第一話 終わりと再会の、あの日のこと

 解散の日は、案外と呆気なく。解散コンサートを終えて、最後の打ち上げをして。

 それから私達は笑い合って手を振って別れた。だってそれは、永遠の終わりではなかったから。ZOOLはなくなっても、私達の縁が切れるわけでもなく、世界が終わるわけでもない。ただ少しだけ、明日から歩く道が違うだけ。

『じゃあ行ってくるな。ミナは仕事詰めすぎんなよ。お前何でもできるから、無茶なスケジュールでもなんとかしようとするだろ。ちゃんとマネージャーに管理してもらえよー』

「私を誰だと思ってるんですか。大丈夫ですよ。それより、狗丸さんこそ気を付けてくださいね。主にスリに」

『ばっ……、分かってるよ。あー、あれだ。……行ってきます』

「はい。……いって、らっしゃい」 

それを最後に、電話が切れる。頭では分かっていた。分かっていたのに、心が追い付けなかった。ちゃんと私は、笑えてましたか。貴方をちゃんと、笑顔で送れましたよね。電話だから、見えてないですけど。

リビングに座り込んで、ぼんやりと窓から見える空を見上げる。薄く見える飛行機雲がぐっと胸を締め付けて、仕事前だって言うのに涙が我慢できなかった。

 握り締めたスマホの画面は何も答えてくれなくて。真っ黒な画面に写った自分の情けない泣き顔だけがそこにある。

「行かないで……狗丸さん……」

 言えなかった言葉が今更溢れて、感情が止まらなくなった。それでも、もう飛び立っていった背中は追えない。棗巳波という存在は、ここに残る道を選んだのだから。

 その日、狗丸さんはヨーロッパへと旅立って行った。立派になって帰ってくるから、と約束して。ZOOLが終わっても、私が好きになったあの人は、歌うことを諦めない人だった。

 

――そんな日から、二年が過ぎようとしていた。ドラマ三本に、映画が一本、特番バラエティが来月は多く組まれていたはず。スケジュールをマメに確認しないと、今月は分単位での移動が多かった。今日はバラエティ特番のメインMCでラスト。早く終わらせて帰りたいところです。オフまであと二日。何とか耐え抜いて休みを満喫したいところです。何しろオフは二週間ぶりですからね。

「こんにちは、棗さん。今日はよろしくお願いします!」

「こちらこそよろしくお願いします。頼りにさせていただきますね」

「そんな恐れ多いです! 私の方こそ頼りにさせていただきます……!」

 おろおろと頭を下げた新進気鋭の若手女優の的坂さん。おっとりとした空気の、頭の回転のいい方ですね、確か。まだ一緒に仕事をしたことはないですが、悪い噂は聞かない。天然なのか、共演者から口説かれても気付かないタイプの方らしい。年は私より一つ下……でしたかね。素直そうな可愛らしい人だった。

 撮影スタジオまで並んで歩きつつ、スタッフの方とすれ違っていると、ふと。

「そういえば、ZOOLの皆さんとはたまにお会いしてるんですか?」

「え?」

「あ、実は私ずっとファンだったんです! 解散コンサートも行かせていただいて……、もっともっと皆さんのステージ見たかったなぁ……」

「そう……でしたか。ありがとうございます」

 笑みを返しつつ、それでも心は少し傷んだ。久しぶりに、聞きましたね。私のかつての居場所の名前。解散直後はもちろんよく話題に出ましたけど、二年も経てば俳優棗巳波が勝る。前期のドラマの話や、次回の映画の話のほうが余程増えた。

 もちろん、今でも四人で歌っていられたらと思わない日は、ありませんが。感傷に浸って前に進まないのは、私達ではないですから。それぞれ、頑張ってますしね。ふと朝見た御堂さんのコメンテーターとしてのベテランじみた物言いを思い出して笑いそうになった。

「先程狗丸さんとすれ違って、声掛けられて吃驚したんですけど」

「……は?」

「棗さんに、今日のステージ見とけって伝えて欲しいとのことでした。ご自分で伝えないの、急いでたんですかね?」

 ふふ、と楽しそうに的坂さんは笑いましたけど、私は……笑えないんですが? 今、なんて? 狗丸さん?

「狗丸さん……局に、いたん、ですか?」

「あ、はい。あちらは音楽番組の収録とかで……ZOOL時代のソロを歌うから、聞いていて欲しいって事でしたが……」

「ZOOLの……」

 ソロって言えば……Endlessですか、ね。でも、問題はそんなことじゃない。狗丸さんはずっと海外にいて、海外でやっと実力が認められてテレビ出演が増えてきたはずでは。何も聞いていない苛立ちか、封じ込めていた感情のせいかはっきりとしないのに、どきどきと、心臓だけがうるさい。期待値が、怖いのに。

 でも、あの人が、一番愛してくれたあの曲を、歌うんだ。もう無くなったZOOLの……私の曲を。ふと、思い出す。あの人が、日本を発つ前に私に約束してくれたことを。

「……ふふ」

「棗さん……?」

「いいえ。……ガラスの靴を届けられたシンデレラの気持ちが、今なら少し……わかる気がしたんです」

 困惑したような彼女を促して、私も仕事へ向かう。何が、聞いててほしい、ですか。これから私だって仕事で、テレビなんか見られませんよ。そういう所、狗丸さんの悪い癖ですからね。

 でも、気持ちがふわふわする。不安と歓喜が混じったこの足元が覚束ない気持ちは、久しぶりすぎて自分でも分からなくなる。あの人はあの日の電話を最後に二年間何一つ連絡をくれなかったから。本当に信じていいのか分からなくて、それでも信じたい気持ちが溢れて、胸が熱い。

 思い出した夜景が目頭を熱くしたけれど、ぐっと飲み込んで私は収録現場へと足を踏み入れた。

 

――二年前。

 ゼロアリーナが見える公園の欄干にもたれつつ、私は狗丸さんと並んでいた。先程までは御堂さんや亥清さんも一緒に居たけれど、どの道答えは変わらない。ZOOLは三年の契約期間を満了として解散。私達はそれぞれの事務所の管理下で道を紡ぎ続ける。説得するだけの売れ行きも出した……とは思っていたけれど、これは報いでもあるから。私達はそうやっていつか捨て去るものとして自分たちを結びつけてここまで来たのだから。TRIGGERにした事に対する私達の落とし前の付け方でもある。一度終わらせて、それでもいつかやり直すために。私達が一段上のZOOLを目指すための、一旦の休止だと思おうと。……例えそれが永遠の終わりでも。

「……ミナは、今後どーすんだ?」

 不意に切り出した狗丸さんに、私は横目で狗丸さんを見つつ、苦笑を溢した。

「俳優業ですよ。元々、私はそっちの人間ですし」

「それもそうだなー」

「狗丸さんは?」

 正直狗丸さんはアイドルしかやってこなかった人だから、他に一芸がないんですよね。どうするのか、少し心配ではあります。見上げた空には星がチラチラと光っていた。狗丸さんはじっと空を見上げたまま、ぽつりと。

「海外」

「え?」

「海外行ってみよーかと……思ってさ。音楽で」

 なるほど。それは狗丸さんらしいかも、ですね。この人は音楽が大好きなんですから、それがない生活なんて考えられないのは確かです。つい納得していると、狗丸さんは意外そうな顔で私を見やる。

「ノーコメントかよ」

「ああ、いえ。それも道の一つではあるなと、思いまして。良いですね、私は考えても見なかったです。でしたら、私は」

「俺、ミナを連れては行かねぇよ」

 ひゅ、と冷たい風が吹いた。連れて、いかない。勝手に私も行くつもりだと思いこんでいたのを、切り捨てられてしまった。だって、一応、付き合ってますし。最近忙しかったのもありますけど、自宅に帰ることの方が少なかったかもしれない。当たり前のように一緒にいた。今後の仕事だって私がやりたいことをするわけじゃない。それなら、狗丸さんのそばでどうにか出来る仕事を、私だって見つけたいのに。

 心臓がざわざわと騒ぎ出す。珍しく真面目な顔をしている狗丸さんが、怖くなる。

「狗丸さん……英語も、ろくに喋れないじゃないですか」

「うん」

 うん、じゃないです。生活に困ってしまうでしょう。ぎゅっと手を握り締めて、震えそうになるのを耐える。

「海外ってスリが多いんですよ。狗丸さん、すぐにスられて一文無しにされてしまいますよ」

「そうかもなぁ」

 嫌だ。相槌打たないで。お金無くしたら、生活出来ないのに。パスポートまで取られたらどうするんですか。私、一緒にいなかったら助けてあげられないんですよ。分かってるんですか。

「食べ物だって、文化だって全然違うんですよ。チップとか分かってます?」

「そうだよなー」

「っ、ハンカチだって、貸して、あげられないですよ」

「ほんとだなぁ」

 そう、狗丸さんは困ったように笑った。もう、何にも言えなくなる。この人は私が居なくて良いって、そう言ってるのを認めるのが怖い。痛い。

 嫌だ。どうして。私は世界のどこでだって、生きていける自信があるのに。なんで私を必要としてくれないんですか。狗丸さんが音楽で頑張りたいのを、私だって支えられることは出来るはずなのにどうして。

ずきずきする。頭も心も痛くなる。こんな話、もう止めたい。もう聞きたくない。どこにも行かないで欲しいのに。置いて行かれるのは、辛くてたまらないのに。それを分かってくれてると、私は信じていたのに。

 

 冬の冷たい風が吹いて、冷えた指先を撫でていく。今すぐ暖めてほしいのに、優しくされたらみっともなく引き止めてしまいそうでそれも怖い。俯いてぐっと感情を押し込める。先に重い沈黙を破ったのは、狗丸さんだった。

「……俺はさ、すっげーZOOLで楽しかったんだ。だから、まだ音楽は諦めたくない」

「は、い……」

「ただ、多分俺はハルやトラ、もちろんミナのお陰で上までのぼれた。だから今度は俺一人でも出来るって証明したい。そうじゃねぇと、今までミナが俺にくれた曲に相応しいって胸張れねぇんだよ」

「え……?」

「俺には、ミナの曲が要る。でも今のままじゃ世界はそう認めてくれない。俺が最高に輝くには、絶対ミナの力が要るって、証明したいんだよ。……まあつまり、分かんだろ」

 照れ臭そうに笑った狗丸さんに、何も言えなくなる。それは。それはつまり、私にまだ、音楽を諦めるなって言ってくれてるんですか? こんな所で終わろうとしてる私に、狗丸さんは……私の夢さえ、諦めないんですか。

 理解したら、視界が滲んだ。慌てて顔を伏せる。俳優で良いって自分を納得させようとしてたのを、狗丸さんはわかってたんですかね。私、この人の前じゃ嘘を吐くのが下手になってるんですね。

「……早く、帰ってこなかったら……私美人女優と結婚しますからね」

「おー、言ってろ言ってろ。そしたら俺は金髪美人と遊んでやるぜ」

「似合わないですよ」

「おいこら」

 軽口で少し気分が軽くなる。顔を上げて、狗丸さんに笑みを向けた。

「私を置いていくこと、後悔してくださいね」

「ミナこそ、覚悟しろよな! 俺は絶対有名になって帰ってきてやる。でもってその時は……、その時は、ミナのこと専属に迎えに行く。……待ってろ」

「……はい」

 頷いた私を、狗丸さんはぎゅっと抱き締めてくれた。私が不安なの分かってるなら、そんなこと言い出して欲しくなかったですけどね。でもこの人がいたから、私はZOOLを続けてこれた。音楽を好きでいられた。だから、狗丸さんの夢を諦めて欲しくは、ないんですよね。そっと背中に腕を回して、一ミリでも近くに身を寄せる。離れるのは、考えただけで辛いですよ。

「……ごめんな?」

「それは、私が貴方を待つのを諦めて結婚したときの祝辞に書いてください」

「いやそれはめっちゃ嫌だな」

「その気持ち、忘れないでいてくれたら良いです。今は」

 後悔するのは、その一瞬だけでいいんです。顔を見合わせて笑って、やっと何を言わずとも出来るようになったキスをする。ここまでだって、凄く私達は時間が掛かった。主に私のせいではありましたけど、小さい積み重ねで、ここまで来たから。

「帰って……来てくださいね。私のところに」

「当たり前だろ。その為に行くんだよ、俺は。……必ず、迎えに行くからさ」

「……はい。じゃないと、この続き、永遠にないですからね」

「だよなぁー……。ミナらしくて安心した。えーと、……もっかいだけ、キスしていいか?」

「聞かなくていいんですよ、そういうことは……」

 言われると恥ずかしくなってしまうんですから。黙って好きにして欲しい。嫌なときは嫌ってちゃんと言いますから。意識すれば羞恥が押し寄せる。何処かで聞こえたクラクションの音に意識を預けて、狗丸さんとその夜最後のキスをした。

 

――それから待って待って、待ち続けて二年。収録なんて半分も覚えていないけれど、プロデューサーは大変満足してらっしゃったので良しとする。的坂さんや共演者の方々とも、差し障りない挨拶で別れて楽屋へ走った。

 生放送は間もなく終わり。最後の出演者が順に映し出される映像を食い入るように見つめる。ばくばくと、心臓がうるさい。こんなの、あの日以来で。

「……っばか……」

 ぽつ、と悪態が溢れる。楽しそうに久しぶりに日本のテレビに映ってる狗丸さんが眩しい。視界が滲んでるのは、やっぱりこの人のせいだ。

「帰ってくるなら、そう言って……ください……馬鹿……狗丸さんの馬鹿……」

 心の準備が出来ないと、私貴方の前でどうなってしまうか分からないんですからね。

 涙を拭って、私服に着替える。出待ちなんてファンみたいな行動させないでほしい。それでも、そうしてでも一秒でも早くその顔を見たくてたまらないから。

 数分か、数十分か。待つのは、慣れていた。狗丸さんの自宅の鍵がない頃は、ずっと玄関先で待ってたのが私だったから。あの映像が夢や幻でないなら、私はいつまでだってここで待っていられる。

 やがて鼻歌が聞こえそうな顔で出てきた狗丸さんは、私を見るなり胸を張った。

「少しは立派になったろ!」

 そうかも、しれませんね。でも悔しいので歩み寄って頬を抓った。待たせた罰です。私の心の痛みを思い知ってもらわないと困る。けど、私もこの人には弱いから。

 指を離して、代わりに両腕に抱き締める。この温度に、どれだけ触れたかった分からない。唇が震えたけれど、強い棗巳波をこの人には見せてあげたいから。

「……おかえりなさい」

「ん。……ただいま、ミナ」

 やっとの思いで言えた言葉は、いとも簡単に包み込まれてしまう。長い長い待ち合わせは、この夜やっと、終わりを迎えた。

 

 

「やっと、やっと開放された……よく帰ってきたトウマ褒めてやる」

「おー、トラがそんなに感動してくれると俺も泣けてくるぜ」

「いや違う、全然違う。コイツの果てしない愚痴から解放されることを喜んでる」

 ちょっと御堂さん、人を指差すなと親から躾されなかったんですか? 失礼ですよ。あと狗丸さん何でって顔しないで。たまにしか愚痴ってませんから。何か言うのも癪なので、頼んでいた日本酒に口をつける。無意味にほっとしてしまった。

 狗丸さんが連絡もなしに帰国したのは、正直まだ怒ってますけども。顔を見たら全て許してしまった私が悪い。御堂さんをすぐに呼びつけて、ちょうど帰国していたという亥清さんにもすぐに連絡を入れたフットワークの軽さは狗丸さんらしくて安心したのは秘密です。

「やっぱ日本の焼き鳥は美味いなぁ。帰ってきたーって感じするぜ」

「いや、チェーンの居酒屋の焼き鳥を故郷の味にするな」

「じゃあビールか?」

「……いやもう好きにしろ……」

 ため息をついた御堂さんですけど、口の端には笑みが浮かんでいる。嬉しい、んですよね。私も分かります。

 ZOOLが解散となって二年。私は元の俳優の道へ、御堂さんはモデルへ、狗丸さんはヨーロッパで音楽の道へと進んだ。それから、亥清さんは。

「ごめん! 遅くなった! もう巳波出来上がってる?!」

「ハル!」

 がたっと席を立って、狗丸さんが両腕を広げる。それはそれはもう、嬉しそうに。私と顔を合わせたときより嬉しそうに。

「トウマおかえり! 案外早かったじゃん!」

「おー。ハルはあんま大っきくなってねぇなぁ」

 亥清さんの頭を捕まえて、昔みたいに拳でぐりぐりする狗丸さんに亥清さんも存外嬉しそうだった。懐かしい感覚、なんでしょう。私はされたことないですね、そういえば。というか、亥清さんしれっと失礼なこと言いませんでした? あの純粋な少年は、駄目な年上達にすっかり毒されてしまったのかもしれませんね。私の失敗です。

 亥清さんは今、日本とアメリカを交互に渡りながら一人でアイドルをやっている。元々スペックが高かった亥清さんですから、今でも音楽チャートでも上位に名を連ねていた。凄い人だと、つくづく思う。

「凄いよなぁ、ハル。ヨーロッパでも有名だったぞお前」

「当然じゃん。オレを誰だと思ってんだよ。元ZOOLのセンターだからな! そういうトウマだって、そこそこ有名だったじゃん」

「そ……そこそこ……」

 がっくりと肩を落とした狗丸さんの腕からすり抜け、奥に押しやった亥清さんがコートを脱ぎつつ席に座る。親切な御堂さんはタブレットモニターでいつものカルーアミルクを頼んであげていた。

「というか、悠はトウマの動向を気にしてやっていたのか。偉いな。俺なんてどこに行ったのかさえ忘れていたぞ」

「メールとかめっちゃしただろ?!」

「女の連絡に忙しくて埋もれていた気がするな」

「うわぁぁぁ、相変わらずだよコイツ、安心するくらいに……」

 頭を掻きむしっているところ悪いですが、私は少々その話は不服なのですが……? 正面になった狗丸さんの顔をじっと見つめていると、視線に気付いたか顔を強張らせた。

 

「……何ですか、その失敗したって顔」

「いや……えっと」

 口を濁した狗丸さんで察したのか、御堂さんが愉快そうに笑う。

「何だ、連絡取ってなかったのか。道理でトウマから何も言ってこないと思った」

「え、どういう意味だ?」

「泣いて電話でもしてたら、お前のことだからコイツのこと頼んだだろ」

「ミナ泣いてたのか?!」

「あー、酒入るとリミッターが緩くなるのか、たまに泣いてたね巳波」

「たまにじゃない。俺が付き合わされて、トウマの話を始めると毎度泣いてほんっとうに面倒だった……」

 そ、そんなに毎回じゃないと……思うんです、が。否定しづらくて目を逸らしていると、グラスを持っていた私の手を掴まれた。慌てて顔を上げると、困った顔をした狗丸さんと目が合う。

「ご、ごめんな。や、ミナは強いじゃんか。弱いとこもあるけど、平気だと思ってた。ごめんな?」

「……もう良いですよ。……おかえりなさい、狗丸さん」

「うん。……ただいま、ミナ」

 グラスをテーブルに置いて、手を握り返す。さっきも言った言葉ですけど、何度だって繰り返してしまいたくなる。ちゃんと温度がここにある。ずっとずっと、待ち続けた手が。それだけで、私はもう、大丈夫です。

「あー、はいはい、すぐ二人の世界作らないで。オレのきたから乾杯しよ」

「そうだなっ」

 ぱっと手を離された。いえ、良いですけど。惜しいとか、思いませんけど。亥清さんは来たばかりのカルーアミルク。狗丸さんは半分に減ってるビールジョッキ。御堂さんはやっぱりいまいちとぼやいていたグラスワイン。私はまだ飲みかけの日本酒。それぞれ手にしたのを確認して、亥清さんが笑う。

「やっぱオレたちいつまでもバラバラだよなー」

「そこがZOOLだ」

「うん。……とりあえず、トウマ帰国と、久々の四人揃ったのに、乾杯っ」

 末っ子の乾杯の音頭に、グラスを合わせる。高さも味も色も全部違うのに、私達はたった一言でやっぱり一つになれた。

 

「で、帰国して明日からトウマはどうすんの」

 唐揚げをつまみながら問い掛けた亥清さんに、狗丸さんはビールジョッキに口をつけたまま天井を仰いだ。

「一応明日はツクモに顔出して、こっちでのスケジュール確認すんだろ……? それから、あ、ミナ明日は仕事か?」

「午前は番宣で、午後からドラマの撮影ですね」

「あー、そっか。じゃあ無理か……」

「戻ってきたと思ったらいきなりデートか。トウマにしてはやるな」

 御堂さんの軽い冗談に、指先が震えてしまった。改めて言われると何だか恥ずかしい。いえ、帰国したらまずは他にすることあるでしょう狗丸さんだって。

「ちげーよ、そんなのは後回し」

「そんなの?!」

 思わず声を荒げてしまった。亥清さんは噴き出し、狗丸さんは吃驚した顔で私を見やったところ悪いですが、一瞬前の私を私が一番笑いたいし驚きましたよ。慌てて目を伏せて、あと少しだったグラスを空にする。ついでに適当に新しい日本酒をタブレット端末で頼んでおきましたが。

「トウマぁ、そこはちゃんとしないと……」

「うぇっ?! いやあの、そうじゃねぇって。だってそれより俺らにはすべき話があるだろ」

「結納か?」

「ばっ、トラ茶化すなよッ!」

 茶化してないと大真面目な顔で返した御堂さんの足を踏み付けたくなったのを我慢する。別に、期待してないですよ、そういうことは。私は……狗丸さんとの間に戸籍とか権利とか、そういうものが欲しいわけじゃないですから。

 酒以外の要因で真っ赤になった狗丸さんは、両手で頭を掻きむしって深く息を吐き出した。

「約束しただろ」

「やくそく……?」

「帰ってきたら、俺の専属作詞作曲にするって。だから、その話を一応星影にもしてぇんだよ。裏でコソコソ隠れてやるのは俺は嫌だからな」

「狗丸さん……」

 ぎゅっと心臓を掴まれたような気がした。それは、怖い、話でもあるから。嬉しいけれど一度は閉じた道を、事務所が許してくれるか分からない。もちろん、狗丸さんがしてくれた約束を忘れたわけではないし、むしろそれだけを支えに二年過ごしたと言っても過言ではない。ただ、芸能界の混沌とした世界は私が一番知っている。だから私は……名前も素性も伏せたまま、狗丸さんに楽曲提供するつもりで、いた。それを、狗丸さんは良しとしないつもりなんですね。嬉しいけれど、事務所から浴びせられそうな否定の言葉が心を固くする。

「反対されるかもしんねーけど、俺許可降りるまで頭下げ続けるから」

「そんなことしなくたって、私はいくらでも」

「ミナが書いてるって分からなきゃ意味ねぇだろ。俺は、架空の音楽家に頼むつもりはないんだ。その為に、二年頑張ってきたんだぞ」

「……でも」

 反対されたら、私は何も言えませんよ。仕事は山積みですし、辞めるつもりも今はない。生きていく上で必要だからです。どんなに抵抗したって事務所の意向には逆らえずZOOLを閉じたように、好きだけでは、生きていけないんですよ、狗丸さん。そんなつまらない現実を口にしてしまいそうな自分が嫌なくらいに、私はこの世界に居過ぎた。

 私の頼んでいた日本酒がテーブルに届く。いけない。私のせいでつまらない沈黙が、満ちてしまった。

「一緒に頭下げなよ、巳波」

「亥清さん……」

「まだやりたいなら。オレトウマの気持ち、少し分かるよ。すごい曲たくさんもらってオレ歌ってるけど、やっぱり巳波のが一番良かった。もし巳波がまた書いてくれるなら、オレにもいつか作ってよ」

「それは駄目だハル。一応俺の専属の約束だからな!」

「まさかのそこでの独占欲やめてくれる?!」

 得意げに笑った狗丸さんに、亥清さんの素早い返しが決まる。冗談に決まってますよ。でも、その気持ちで狗丸さんは自分を磨きに行ったんですよね。……私と連絡を取らなくてもいいくらいに、必死に毎日を費やして。

 やっぱり私は、この人の前だとちっぽけです。つい、笑みを浮かべた。

「……良いですよ、かきます。書かせてください、亥清さん」

「ホントに? やった」

「ちょっ……ミナぁ……」

「でも、それは私が狗丸さんを揺るがない日本のトップに戻してからです。少しお待たせしますけど、許してください」

「! ミナ、それじゃあ……!」

 ぱっと表情を明るくした狗丸さんに、笑みを返す。二年も会ってなかった人とは思えない、なんてつい過ぎった。

「……私も、話してみますから。最初は断られると、思いますけど」

「大丈夫だって! 俺絶対諦めねぇから! その為なら何だってやってやるよ」

 私だって、そうですよ。貴方にもう一度私の曲を歌ってもらえるなら、二年も独りぼっちで待ち続けたかいがありますから。

 御堂さんは安心したように笑みを浮かべて、亥清さんはノロケは他所でやってーと軽口を叩く。ZOOLが、やっぱりここにはある。店内の曲でZOOLが流れても、私達にとっては感傷するようなものではないのですから。

 

 すっかり遅くなって、ご機嫌な亥清さんは御堂さんを連れて二軒目へと向かって行った。四葉さんや和泉兄弟と合流するのだとか。彼らもまだまだ第一線を走り続けている。世界は今日も、明日へ向けて歩いているんですね。

 冬の風が、指先から温度をどんどん奪っていくけれど、心は今は……寒くなかった。

「そういえば、狗丸さんお住まいは?」

「あー、全然決めてねぇんだよな。明日からそれも探さねぇと。ホテル高くつくしさぁ」

 あらあら、決めてから普通帰国を決めるものでしょうに。直情的に動くのは相変わらずですね。駅までの道を並んで歩きつつ、つい笑ってしまう。

「どっか良いところ、知ってるか?」

「都心の一等地はどこも高いですよ。日本の再出発を図る狗丸さんではお財布が燃えてしまうのでは?」

「うぅ、言えてるな……」

「ひとつ……、だけ、あてがありますよ」

「マジか。どこ?!」

 救いの神を見つけたと言わんばかりの目の輝きで私を見やる。いいですか、狗丸さん。今から私、らしくないこと、言いますからね。覚悟してくださいね。

 ぎゅっと鞄の取っ手を握り締める。

「……私の家に、来ませんか」

「へ……」

「二年間一人にした罰です。……家、決まるまででいいので。……いて、ください。狗丸さんが嫌じゃなければ」

「ミナ……」

 狗丸さんは私の提案にぽかんとした。そうですよね。私だって、こんなこと言うとは思いませんでしたよ。でも、顔を見て声を聞いたら、怖くなったんです。今度は仕事現場で一緒なんて、滅多になくなってしまったから。

 同棲とかは、縛るみたいで嫌だ。縛りたいけど、縛れば自分に嫌気がきっとさす。私達は、縛り合わなくたって、ちゃんと二年間約束のために気持ちを切らさなかったんですから。

 車道を走る車のヘッドライトが、狗丸さんの表情を照らす。多分、狗丸さんからは緊張で震えた私の顔が、よく見えていた。

「それは……ありがたいし嬉しいけど」

「はい」

「寝床は……」

「ソファか、もしくは寝袋ありますよ」

 沈黙。馬鹿。ここは狗丸さんが期待した答えは一つでしょうに。情けない。付き合ってもう、一応四年なんですよ。二年の空白を抜いたって二年はそばにいた。……いて、そういえば私達はまだ、キスしかしてないん、です、よ、狗丸さん……。あらゆる羞恥で顔を覆いたくなる。

「……ぷっ、は……! あははは! やっぱミナはミナだなぁ安心した!」

「えっ」

 自省で地面に埋もれたくなった私さえ吹き飛ばすように狗丸さんが笑う。そんなにおかしいのか、ガードレールに手をついてひいひい言ってますし。ちょっとむっとしてしまった。

「何ですか。私はいつでも私ですよ」

「うん、そーだな。変わってなくて安心した。きっとまた一からだ。おー、ソファでも寝袋でもそのまま床に転がっててもいいぜ。泊めてくれよ」

「……仕方ないですね」

「とりあえず、明後日くらいから、世話になるよ。ホテルチェックアウトしねーとだから。……まぁ、だから」

 手を握られる。久しぶりに触れた温度に、指先は初めてみたいに震えてしまった。伝わってしまったのか、狗丸さんはおかしそうに笑う。

「ほらな。……ゆっくり、今度は一緒に歩こうな、ミナ」

「狗丸さん……、……はい」

 あの時は、用意されていた道だったから三年で終わってしまった。でも今度は、私達自身で描く道だから。

 手を握り返す。駅までの短い道なのに、心臓が壊れそうになるほど緊張する。本当に、この手はもう、私を離さないでいてくれるんですよね。やっと会えて嬉しいはずなのに、どうしても不安が顔を出す。

「……なぁミナ。もう少しだけ時間いいか? 仕事大丈夫そうだったら」

「えっ……?」

「ゼロアリーナ見に行きたいんだ」

 唐突な申し出に、戸惑いつつ私は頷いた。まだ一緒にいたい気持ちもありましたし。狗丸さんはすぐにタクシーを捕まえて、でも車内は何にも喋らなくて、深夜の街を通り抜ける。

 

 冬の風はやっぱり冷たい。ゼロアリーナの方角から運ばれてくる風は、潮の香りも混じっていた。

「おー、懐かしい。やっぱいいな、アレ」

「そう……ですか?」

「今度はあそこに一人で立ってやるって気持ちが湧いてくる。うん、燃えてきた」

 ニコニコと楽しそうな狗丸さんに寄り添ったまま、私もゼロアリーナを見やる。あの日もここから、二人で見た景色。代わり映えは……あんまりないですけど。でも……狗丸さんは今日からまた、あの場所を目指すんですね。眩しいくらいに、真っ直ぐに。

「言い訳を今からするんだけどよ」

「何のですか?」

「に……二年ミナに連絡しなかったこと……」

 急にしどろもどろになった狗丸さんの横顔を見やる。罰が悪そうに、目を伏せていた。どうやら忘れていたわけでは、なかったんですね。黙って促すと、ぽつぽつと狗丸さんは自白する。

「ほんとは、何回も連絡しようとした、んだよ。ミナの忠告どおり、俺英語駄目だし、マナーもわっかんねぇし……凹んだの、一度や二度じゃねぇし……」

「……はい」

「でも一人で行くっていったのは俺だから、弱音吐いたらカッコつかねぇじゃんか。……そうしてるうちに、……なんか、……連絡しないほうが、ミナは好きに生きられるのかもなぁ、って言い訳して……た」

「私が……?」

「何年待たせるか分かんねぇし……、忘れた方が、忘れられたらキツイの俺だけどさ……」

 声はあっという間に弱くなって、狗丸さんはついに黙り込んだ。叱られるのを覚悟した子どもみたいに。そんなの、ずるいですよ。ぎゅっと手を握り締めて、熱くなった喉を開放するように口を開く。

「……そのくせ、何処で聞きつけたのか知らないですけど、共演者の方に言伝頼んだんですか」

「うっ」

「私がどんな気持ちで見送って、待って、今日まで来たのか分かります?」

「はい……」

「ちゃんと目を見て」

 語気を強めると、狗丸さんは反省した犬のように私を見やった。そんな顔しないでください。私だって、やっと今、怒ってるんですよ。本当はこんな言い方したくないけど、私はいつもこんな言い方しか出来ない。あの日も素直になれなかった。その罰がこの二年間なら、次の罰は、もう嫌です。

「もう、どこにも行かないでください」

「ミナ……」

「立派じゃなくて良いんです。有名じゃなくていい。一緒に暮らしてって意味でもないです。ただ、手が届かないところに、行かないでください」

「……ああ」

「ずっと……さみ、しくて、不安で……それでも私、頑張って待って、ました。待ってたんです。今日まで、ずっと」

「さっきも言ったろ。これからは、一緒に歩こうってさ。寂しい思いさせて、ごめんな。俺もミナが居なくて、ミナに会えなくて寂しかった」

 絶対許すもんですか、って思ったのに。そんな事を言われたら、勝てるわけがない。結局放置されてたって、私はこの人のことがずっと好きで、下手をしたら前よりも好きになってしまったんだから。

 俯いてぐっと口を引き結んでいた私の頬に、狗丸さんが触れる。冷たくなった指先。それとも、私が飲みすぎて顔が熱いのかわからないですけど。鼻先が触れて、予感に心臓がまた、早鐘を打つ。久しぶり過ぎる距離に、くらくらする。

「えと。……キス……していいか?」

「……もう」

 そんな事聞かないでって二年前も言ったでしょう。私達は結局あの時から止まったままなんですね。それでもこの日に道が続いていたことが今は、ただただ嬉しかった。

 

 収録が終わってタクシーで向かうから、という狗丸さんの気楽な連絡から二十分。そろそろ……着く頃、ですよね。オートロックのマンションだし、迎えに行かないといけない。休みの半分以上を掃除に費やしてしまったの、私らしくないんですけどね。別に散らかってたわけでもないのに、変に緊張してしまった。居候を提案したのは私の方だと言うのに、笑ってしまいます。

「……あ」

 ちょうど外へ踏み出した時、大きなスーツケースと、登山用ですかって大きさのリュックを背負って、サングラスなんて掛けてる狗丸さんがタクシーから降りてきて手を振った。

 小さく手を振り返したけれど、どきどきと騒ぎ出す心臓は正直ですよね。たった一日空いただけなのに、また急に、久しぶりのような気がしてしまう。がらがらとスーツケースを引きずり歩み寄って来た狗丸さんは、にっと嬉しそうに笑う。

「ちょっとだけ世話になるな、ミナ」

「……仕方ない人ですよね、本当に」

「お前が誘ったんだろ?!」

「路上生活なんてかわいそうかと思いまして」

 そこまで言って、二人して噴き出した。嫌ですね、こんな時でも私は意地っ張りで。くだらないやり取りを二人で笑って、私はスーツケースの引く手を変わる。何でも順調に決めてしまう人なら、今頃私なんて必要としてないでしょうから、これくらいで丁度いい。

 

「取り敢えず、これが部屋の鍵です。仕事もあるでしょうから、用意しておきました。玄関のロックは後でラビチャにお送りしますね」

「おう、すっげー助かる! 鍵くれないかと思ってたぜ」

「三年前に鍵をなかなかくださらなかった狗丸さんとは大違いでしょう」

「いや一昨日したから良いだろ」

 けろりと笑顔で言わないで欲しい。そうですけど。以前、まだZOOLだった頃狗丸さんの家の鍵は、私がこの人とキス出来たらって変な約束で成り立ってましたからね。今となっては笑い話です。

「……それで、寝場所ですけど」

「俺このソファで十分だぜ! すっげーいい革じゃんこれ。枕はクッション借りていいか?」

「良いですが」

「助かる! あとはー、掛布だけ貸してほしいんだよな。無かったらダウンコート着て凌ぐけどよ」

「……ありますけど」

 なら十分、って狗丸さんは満足げに笑った。本当にソファで寝る気ですね、この人。何か……何というか……ちょっと悔しい。

「お茶淹れます」

「え、み、ミナ何か怒ってねぇ? な、何でだ?」

「怒ってなんていませんよ」

 そう、怒っては居ないんですよ。ただ少しだけ、心の準備してただけに肩透かしを食らったような勝手な苛立ちを抱えてるだけですから。

 湯のみを二つ。緑茶で……良かったですかね。日本久しぶりでしょうから、こっちがいいとは思うんですけど。少し不安になる。

 きょろきょろと物珍しそうに室内を見回す狗丸さんの元にお茶を出すと、殊更嬉しそうな表情を見せた。

「久しぶりだなぁ、ミナが淹れてくれたの。めっちゃ嬉しい」

「しばらくは振る舞ってあげます。……必要でしたら家探し、お付き合いしますよ」

「ん、大丈夫。トラに頼んでみたから、適当に良いの見繕ってくれると思う」

「……そうですか」

 まあ……御堂さんならセキュリティだのプライバシーだのも、考慮してくれるでしょうからね。確かに丁度いいかもしれません。そうかも……ですけど、もやもやとする私は、みっともないですね……。

「……どした、ミナ。さっきから顔が渋いぜ」

「そんなことは……」

「言いたいことあるなら、ちゃんと言ってくれよ。俺鈍いっていうか……ミナに我慢させるのは嫌だからさ」

 確かに狗丸さんは鈍いところありますけど、でもこれは勝手に私がいじけてるだけですし。笑って大丈夫と言えたらいいのに、今日の私はそれが出来ないらしい。黙って狗丸さんの隣に腰を下ろすと、狗丸さんは心配そうに私を覗き込んできた。

「ミナ?」

「……笑わないでくださいね」

「ん?」

「流石に、ソファは可哀想かと、思って。……お嫌でなければ、その、一緒に……ベッド使っても、良いです」

「は?」

「あと、クローゼット、少し、空けておきましたので。……少しくらい、私にも……世話を焼かせてください」

 狗丸さんはぽかんとしてしまったけど、何でも言えって仰ったの貴方じゃないですか。恥ずかしくて死にそうなんですよ、こっちは。飄々としてるふりして、いつだって貴方の前じゃ私は棗巳波を演じきれないんですから。

 頬が熱くなって、羞恥で目を伏せる。こんな複雑な気持ちになるなら、居候になんて誘わないほうが良かったかもしれない……。

「……いいのか?」

「どのこと、ですか」

「全部だけど、取り敢えずベッド。別にめっちゃデカいわけじゃねぇだろ。それにミナ、前は一緒に寝るのは駄目だって……」

「わ、私が良いって言ってるんですから掘り返さないでください! だっ……て、何か理由つけてでも勇気出さないと、私は無理なんですよっ……」

「……無理すんなよ」

 そんなつもりじゃないですって、言い返そうとしたのに、出来なかった。物理的に。キスされて、しまったから。ずるい。海外行って、そういう所だけフットワーク軽くなって帰ってこなくても良かったのに。拒否しない私も大概ですけど。

 黙った私に、狗丸さんは苦笑いを浮かべてこつ、と額を合わせた。近い、って思ってしまうのはおかしいんですけど。

「結構ここまで時間掛かったろ、俺達はさ」

「そう、ですね」

「だから、無理はすんな。でも、良いって言ってくれるならそれには甘えさせてもらうよ。……ありがとな」

「……はい」

「よしっ、じゃあ夕飯行くか。腹減ったしな! 久々にラーメン食いたいし、ミナのオススメ連れてってくれよ」

 一瞬前まで、このまま流れに押されてしまうんじゃないかって思ってたのに、この人は。無邪気に笑うのが、本当に可笑しい。安心してしまうのは、こういう所があるからなんですよね。

「その前に、少し荷物片付けてからにしましょう。……ゆっくり、なんていってはおかしいですけど。でも……家が見つかるまでは、寛いでくださいね、狗丸さん」

「おう。叩きだされないように、多少は気をつけるな!」

 私がそんなことできるわけ無いのに。出来るなら今はここに縛り付けておきたい気持ちもあるから、御堂さんにはちょっとだけ、手心を加えていただきましょう。

 

 仕事の場でトラに会うなんて久しぶりすぎてテンション壊れるかと思った。まあトラはいつも以上に冷静だったけど。大御所司会の前では流石にトラも弁えるようになったんだよなぁ。午後はオフだって言うから、俺も時間あるしちょっと茶をしばく時間が出来たのは嬉しい。

「いやでもやっぱトラに真面目なコメント言わせるのは面白いよな」

「俺は元々真面目だ。まぁそれはいい。……取り敢えずやっぱりトウマが帰ってきてくれたのは大助かりだ。あいつに無闇に飯に誘われなくなった」

「ミナのそういうのってやっぱ意外なんだよなぁ。あ、トラ良いとこ見つけてくれたか? 家賃前いったのより少しは出せるかも」

「あー……それはもう少し待て。主に巳波のために」

「いやミナの負担にならないように早く決めてやりてぇんだよ」

 却下、とトラに足蹴にされた。何でだよ。家賃も光熱費も良いって言われちまってマジで申し訳ないんだけどな、俺は。コーヒーに口をつけて、自分でも探すかと思い直す。

 日本に戻って二週間。向こうでの評価と、かつてのZOOLの評価で帰国後やたら忙しい。向こうの輸入CD宣伝させてもらってるけど、俺としては早くこっちで曲を出したい。ミナの作ってくれた俺に似合いの曲を。その話、まだ出来てねぇんだよな。ミナが忙しすぎて。

「変わってないな、トウマは」

「悪かったな?!」

「逆だ。褒めてる。そんなに一途に、よくまああいつの事を大事にしてやってる。俺には無理だ」

「置いてったのは俺だからな。捨てられるかもしれなかったわけだし、……俺から捨てたりはしねぇよ。その為に一人で行ったんだから」

「ああ、そうだった」

 苦笑で答えたトラに、ちょっと恥ずかしくなって目をそらす。よくまあ、保ったと思うよ、俺も。ミナには凄く……寂しい思いさせてたってのは、反省してる。

「……で、取り敢えず事務所には話通したのか。これでも俺も悠も、作詞作曲棗巳波の曲を歌う狗丸トウマってものを期待してるんだが」

「そうなのか?! ちょ、嬉しい、泣ける」

「泣くのはやめろ。鬱陶しい。そうしていつか、またZOOLをやる為のステップだよ。……お前達の情熱には多少は期待してるんだ」

「おま……、いや泣ける……」

 そっか。トラもZOOLの事を忘れたわけじゃねぇんだよな。安心して、嬉しくて涙滲む。俺だってもちろん、歌えるならまた四人がいいもんな。いよいよ頑張らないといけねぇって気持ちになる。

 ぐっとコーヒーを流し込み、頬杖をついて少し照れくさそうな顔をしたトラを見やる。そうだよな、お前そういう自分に真っ直ぐな熱意ある言葉吐くの、得意じゃなかった。

「来週辺り、星影の方と話できそうって事だったから。頑張ってくるぜ」

「サンドバッグにされるなよ。……それと」

「それと?」

 トラは一旦そこで言葉を置き、カップを傾ける。別にコーヒー飲んでるだけなのに、こいつはいつも絵になるよな。羨ましい。

「巳波には、気をつけてやれ。あいつ、トウマの為なら無茶を言いそうだからな」

「そうか……? 俺よりは冷静そうだけどな。まあ、気をつけとくわ。サンキューな、トラ」

「……不安だな……」

 そんなこと言うなよ。頼りないのは自覚してるんだから。