第一話 音の止まり場

 向けられた銃口を見たとき、一瞬だけ期待した自分を、コノエは呪った。世界は都合よく出来ていない。千年も掛けて得ている答えが揺るぐわけもない。同時に、その光のない瞳に懐かしさを覚えた。

――可哀想に。

 引き金が引かれて、器用に心臓の位置を銃弾が貫いた。

 

 すべてを傍観することを選んだカバネの瞳に何が映っていたのか、正直コノエには図りかねた。無駄な殺し合いだ。いや、無駄ではない側面も、認識しつつ。

 きっと、羨ましいのだ。そうすれば終われることが。悔いて悔いて、言葉すら諦めたカバネには。コノエにもその気持ちは分かる気がした。

「はぁー……死ななくても痛いし、片付けは面倒くさいッスよ……」

 ため息と愚痴を零しつつ、コノエは掃除用具を片付ける。飛び散った血を拭き取るのは、正直憂鬱だった。カバネとクオンと、リーベルの話は続いている。コノエには、特に感傷にも浸れないただの昔話だ。

 証明で照らされた地下の居住空間は、静寂に包まれている。ここ一月程は、毎日が賑やかで思い出したように楽しかったのが嘘のようだ。とはいえ、これが本来の空気では、あるのだけれども。ふと、風が頬を掠めた。水源からは遠いのに、珍しい。

「……派手にやってくれたッスよねぇ」

 呟きつつ、膝を折る。血塗れで動かない少年。コノエに対して銃口を向けた、狂わずにはいられなかった世界の被害者の一人。死にたくてでも一人では死ねない臆病な瞳をしていたフーガを埋めてやるのが今回のコノエの最後の掃除だ。

「こんな地下で埋められるのは不服かもしれないッスけど、我慢してもらうッスよ」

 反論などありもしないのだけれど、久しぶりに死体に触れるにはそれなりに緊張する。つい独り言でも言わないと、やっていられない。

冷たさを覚悟して触れた肩は、思いの外冷たくなって居なかった。無意味に安心しそうになって、ふと違和感を覚える。何もおかしい事など無い筈なのだが、微細な違和感が指先を掠めた。恐る恐る、口元に手を翳す。

――気のせいかと思うほど、弱い息を指先に捉えた。

 思考が止まる。正しくは濁流のように溢れた疑問と感情とで思考回路が定まらない。

――どうして息を出来てる? 死んだ方が楽なんじゃ? 助けるべきか。息があるなら死なせるのは。そとそもカバネとクオンに銃を向けたことは許されるのか? リーベルが殺したはずでは? 死にたい顔をしていたのに、生き残ってどうす……――。

 最後に見た瞳を思い出して、コノエは奥歯を噛み締める。血を吸って重くなった筈の服を加味してでも軽い体を抱き上げて、抜け落ちそうな床板を踏みしめた。

 

 生きていても、楽しいことなんて一つもなかった。

 毎日誰かが死んで、死なないために自分の命を守るために時には誰かを傷付けて生き延びてきた。それが、世界のルールだったから。リベリオンとてその仕組みからは簡単には外れられない。だから、憧れた人のように強くあろうとした。 

 初めて銃口を引いたときはその反動に歓喜と共に恐怖したし、自分の銃弾で膝をついて血を流した男を見た夜は吐いて泣いた。弱い自分を見せないように、一人で。生き続けたのは勝ち続けたからで、いつしか弱い自分を意図的に殺してきた。

 それでも、弱い自分は死んでいなくて、分厚い壁で閉じ込めていた弱い自分はどろどろに溶けた黒い感情となって零れ落ちて、心を食い尽くした。何もかも、弱い自分を閉じ込めてくれた存在を取り戻せば、終わると、思ったのに。

 現実は全然優しくはなくて、こんな世界から解放されるための痛みを受け入れた。

 なのにまだ、痛い。寒い。ただただ、痛い……――。

「……あ、目が覚めたッスか。よかったッス……!」

 フーガの知らない声だった。薄く開いた視界で見える天井には見覚えがない。そもそもここが何処かもわからない。覗きんだ顔に、ゆっくりと瞬きを一つ。

「死ねた……」

「いや、死んでないッス。死にかけてましたけど、生きてるッスよ。あんた意外としぶといッスね」

 おかしい。この顔は、確かに殺したはずなのに。疑問は浮かぶも心は何も感じない。虚無感が、痛みすら奪ってしまっているようだった。惨めに、生き延びたということだけは、分かる。

「……死に、たかっ……た」

「それは、駄目ッスね。……あんたはカバネ様とクオンさんを殺そうとした。それはやっぱり、俺は許しちゃいけない事なので。簡単に死んで楽になられたら、困るんで」

 自分には関係ない。片や、自分が死にたい気持ちも、そちらには関係がない。フーガは生きて償えという罰に文句は言える立場にはなかった。

――もう、生きたくない……。

 喉も口の中も切れているのか痛くて動かす気力を失くす。暗闇に引かれるように瞼が落ちて、何かを思う前にフーガの意識は再び途切れた。

 

 幾分呼吸が落ち着いたのを見届けて、コノエは椅子に腰掛けて脱力する。久しぶりに、大掛かりな治療行為をした。体がよく覚えていたと感心してしまいそうなほどに。

 手のひらを見つめ、ゆっくりと握りしめる。ひと月前にアルムとリーベルの手当てをしたのは、案外必要なことだったのかもしれない。おかげで薬も揃えてあったし、点滴の手技も縫合も、ある程度は手先が思い出していた。何百年ぶり、ではあったが。

 手を冷やすのはただでさえ貧血なのだから良くないだろう。生きているとはいえ、死人のように冷えきった手を、針が外れないように注意を払って毛布の下に仕舞う。地下は決して暖かくはない。もう少し温まるようにしておくべきか。上掛けを直しつつ、まだ血のこびりついた髪を頬から退けた。

「……死にたいなんて、簡単に出来るくせにずるいッスよ……」

 ため息を溢して立ち上がろうとして、気配に気付く。同時に、冷や汗が噴き出した。そこからコノエは動けなくなる。まだコノエはカバネやクオンに何も、言っていなかった。

「処置は済んだか?」

「か、カバネ……様。す、すみませ……」

「謝るようなことをしたのか?」

 振り返る勇気もないまま、口を噤む。カバネが何を言おうとしているのか、判別が出来なかった。死にかけた存在を放っておけなかったのは事実だが、その相手が悪いことは百も承知している。目の前でフーガが切り殺されても、コノエには止められない。

カバネが一歩踏み出したのが床板の軋む音で分かった。恐怖に心が縮み上がる。

「……人助けは、叱られることではないだろう。それに、俺は傍観を選んだ。それでもなお、命が残っていたのはクオン的に言えばそういう運命なんだろうさ」

「はぁ……」

「ただ、落ちていた命を拾ったのはお前の責任だ。……死にながら生きるのか、自分でもう一度死ぬ気かは知らないが、最期まで面倒はみるんだな」

「最期……」

 嫌に甘美な響きだ。終わりがあるというのは。終わりを自分で選べるなど、コノエには許されていない。眠るフーガをじっと見つめるカバネの横顔は、いつもと変わらない無表情で固定されていた。

 開いたままの扉の隙間から、また風が滑り込む。アークの人間が開けた道から、空気が流れ込むようになったのかもしれない。状況によっては塞がなくては、下手をすれば居住区が浸水する。別の不安に思考を巡らせたコノエをよそに、カバネが踵を返した。

 かける言葉もなく視線でその背を追うと、ふと。

「……コノエ」

「ウッス」

「死なせないのは、楽じゃない。……お前まで、捨ててやるなよ」

 それだけ言って、コノエの返答を待たずカバネは出て行った。扉が閉まり、靴音が遠ざかる。その音を鼓膜に捉えつつ、コノエは手を強く、握り締めた。

 

 

 長年蓄積されてきた知識というのは、忘れていても虚空に飲まれたわけではなく。久方ぶりに積まれた薬草や化学の書籍の文字は喜んでいるように思えた。

「コノエ、お茶を……あ」

「あ、クオンさん。ってすみません。茶ですね! すぐ湯を沸かしますんでそこ座っ……」

 指を指そうとした席には、既に昨日持ち出していた本が鎮座していた。慌てて他を探すも、すでに椅子もテーブルも本が占拠している。固まったコノエにしばしぽかんとしていたクオンは、くすっと小さく笑うと、首を振った。

「いいよ、コノエはコノエの事をして。僕もたまにはこれくらい自分でしないといけないね」

「いやいやそれは俺の仕事ッスから! えーと、とりあえず何か適当にどかしてもらって……」

「うん、ありがとう。……じゃあ、ここを借りるよ」

 そう微笑んで、クオンはまだ本の積まれたスペースの少ないテーブルを選び、ちょこんと腰掛けた。いつも通り、ふわふわとした空気はそこに居るだけで時間の流れが穏やかになる。

 かつては大きなキッチンだったスペースは、今ではコノエの私室も兼ねていた。ベッドだけは別の部屋にあるものの、掃除洗濯畑仕事、加えてライフラインの定期メンテナンスとコノエの仕事は多岐に渡る。正直時間はいくらあっても足りない。

 足りない……のだが、今は時間を割いてでもしなければならない事があった。

「……もう、使わないものだと思ってたのにね」

 指でそっと表紙を捲りつつ、クオンが苦笑を零す。ケトルを火にかけつつ、コノエも同意の苦笑いを浮かべた。アルムもリーベルも、フーガに比べれば軽傷も軽傷だった。けろりと動いていた程度には、深刻な医療行為を必要としていない。むしろ彼らに行っていたものでは、付け焼き刃程度にしかならない。何より、コノエやクオンにとっては最早無縁のものでしかなかった。

「不思議だな。五百年近く何一つ変化が無かったこの場所なのに、今は忙しないくらいに変わろうとしてる。凄いね……世界はもう、とっくに終わってるんだと思っていたくらいなのに」

「クオンさん……」

「フーガは、大丈夫そうかな?」

「回復は割と早いッスね。嫌でも戦場を走り回ってたって感じッス。……その分、心は削ってたと、思うッスけど……」

「何処かが伸びるのは、何かを犠牲にしたとき。……悲しいね、人間は与えられたものの中から足し算と引き算で常にゼロにされてる」

 カップに淹れたお茶を出したコノエに寂しそうに会釈をして、クオンはカップに口を付ける。常に差し引きゼロ。自分たちを含めて言い得て妙だと、痛感する。何も言えなくなったコノエに、再度クオンは優しく笑みを向けた。

「僕のことは良いから、コノエはコノエのことをして。……フーガが元気になったら、話をさせてほしいな。僕は彼とは、まだ何も話していないから」

「あ……、了解ッス! 今度は失礼無いようにさせるッスから安心してくださいッス!」

 

 傷口が落ち着き、顔色も顕著な貧血からは抜け出たとはいえ、相変わらず……フーガは何も言わなかった。虚空を見つめて口を閉ざしたまま、包帯を変えるときも鎮痛剤を打つときも無反応のまま。……心が死んでいた。視線が交わることもないし、食事を持っていったところで手付かずのまま冷え切っている日々が、かれこれ二週間。

 死にたいと言っていたフーガは、確かにまた、死に向かおうとしていた。

「包帯キツくないッスか? そろそろ、抜糸も考えないとッスね」

 手の温度は、あの日ギリギリで拾ったときよりも温かい。それでも、瞳はあの時コノエに銃口を向けた時とは別の暗さを宿したまま動いていなかった。むしろあの時のほうがまだ、殺してほしいという感情が、宿っていたのに。

「俺の飯不味くはないと思うッスけど……好きなもんあったら、作ってあげるッスよ。知らなかったら……ゴメンですけど……何か、あります?」

 努めて明るく問い掛ける。半ば反応は無いものとして。それでも、言葉さえ諦めてしまったら、コノエは自分が折れるのを薄々感じていた。この千年、ずっとそうしてきたように。

「……た……」

「……えっ?」

 今、何か。胸に火が灯るような暖かさを覚えて慌てて耳を近付ける。

「何すか、フーガくん今なんて」

「……しに、たい。……死……せ、て……」

 掠れた、やっと喉から空気が漏れた程度の吐息の中に混じった言葉に、芯が凍った。覚悟していた筈の言葉では、なかったか。自分に問い掛けても、フリーズした思考が答えを拒否する。

「……それは、駄目ッス……ね」

 笑えただろうか。表情筋がまともに動いた気がしない。ぐっと、奥歯を噛み締め、ふと、カバネの言葉が脳裏を過ぎった。

――死なせないのは、楽じゃない。

「本当ッスね……カバネさん」

 嫌になるほど、突き付けられた。きっと、余計な事をした。カバネやクオンにとって。なにより、フーガにとって、余計な手助けをしてしまったのだ。自分のエゴで。

 変わらない日々が退屈だからと、非日常を組み込もうとした。本来であれば憎む相手を、死を望んだ本人の意思さえ無視して。

――俺は、最低ッスね……。

 程なくして、麻酔が効いて眠り始めたフーガにもう一枚ブランケットを掛ける。使用済みの包帯と、冷えきった食事の載ったトレーを手に部屋を後にしたコノエの足取りは、いつになく重かった。

 

 体が覚えた一連の日課をこなす。畑の水やりと、成長記録の記入。それが終われば最低限生活に必要な照明器具や水道管のメンテナンス。かつてまだ、普通の人間だった頃には思いもよらないことをしていると、ふと脳裏を過ぎった。食事の用意も畑仕事も、生きるためにやっている。死ねないくせに、生きるために。

「……って、クオンさん! お茶なら言ってくれたら俺が入れますって言ってるじゃないッスか!」

「あ、おかえりコノエ。僕だってたまにはやらないと、忘れてしまうよ」

「それはそうかもしれないッスけど……」

 そろそろ食事の用意をとキッチンに戻ると、クオンがマグカップを手に静かに茶を啜っていた。摘んできた野菜類と、水場に流れ着いた小魚を置き、コノエはついため息をこぼす。

「……ごめんね、コノエ」

「え、何がッスか?」

「コノエの仕事を取ったら、コノエが自分を保つ邪魔をしているのは、分かっているんだよ。でも、僕も忘れるのは、少し怖いから」

「クオンさん……それは」

 本質に触れられ、言葉に詰まる。無限とも思える時間を自我を保ちながら進むには、コノエにはこれしか無く。仕事を詰めれば、虚無を受け止めなくて済む。だからあらゆることを請け負ってでも、忙しい毎日を繰り返してきた。カバネとクオンが、困らないように。明るく前向きなコノエを演じる為に。

 どうやら、クオンにはお見通しだったようだが。

「……すんません。……気を遣わせて」

「ううん。そうでなくても、コノエが心配だったから。……疲れてる?」

「ああ……いや。……ッス……」

 うん、とクオンが瞳を覗き込む。心の内側を優しく宥めるような瞳は、千年前から変わらない。ふと、コノエは笑みを浮かべた。

「……俺、やっぱ余計な事を、しちゃったみたいッス」

「フーガのこと?」

 頷く。認めるのは、怖い。だが、認めないとコノエがコノエを保てそうになかった。

 クオンが黙って視線で座るよう促す。急に重くなった手足に、コノエは椅子に腰を下ろした。

「……傷は、よくなってるんすよ。でも……心は全然駄目ッス。食事も手付かず、栄養剤だけじゃ、やせ細るばっかりッスよ」

「うん」

「昨日なんて、……死にたいって言われたッス。……ひどいッスよねぇ、俺達なんて死にたくても死ねないのに。簡単に死ねるくせに死にたいなんて。分かってたッスよ。最初から、死にたくて殺されようとして、でも俺が拾ってしまった。……つまんない日常に、刺激が欲しかったんですよ、俺は。最低ッス……」

「コノエは、それでもフーガには生きてて欲しいって思うの?」

 クオンの問いに、コノエは即座に答えが返せなかった。生きて。それはエゴでは。死ぬのを認めるのは悔しいからでは。カバネの言葉を思い出す。

 死なせないのは難しい。もし、それでも死なせたいなら自らの手で殺すほかないのでは。千年も忘れた人を殺す感覚を、今更思い出すのは、背中が冷える。

 沈黙したコノエに、クオンはそれでも微笑んだ。

「……フーガは風だから、大地が温まれば、いつかは動き出すよ」

「は……?」

「ただ、返す言葉を持ってないだけ。きっと、コノエの声は、ちゃんと届いてると思うよ。……フーガは、やっと今、フーガになれるところなんじゃないかな」

 何を、言っているのかよく分からない。クオンの話はいつもこうだ。時々、何かを超越した物言いをする。ある意味、天子とはそういう何かを仕組まれて生まれてくるのかもしれない。

 はい、とクオンが淹れてくれた茶がコノエの前に置かれる。見るからに色が出ていない。量が足りないか、あるいは出涸らしを使ったか。普段コノエがどこに何を仕舞っているかクオンが把握しているわけもないのだから、仕方ない。コノエはつい、笑みを零す。

「コノエ?」

「いえ。……そッスね。最期までって、そういう意味じゃ……ないッスよね」

 椅子から立ち上がる。クオンは満足かもしれないが、家事担当として仕えるべき主に飲ませる茶は、淹れ直さなければ。

 

 深夜まで掛けて、コノエは一日分早く仕事を片付けた。太陽のないここでは動き続ける時計だけが時間変化を管理しているが、それでも多少なりとも疲れは出る。何一つ変わらない時を止めたような空間に、終わらない命と共にあってもまだどこかで、人間らしい感覚は残っていた。人間は、簡単には終われないのだ。

「お邪魔するッスよ、フーガくん」

 食事と医療資材を手に、コノエは声をかける。今日も返答はなく。ぼんやりと天井を見つめる瞳は、時々生理反応だけは忘れないようにか、ゆっくりと瞬きをする。いつもと変わらない。それは、悪くない。努めて笑顔を浮かべて、まずは処置用品を取り出した。

「とりあえず、怪我診してもらうッスよ。それから、食事。今日はクオンさんとカバネさんに許可もらって来たので、食べ切るまでここにいるッスからね。ちゃんと食べてもらうッスよ」

 フーガ自身はそれを望まないかもしれないが。コノエには、コノエなりの願いがあった。

 

 顔色も大分血が通い始めていた。傷も回復に向かっている。肉体は、生きようとしている。あとは、フーガ自身の問題だった。

 コノエとフーガは、生きてきた時間も道程も違う。分かり合えない道を、多分歩いてきた。だからその溝を埋めるには言葉しか、使えない。

「ちゃんと食べないと、体また弱っちゃうッスよ。折角良くなってきたのに」

 そう言ったところでフーガの耳には入っていないかもしれない。とはいえ、ベッドの上に、半身を起こせるようにはなった。ぼうっと虚空を見つめているのは、変わらずだが。

「はい持って……っと言いたいとこッスけど、無理ッスね? 大丈夫ッスよ、俺優しいんで食べさせてあげるッス」

 限りなく具材は細切れにして、原型すら留めていない。栄養バランスと味は悪くないが、見た目は悪いスープ。……余計に印象が悪いのでは、と脳裏を掠めたものの、軽く頭を振って気付かなかったことにする。

 冷ましてきたつもりではあったが、まだ湯気が立ち昇るスープをスプーンでかきまぜつつ、言葉を探す。

「……生きるの、大変ッスよね」

 ぽつ、と口をついて出たのはそんなつまらない言葉だった。だが、どこかそれを口にできた自分にコノエは安堵する。排除しようとしていた感情がまだ、あったらしい。

「カバネさんとクオンさんを殺そうとしたのに死ぬのは許さないなんて、あれ、嘘ッス。単純に、俺がフーガくんには生きて欲しかっただけで。……羨ましかった。俺が助けなきゃ、フーガくんは死ねてたのが、羨ましかったんスよ」

 本音だった。撒き散らす死を克服したはずが、自分の死を無くした。生き続けるのが苦痛だと思わない為に、毎日何かしらを自分に課す程度には、コノエは目を逸らして生きてきた。放っておけば簡単に手に入るのは羨ましくて、たまらない。邪魔をしたのは、ある意味ではやはり仕返しのつもりだったのかもしれなかった。

 ぐるぐると、かき混ぜる。いっそ言葉ごと、溶かし込んでしまいたい。

「……少しだけ、期待したッス、俺」

 あの日。フーガが銃口を向けてきたあの瞬間。あるいはついに死ねるかもしれないと期待をした。結果は見てのとおりだが。あの時の生きるのに疲れたフーガの瞳は、かつてコノエも通った道だった。

――あぁ、だから俺は助けたッスね。……世界の何もかもに疲れた自分と同じで終わるだなんて、可哀想だと勝手に思って。

 やっと腑に落ちた自分の行動に、コノエは自然と笑みを零す。

「……あの時結局、終われなかった。でも、それで良かったッス。お陰でフーガくんの命は拾えたッスからね。まあ……フーガくんは、嫌かもッスけど。殺されてしまえたら、よかっ……」

「僕は」

 手が止まった。今、口を開いたのは。

「もう、誰も、ころし、たく……ない」

 搾り出された声が、一瞬どこから紡がれたのか分からなかった。ぽかんとしたまま、コノエはフーガを見やる。俯いたまま、顔は髪で隠れたままで見えない。毛先だけが、風に揺れるように小さく震えていた。

「戦い、たくない。こわい。嫌だ……っ、しぬの、やだ。ずっと……怖かっ……」

「フーガくん……」

「しぬ……死にたく、ない……っ……」

 ぱたぱたと、涙が落ちていた。フーガの様子に、不謹慎にもコノエは安堵する。こんなに苦しんで、泣けて、良かったと。それはきっとまだ、心がギリギリで生きていたからだ。

 逡巡したものの、そっと手を伸ばして、背中に触れる。びくりと身を竦ませて顔を向けたフーガは、涙でぐちゃぐちゃだった。つい、笑ってしまうほどには。

「……大丈夫ッスよ。ここは、代わり映えがなくて薄暗くて毎日同じことの繰り返ししかないけど。……少なくとも、フーガくんの怖いものは、何もないッス」

 背中をさすると、あの時抱え上げた時よりもやせ細ってしまったと痛感する。それでもまだ、生きているのだから。涙を溜めた瞳が瞬きすると同時に、涙が何度も頬を伝い落ちる。その瞳には、光が戻り始めていた。

「俺の食事、そんなにまずくないと思うッス。食います?」

「う……うぅ……」

 膝を抱えて、フーガは泣き崩れた。コノエは黙って背中を撫でる。せめて一人ではないことを、フーガが忘れないように。

 暴れ回って狂い落ちたフーガはここにはいない。頼りなく孤独と恐怖に震えたフーガしか、居なかった。涙も声も枯れ果てた頃に、冷え切ったスープをコノエは食べさせる。久方ぶりの食事に噎せこんで、また違う涙を落としたフーガは、それでもコノエのスープを空にした。

 

 空になった食器と大分血の減った包帯を抱えて、コノエは軽い足取りで通路を進む。手付かずの食事に肩を落としてきた昨日までとは違う。ともすれば、鼻歌なんて歌ってしまいそうだった。

「……コノエ」

「あ、カバネさん。すみません、休みを貰ってしまって」

 キッチンの前で待っていたカバネは半分フードで顔が影になっていた。腕を組んで壁に預けていた背中を浮かすと、静かに首を振る。

「休んでいないだろう。世話の延長だ。……進歩はあるようだな」

「そー……ッスね。とりあえず一食は食べてくれたッス。あとは、これからもちゃんと食べてくれたらみるみる元気になりますよ」

「そうか。……だが」

 一歩、カバネが歩み寄る。その一歩に、急に不安が心を縛り付けた。

「あれは、ここには居られない」

「っ……」

「そして俺達は、ここから逃れられない。……それを忘れるな」

 カバネが傍らを掠める。何も、言えなかった。否定も肯定も喉に詰まって、息を忘れる。

 遠ざかる足音が、耳に痛い。

「それ、でも……、帰る場所だって……ないッスよ」

 甘いかも、しれない。それでも、傷付いて泣いている姿を思い出してしまう。許されない事をしたとしても、怯えて泣いている人間を斬り付けて捨てる程、コノエは人でなしにはなりたくなかった。

 

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