界のためって思ってください。……貴方が居る限り国が危険に晒される。その危険因子を取り除きたいんですよ、カバネ様は」

「……優しいね、コノエは」

「俺はカバネ様の命令で動いてるだけの、ただの兵士ですよ。……取り敢えず、話をしてみませんか? カバネ様、多分待ってるんで」

 差し出された機械をクオンは見つめる。触れたことが無い、黒くて薄い箱のような物体。黒い箱に反射した自分の顔に、クオンは小さく笑った。

「おかしいな。諦めた筈の人生に、僕はまだ光が差すことを期待してたんだ。雨が降っても、晴れが必ず来ることを……知ってたからかな」

「う、うん……?」

「……最後まで、僕も……足掻いてみたい。死ぬのは……痛いのは、怖いね」

「クオンさん……」

「教えて、コノエ。僕こういうもの、初めて触れるんだ」

「あ……はい!」

 ぱっと表情を明るくして、コノエはすぐさまレクチャーに入ってくれた。心が高揚する。無骨で硬い通信端末。最低限の機能しかないと前置きをコノエはしたが、クオンからしたら何もかもが物珍しいものだ。言われるがままに画面に触れて、やがて。

『あぁ、無事に辿り着けたかコノエ。良かったよ』

「え、えっ!」

 近くにカバネの姿はないというのに声が聞こえて、飛び上がるほど驚いてしまう。ナーヴ国内ではまだまだ機械文明が浸透していないから仕方ないが、不思議でたまらなくなる。不安に駆られてコノエを見やると苦笑いを浮かべていた。

 端末に少し顔を近付けて、コノエが口を開く。

「無事お渡ししましたよ、カバネ様」

『ん? ああそうか、良かった。聞こえているか、クオン』

「え、あ……えっと……うん……」

 両手で握りしめた端末を少しだけ口元に近づけて、戸惑いつつもカバネの声に応じる。心臓が、どきどきと忙しなくなる。顔まで熱くなってきた。

『すまないが、少しだけ待ってくれ。必ずナーヴから連れ出してやる。お前がもう誰も傷付けなくていいように。だから、信じて待っていてくれ。……最後だなんて、俺より生きてないのに悲しいことを言うな』

 カバネの言葉に喉が、ぎゅっと詰まった。唇が震えて言葉が紡げない。ぽん、とコノエが背中を軽く叩いた。驚いて顔を上げたクオンに、コノエは黙って頷く。大丈夫、と。

「……ありがとう。……ありがとう、カバネ……コノエ……」

『気にするな。究極的にはこっちの都合だ。先に分かることがあれば教えてくれ。お前の呪いについてどうにかしたいのは本当だが、こっちもリスクは減らしたいからな』

「うん。……分かることなら、ぜんぶ」

 涙が滲みそうになるのを、声が詰まりそうになるのを必死に耐えながらクオンは口を開く。希望なんて、無いものだと思っていた。与えられずに当然と諦めていた。人の命を奪い続けた自分には当然の罰だと。

 それでも今は、身勝手にも救われたい自分に呆れつつも、クオンの心は歓喜に震えていた。

 

「すごいね。コノエは傷の手当ても出来るんだ」

「多少は、ですよ。戦地にいるとこれくらいは出来ないと死にますから。……それより、ナーヴの連中はろくな手当てもしてくれないんですか? 下手したら腕腐って死にますよ」

「……その程度なんだよ、僕の価値は」

 寂しげに微笑んだクオンに、コノエは心の中で自分に舌打ちをする。傷付けたいわけではないというのに、失態だ。包帯を巻き終えて、可動に負荷がないか確認して作業を終える。クオンは嬉しそうに腕に巻いた包帯を撫でた。

 曰く、先月エーティアを滅ぼした時の傷だそうだ。呪いはクオンの心理的不安や恐怖に対してその威力を増幅するよう仕組まれているらしく、先月はナーヴの兵に腕を切りつけられて痛みによるストレスで行われたらしい。縫合も適当で、化膿した傷口はまともな医療施設に送るべきレベルだが、クオンはここにとどめ置かれている。

 それこそ、そろそろ用済みというところなのだろう。この様子では次の国を滅ぼす際には死ぬ際まで痛めつけられるのかもしれない。想像するだけで恐ろしく、怒りが沸々と湧いてしまう。

「普段はね、もっと狭い区画で生きてるんだよ。空も見えない、管理された天井の下でその時が来るまでただ生きている。だから、正直ここですら僕には楽園なんだ」

「クオンさん……」

「不思議だなぁ。僕とこんな風に話してくれる外の人は初めてだ。手当てなんて余計にね」

「……カバネ様が、多分もっと広い世界を見せてくれます。だから、信じていてください」

 うん、とクオンは安堵した様子で頷く。コノエも笑みは返しつつ、自分への異変を確かめていた。特に今の所何もない。近付くなとクオンに釘を刺されてはいたが、先程の話の通り、余計なストレスさえなければ即死はしないらしい。不安定な術だ。兵器としては扱いづらい。秘匿性という意味では有用なのだろうが。

 ふと、クオンがコノエの袖を掴んだ。笑みを浮かべてはいたが、どこか不安げに揺れる瞳に、コノエは瞬きをする。

「あのね、コノエ。こんな事言ったらカバネは怒るだろうからコノエの中だけに留めておいて欲しいんだけど」

「はい……?」

「もし、君達やゴウトの人達の命が危うくなるなら、僕の事は構わなくていいから、自分達を優先して。僕は覚悟は決めてるんだ。でも、人の命をこれ以上奪うのは、嫌だから」

 強く言い切ったクオンに、コノエは咄嗟に何も言えなかった。カバネの願いと命令を汲むなら、クオンの言葉には従えない。だが、コノエ個人として守りたいものが無いわけではない。

 沈黙したコノエに、クオンは困ったように目を逸らす。

「僕が何かを言える立場じゃないのに、ごめんね」

「あ……いえ。……でもきっと、カバネ様は何が何でも、クオンさんを助け出そうとしますよ。そういう、方なので」

「でも、コノエにとっては僕より守るべき人なのも、確かだ。……命の優先順位、忘れないで」

 優先順位。冷たく心の隙間に滑り込んだその言葉で何より心を痛めているのはクオンだと、コノエも分かっていた。分かっていて否定できない自分が、弱くて歯痒い。

 

 コノエを見送って、通信機を大事にポケットに仕舞い込み、クオンは自宅へと足を向ける。

 ここにはほとんど人は住んでいない。居るのは、それでも共にあろうとしてくれた母親と兄弟、それと幼い頃から面倒を見てきてくれた数人の知人と村長だけだ。彼らとも今は同じ家屋には暮らしていない。その方が、少しでも長く命を紡げるからだ。クオンとしてはその方が有り難い。

「……良いのですか、今すぐにでも捕まえてナーヴに突き出すべきでは」

 ふと聞こえた声に、クオンは足を止める。村長の暮らす家屋の窓から、声が漏れていた。

「そうですよ! 俺達だってあの子には少しでも長く生きていて欲しい。でも、内通者だとか何とか言われて、もっと多くが死んだらどうするんですか!」

 ぎゅっと袖を握りしめる。彼の主張はその通りで、分かっているからこそクオンはずっと耐えてきたのだ。聞いていたら悲しみと申し訳無さが押し寄せて、呪いが強くなる。早く離れて、彼らの命を守る必要がクオンにはあった。

「それでも、私はあの子がそうしたいのなら、それを尊重してやりたいと思うがね」

 ぴくりと指先が震えた。諌めたのは、村長の声だった。もう目も見えなくて、体も不自由ながらクオン達の一族にとっては精神的支柱。慈愛に満ちたその言葉は、いつだってクオンを優しく守ってくれていたものだ。

「これは大人の都合だ。戦争を止めることもできない私達があの子にそこまで責任を背負わせてはいけない。……皆、そう思って、送り出してくれたのだ。今更私達にだってあの子は救えない。……救ってやれるなら、そうしてやりたいというのに。ヨスハの子も、私達は守れなかったのに」

 それは確か、先代の呪いの受け手だったはずだ。クオンより先に呪いを振りまいて、最後はどこかの国と共に焼かれたという。いつかその場所に、クオンも辿り着くのだと覚悟してきた。今になって、そこから離れようとしている自分が、あまりにも残酷だと痛感する。

「……あの子が何処かで生きられるのなら、私達はそれを温かく見送ってあげよう。それはきっと、世界の導きだ。その名が宿した運命は、もっと永く続くべき命のはずなのだから」

「村長……」

「翼を持たず、闇しか許されなかった私達だ。導いてくれる光が、受け入れてくれる土地があるなら……それは、世界の意思そのものだ」

 それ以上は、誰も反対しなかった。クオンは、黙って足を踏み出す。村長の言葉は、確実に自分に向けられたものだ。その意味を、意志を噛みしめる。

(……ごめんなさい。……ごめんなさい、みんな)

 それでも叶うなら差し伸べられた手を、クオンはどうしても掴みたかった。

 

 大臣や研究員を説得するにはカバネでも随分骨を折ったらしい。それもそうだ。呪いを解析するなど、命を危険に晒さないと出来やしない。呪いを抱え込んで、国全体に危険を招くなど誰もいい顔はしない。それでも、カバネのカリスマはそれさえ乗り越えるのだから、本物だ。上手く行けば、ナーヴからの侵攻を抑えこめるのならば尚更退く理由がない。時にはリスクを侵さねば勝利は降ってこないのだから。

「カバネ様、こちらは準備完了です。いつでもいけます」

『流石はコノエ。仕事が早いな。……動きは?』

 通信機越しの声に、コノエは一旦モニターに視線を落とす。明滅する点は、ゆっくりと北へ移動している。ナーヴの国境近く、ゴウトとの交易も多い商業国家の国境へと確実に進んでいた。クオンが……あの通信端末をまだ持っていれば、だが。

「最後にもう一度だけ確認しても?」

『何だ?』

「……あの人は、俺達のことを信じていると、思いますか」

 仮にクオンが救いを諦めて、通信機をナーヴの者に渡していたら、今頃こちらの動きは予測されている。そうなれば、一番危険なのはカバネだった。

 主君を守るべき立場にあるコノエとしては、危険をやすやすとは犯したくはない。

 数秒の沈黙のあと、ふっとカバネが笑ったのが聞こえた。

『俺達が信じてやらねば、向こうが信じるわけも無いだろう』

「……それは……」

『後悔はさせない。俺も後悔はしない。その為に、まずは使い捨ての命などありはしないと、示してやりたいんだよ』

「……降参です」

 正義感だけで動けるカバネがやはり羨ましい。コノエはどうしても優先順位を考慮してしまう。だがそれで丁度いいのだろう。口元に笑みを浮かべて、コノエも覚悟を決める。

「国境までおよそ三十分。予測通り北54ルートを進んでいます。……ご命令を、カバネ様」

『ああ。……無駄死にはさせるなよ、コノエ』

「善処します」

『通信を切って一分後、攻撃開始。あとは頼む』

「ご武運を、カバネ様」

 ぶち、と通信が切れる。コノエは顔を上げて、カバネの命令を下達した。にわかに熱気を帯び始める陣営の先頭に立ち、コノエも刃を抜く。二人の無事の帰還を、確実とするために。

 

 唐突に、悲鳴が響き始めた。地面が揺れて、風が吹きすさぶ音が馬車の幌をゆらす。身を縮めたクオンは平静さを保てと自分に必死に言い聞かせていた。下手に恐怖と不安に飲まれると、無関係の人々まで巻き込みかねない。命を少しでも奪わずに済むように、外界との距離を曖昧にする。心にフィルターをかけて、時を凌ぐ。

「何だ、一体どこの馬鹿な野盗だ?!」

「野盗のごときが、統制取れてるわけないだろうが! どこの軍だ、馬鹿め! こっちに何があるか分かってるのか?!」

 苛立つ声が近付いてくる。嫌な予感がした。だが逃げられもしない。手足に課せられた枷が重く動けない。どうしていいか分からず凍りついたクオンへと、一人のナーヴ兵が叫ぶ。

「役割は分かっているんだろう! 降りてこい!」

「っ……!」

 それが何を意味するかは、クオンが一番知っていた。聞こえる銃声と爆発音。何かに襲撃されているのは間違いない。そしてクオンが今それらを駆逐できていないとしたら、彼がすることは一つだ。

「……っ、や……めて」

「ぐずぐずするな!」

「僕はまだ……、っ……」

 まだ死にたくない。痛いのも嫌だ。誰も殺したくない。じわじわと自分の周りの呪いが濃度を増すのがわかる。それが怖い。だというのに、その心に応じて加速する。ぎゅっと目を固くつむり、耳を塞いだ。

「誰か、助け……!」

「がっ?!」

 くぐもった声をあげて、兵士が吹き飛ばされた。びくりと身を竦ませて、光の中に見えた背中に目を見張る。

 黒のコートと、両手にナイフ。太陽の光を反射したそのナイフの光は、何故か恐怖ではなくクオンの心に安堵をもたらした。

「……か、ば……ね?」

「っ、はぁ……、少し手こずったな。無事か、クオン」

 少し息を乱しつつ、それでも瞳に希望の光が見えたカバネに、クオンは言葉が出なかった。

 信じていなかったわけではなく。それでも、そんな奇跡を望むことは諦めていた。絶望なんて、慣れていた。なのに。

「まだ全て解決というわけにはいかないが、まずは最初の一歩だ。迎えに来たぞ、クオン」

 差し出された手に、もう我慢は出来なくて。何度も頷きながら、クオンは涙を溢した。

 

「……コノエ、そろそろ書類は終わりじゃないか?」

「何言ってるんですか! 全然予算組めてないって方々から抗議の嵐ですよ! 話つけたんじゃなかったんですか!」

「あー……、まぁ……そうだな。調整はまだだったかも知れないな」

「それは話がついてないっていうんですよ! ご存知かと思いますけど!」

 がみがみと吠えるコノエに苦笑いを返しつつ、カバネは順番待ちの決済書類に目を通す。クオンの件ではだいぶ我を通した反省は多少持っているが、気分は軽いものだ。

「はぁ……、午後までに半分にしてください。二時に車を用意しているので」

「分かっている。クオンを待たせるわけにはいかないからな」

 先回りして答えたカバネに、コノエは一瞬目を丸くしたが、すぐにため息に変えた。コノエの気苦労は分かっているが、もう少しだけ我慢してもらいたいものだ。

「これでナーヴの最悪の兵器を潰せる。……その上で一人の人間も救える。安いものだろう?」

「何も言ってませんよ、俺は」

「はは、そうだった」

 笑って、書類に署名する。開けていた窓から滑り込んだ風は、どこからか雨の香りを連れてきていた。

 

 

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