第三話 フレーズ一小節

「そろそろ俺は帰るが、悠に任せていいか、こいつ」

「いいよ。ほら巳波、起きろよー。虎於帰るってさ」

「え……いけない……、私また寝てしまいました……? 瞼重い……」

 そりゃ散々泣きはらしてたからな。目元も痛いだろう。トウマの話を一度始めたらこいつはすぐ泣き出すクセがつきつつあるな。悠は苦笑いをしていたが、俺にとっては段々と日常に組み込まれてきつつあるのは頭が痛い。折角久しぶりに悠が帰国しているのだから、もっと楽しくいたいものだがな。ただ、トウマがいない欠けを認識しやすいのは俺にも分かる。早く戻ってくることを祈るばかりだ。

 悠にまだ寝ぼけている巳波を任せて精算だけ済ませた俺は、そのまま冷たくなってきた秋の夜空の下へと踏み出した。上着が欲しくなる気温になってきたな。スマホを取り出して、ラビチャを一件送る。簡潔明瞭、いつものやつだ。

─あと一時間くらいで着く

 大概返事は来ないから、そのままポケットに仕舞おうとしてスマホが振動した。思わず動きが止まる。すれ違ったサラリーマンの笑い声が、殊更大きく聞こえた。

「……はは」

 画面を見て、思わず笑ってしまった。まぁ、笑わずにはいられないだろう。

─1Lの牛乳パック買ってきて、なんて。

 俺が買い物に寄れると思ってるのが面白いな、すみれは。スタンプで返事を送って、スマホをしまう。こういう場合、コンビニにでも寄れば良いのか? ブランドショップ以外まともに一人で寄らないからわからないが、頼まれた分くらいは仕事を果たそう。

 すみれと謎のふたり暮らしを始めて、そろそろ半年に近付いて来ていた。

 

「そうだ、すみれ。明日は休みか?」

「きゅ、急に何?」

 そんな怯えた顔しなくたっていいだろ。ここ何回か、夕飯を一緒に食べてるだろうが。家でだけど。仲良くなった、というわけではないが、前ほど警戒心むき出しでもない。不思議な空気ではあるが、最近はこれも心地良いもんだ。

 コーヒーのカップをおいて、背筋を伸ばしたすみれを見やる。

「俺も明日はオフだ。久しぶりに海にドライブに行くんだが、お前も来ないか?」

「……え?」

「嫌ならいい。たまには遠出も悪くないかと思っただけだ。まぁ、この時期だから少し寒くなってきただろうし、ただの提案だ」

「そんなの……、彼女と行けばいいじゃない」

「何言ってるんだ? 今の俺の女はすみれだろ」

「は……?」

 淀みなく反論した俺に、すみれはぽかんとした。いや、俺の言い方が悪かったのは認めるが。でも他に言いようもない。紙面のない契約だが、一応俺とすみれはそういう事にしたじゃないか。……悪くない響きだしな。

 沈黙が数秒あって、すみれはあっと小さく声を上げるとぶんぶん首を振った。忙しないな。

「そ、そうかもしれないけど! そういう意味じゃなくて!」

「俺は行くか行かないかだけ聞いてるんだが?」

「……私が、行っていいの?」

「二度言わせるな」

 そういう所、女の面倒くさい所の筆頭だぞ。すみれに対してはつい突き放すような言い方をしてしまうのは、何故だろうな。嫌いなわけでもないのに、機嫌をとってなあなあに済ませる事を避けてしまう。俺らしくない。

「……行きたい」

「じゃあ寝坊するなよ。身支度に手間取ったら置いていく」

「優しくないわねっ」

 絞り出したような返事をしたくせに、そういう声は大きいんだな。つい笑ってしまったら、すみれは大層不服そうにそっぽを向いた。そう拗ねるなよ。折角久しぶりに助手席に載せる女だっていうのに。

 そういえば、最後に助手席に載せたのはすみれだったなと、ぼんやりとあの豪雨の日を思い出した。

 

 時間通り……どころか三十分前には支度を終わらせて落ち着かない様子だったすみれを乗せて、車は都心を抜ける。遅くなっても置いていくつもりはなかったが、そんなに置いて行かれたくないとは意外だった。余程海が見たいのか。

「何処か寄りたければ寄るが、どうする?」

「特に何も。あ……でも水族館は見たい、かも」

「仰せのままに、お姫様」

「ちょっと」

 むっと睨んできたすみれについ噴き出す。どうしてそう、刺々しいんだかなこいつは。渋滞もなく車はスムーズに目的地へ向かっているのに、俺達の関係は長いこと赤信号だ。

「そろそろ笑って受け流せよ。良いじゃないか。折角の休みだ。少しはそれらしい事も俺達には必要だろ」

「……別に、そういう関係じゃ……ないでしょ」

「少なくとも本気で嫌いな女を乗せる趣味は持ってはいないぜ。……まぁこれでも飲んで着くまで待ってろ」

 差し出したペットボトルを、すみれは恐る恐る手に取った。別に毒なんて盛ってないんだが。

「買ったの? 貴方が、自分で?」

「俺だって流石に自販機くらい使える。……こういう時は、飲み物くらい用意するものだろ。前に誰かさんが言っていた」

「何その初めて付き合ったカップルみたいな話。貴方にそんなかわいい思考したお友達がいたなんて意外」

 くすくすと笑ったすみれに、俺も苦笑いを返す。だそうだぞ、トウマ。もちろん俺なら先にレストランくらい用意しておくからな。少しだけ、普通っぽいことをしてみたくなっただけだ。

「音楽、入れてもいい?」

「構わないぜ。まぁでも、お前は嫌がるかもな」

「え?」

 返答する前に、オーディオを起動する。流れ出した軽快なメロディに、すみれは固まっていたけど。

「な、な、なんで?!」

「この間配信で見つけたから買ってみた。売れてただけあって、あんた歌上手いな」

「い、いい! やっぱり音楽いらないっていうか違うのにして?!」

「生憎と今はこれしか入れてないんだよ。諦めろ」

「何それ、ほんっ……ほんとに。やだこの人……訳わかんない……」

 げんなりため息をついたすみれには悪いが、俺だって不思議なんだから仕方ないだろ。止めるでもなく流しっぱなしになるすみれの歌声は、海岸線に辿り着くまで車内に響いていた。

 

「何時までも不貞腐れないでよ。少し水に濡れたくらいでしょ」

「聞いてない。濡れるなら普通タオルくらい用意しておくものだろう」

「どこの過保護育ちなのよ。一般庶民の遊びに少しは慣れなさいよね」

 けらけらと楽しそうだなすみれは。俺と同じようにスカートもブラウスも濡れてるのにご機嫌だ。海水だから濡れた袖がベタついて俺は気分が滅入りそうだよ。ため息をついていると、すみれはまたいっそう愉快そうに笑っていた。それこそ、今まで見たことがないくらいに。

「あんた、そういう顔で笑うんだな」

「な、何よ。怒ったの?」

「いや。笑っていた方がいい、すみれは」

 すみれは一瞬で顔を赤くして、即座に逸らした。いや、褒めてるんだから素直に受け流してくれてもいいだろ。無意味に俺だって気まずくなる。

 すぐ脇を親子連れがすり抜けて、楽しそうな笑い声を残していく。何だろうな、こういう空気を俺は知らない。

「時間が勿体無いな。行くぞ、あっちは何だ? くらげ?」

「みたいね。……うん、……ありがとう」

 なんの礼だかさっぱりだが。隣を歩き出したすみれと館内を巡り出す。そういえば水族館なんて久しぶりだ。小さい頃に来た以来な気がする。

 入り口で貰ったパンフレットを開こうとして、イルカショーで濡れてぐしゃぐしゃになっていたことに二人して今頃気づき顔を見合わせて笑ったのは、悪くない時間だった。

 

 靴に砂が入る感覚が、前は煩わしかった。車の中まで着いてくるからな。今は何だかそれも楽しそうだと思える。あいつらと三年いて、普通の遊びを齧ったからかもしれないな。ZOOLでいた時間がなければ、俺の人生はずっとつまらない時間だったかもしれない。

「しかし汚い海だな」

「都会に近い海なんてこんなものでしょ。さっき鳶(とび)におにぎり攫われたのは面白かったわよ」

「あれは……怖かった」

「私も」

 いや取られたのは俺なんだけどな。隣に居たすみれも悲鳴をあげていたか。まったく、爽やかじゃない海辺だ。呆れるほどに普通って感じがする。

 潮風がすみれの髪をばたばたと弄んでいる。水平線を見つめて、ふとすみれは口元に笑みを浮かべた。

「歌いたくなるような風」

「強くないか?」

「全部掻き消してくれそうじゃない? ……あはは、私まだ歌いたいって気持ち、あったんだ」

「良かったじゃないか。何なら今ここで聞いてやるよ」

「気が向いたらね」

 流石にその返答には驚いた。嫌だと一蹴されると思っていたからな。自惚れでなければ、すみれも多少は俺に対する壁を低くしてくれたのだろう。それは……ありがたいことだと、思う。こいつに対してかつての俺がしたことを思えば。

 波の音と、少し強い風が鼓膜で混ざって少しやかましい。髪を手で押さえるすみれと無言で海辺を歩く時間は穏やかなものだった。俺が今まで女といた所謂デートはいつも、一時の情熱を吹き消すまでの時間に近かったからかもしれないが。……いつもトウマと巳波が大事にしてきたものに、近いんだろうか、これは。だとしたら、俺は本当は。

「……すみれ」

「何?」

 海から俺へと視線を上げたすみれに、一瞬息を呑んだ。言葉が詰まって、思わず目をそらしてしまうほどには、びっくりした。

「え? 何か言いかけてなかった?」

「気のせいだろう。そろそろ帰るぞ。渋滞に巻き込まれるのは苦手だ」

「そうね。それには賛成」

「先に車に行っててくれ。飲み物買ってくる」

「もう少し潮風にあたっていたいから、買ってきてからエスコートして。それくらい出来るでしょ? 今日の最後くらい貴方お得意のお姫様にしてよ」

 それはお前が最初に嫌がったんだがな。よほど機嫌が良いらしい。でもそう言われたら、もてなしてやるのが男ってものだ。嫌いな女じゃないなら、特に。

 黒い砂浜を一旦離れ、道路の向かいに見つけた自動販売機の前に辿り着いて、思わず大きく息を吐き出した。いや……何をやってるんだろうな、俺は。今更痛感する。らしくないことばかりを、思ってしまう。

「……ちゃんと、しないとな……」

 俺が始めてしまった滅茶苦茶な行いは、きちんと明確な形でピリオドをうたないと。誰に対しても、今の俺は中途半端だ。顔を上げて背筋を伸ばす。いつだって俺は、堂々といなくては。

 無糖の紅茶のペットボトルと、カフェラテのペットボトルを一つずつ買って、踵を返す。振り返れば海が広がる景色は、やっぱり気持ちがいいな。少し遠くなったすみれの姿も確認できる。……男二人に絡まれているようだったが。いつの間に。まぁすみれは可愛いからな。とっとと追い払って帰るか。

 車の往来がないことを確認して道路を渡り、再び砂浜へと足を下ろす。沈んだ靴の隙間から、砂が滑り込んだのが分かる。車に乗る前には一旦捨てないとな……。しかししつこい男達なのか、未だすみれは振り払えていない。軟派に乗るような女ではないと思っているんだが。ここは俺がお姫様のために追い払ってやるか。

「おい、すみ……」

 あと五メートルほどの所で声を掛けようとした瞬間、すみれが急に耳を塞いで蹲った。声を掛けていた男二人も予想外だったのか固まったのが分かる。俺も思わず足を止めた。

 何が、起きた? 流石に軽そうなこいつらが暴力を振るうようには見えなかったが。凝視してしまったすみれが震えていたのが分かった瞬間、体が動く。

「すみれ、大丈夫か。行くぞ」

「っ、あ……」

 男二人を無視して、すみれの傍らにしゃがむ。努めて平静に、いつもどおりに声を掛けたつもりだ。そうは聞こえてなかったかもしれないが。すみれは今にも泣きそうな顔をして、俺を見やる。ぐっと胸の奥が軋んだ。こんな普通の海岸で、何でそんな顔をしなきゃならないんだ、あんたが。

 手を掴んで、誰の返答も待たずに歩き出す。すみれが転びそうになっていたが、とにかくここには置いておけないと、思ったから。頭が熱い。俺は今、何の感情で動いてるんだか自分でも良く分からない。

 背中でシャッター音らしきものが聴こえた気がしたが、そんなものを気にする余裕すら、俺にはなかった。

 

「……だ、大丈夫?」

「あと五分待て」

「う、うん……」

 車に乗り込んで十分。隔離された空間に戻ったからか、すみれはほどなくいつもの顔色を取り戻していた。それにほっとしたせいか、今は俺の方がぐったりして疲れているんだがな……。いや、なんで、俺はほっとしたんだか。考えるのも疲れる。これから運転して都心へ帰らなきゃならないんだが。

「……何か……ごめんなさい」

「俺のことはいい。……それより、すみれ。お前こそどうした」

「ど、どうって」

「さっきの奴らに何か言われたのか?」

「別に、なにも」

 見るからに動揺してるな。震えていたのを気付いてないと思っているのだろうが、俺はちゃんと覚えてるぞ。

「震えていただろ。……怖かったのか」

 黙っていても話は進まない気がして、ストレートに問い掛ける。回りくどいのは、苦手だ。上手く伝わらないのも、かわされるのも今の俺は嫌だからな。

 すみれは黙ったまま。膝の上で握っていたカフェラテのペットボトルの蓋を指でなぞりながら俯いていた。答えない気なら、それも俺は飲み込むしかないが。

 沈黙の時間が長くなって、ため息の代わりにシートベルトを締めるとエンジンをかけた。渋滞は避けたい。話なら後でも出来るだろうからな。

「……怖いよ」

「え?」

「貴方に良いように使われてポイ捨てされて、十さんに迷惑をかけて、私は最悪の女だから、……男の人はきっと私を心の中で笑って恨んでるんだろうなって思うから、ずっとずっと……怖いよ」

 思いもよらぬ言葉で、言葉に詰まる。すみれの横顔を凝視していた俺を見やって、ふっとすみれは悲しそうに笑った。

「馬鹿で弱い女で、笑っちゃうでしょ。……おかしいなぁ。何で忘れそうになってたんだろう」

「すみれ」

「謝らなくていいから。……別に暴言吐かれてないし、単純にナンパされてただけ。こんなしょうもない女に声掛けたって良いことないのにね」

「そんな事はない」

 思わず強く反論すると、すみれは軽く目を見張った。胸の奥が、ざわざわする。この熱を、俺は知らない。知らないが、分かることは一つだけある。

「お前は、いい女だよ。……馬鹿なのは俺だ。今になって、あるいは今更気付いた」

「別に慰めなくていいってば」

「一つ提案なんだが」

「なに?」

「俺と付き合わないか。仮初のそれじゃなくて、ちゃんとした形で」

「……は?」

 勝手に口から出た言葉だが、でも、腑に落ちた。ぽっかり空いていた空間に渦巻いてた感情の名前が、やっと分かる。すみれはぽかんと俺を見つめてくる。

 こういう時は、押してしまえば良いのは経験則として持ってる。けど、それじゃ駄目なんだよ。そういう簡単な形でずっと後悔してきたじゃないか。だから、ちゃんと向かい合わないといけないんだ。

「それ……意味分かって、言ってる?」

「分かっている……と思う」

「そう……」

 浅く頷くと、すみれは目を伏せた。その表情は嬉しくも嫌そうでもなく、限りなくフラットで。俺はどう、受け止めたらいいんだろうか。分からなくて、それでも立ち止まっている時間は交通量を考えると待ってもいられない。

 小さくため息をつきギアを変えて、アクセルを踏む。僅かに慣性を感じつつ、走り出した車内ですみれはぽつりと。

「……変な人よね、貴方」

 その声音からは、すみれの感情は何一つ読めなかった。

 

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