ずっと近くに置いておけば、それがどんなにストレスのない日々でも腐り落ちていく。呪いとはそういうものだった。折角植えた鉢植えが枯れたのも、もう何度目か分からない。同じ場所にいるということがいかに危ういことなのか、クオンはやっと分かり始めていた。
「ごめんね、コノエ。折角新しい花の種をくれたのに」
「いいんですよ、これくらい。今時、花を一から育てる余裕がある人のほうが少ないですから」
「……ナーヴに、動きはない?」
鉢植えの土を変えていたコノエの手が一瞬止まる。それは、緊張のよぎる瞬間ではあったけれども、聞かずにはいられない問題だった。ぎゅっと、クオンは不安の零れそうな手を握り締める。
コノエが顔を上げる。その顔には、笑みがあった。
「心配いらないですよ。……いくらナーヴと言ったって、諸外国に対して非人道的兵器を用いてたなんて知ったらあっと言う間に世界的球団を受けて壊滅です。ましてや今その兵器はここにある。カバネ様の手の中に。……大丈夫です。あの人は、絶対にクオンさんのこと守り抜いてくれますから」
「コノエ……」
「いや、それもちょっと違いますかね。……助け出してくれる、と思います。そうして初めて、やっとクオンさんはクオンさんとしての命を歩けると思いますよ、俺は」
「……ありがとう、コノエ。……コノエは優しいね」
「あの人に比べたら俺は薄情ですよ。英雄って言葉は、カバネ様のためにある。俺は……ずっと、そう思ってますから」
すぐに種を見繕って来ますから、と言い残して、コノエはクオンの与えてもらっていた部屋から出て行った。窓からは空が見えて、下を見れば箱のように見える研究棟が並んでいる。ゴウトの王都からは少し離れた町だ。ナーヴとの国境線はさらにその向こう側。
静かな、穏やかな日々だ。適切な距離さえ保っていれば、誰も殺さないでいられる。傷付けられることもない。散々ナーヴで与えられてきた傷も、随分と癒えた。
それもこれも、あの日カバネが手を引いてくれたからだった。感謝しても、しきれない。
「……僕は貰ってばかりだ。……何か返せるものが、あったらいいのに」
ぽつりと呟いて、ため息を一つ。それをかき消すかのようなタイミングで、扉が開いた。
「遅くなって悪いな、クオン。コノエが急ぎの仕事だと書類を山にして、俺を机から離してくれなくてな」
「人聞きが悪いですよ! 仕事を積んでることを反省してくれても良いのでは?!」
「なぁ、うるさいだろう」
至極面倒そうに肩をすくめたカバネに、クオンは思わず噴き出した。相変わらず、コノエを困らせているらしい。そんな二人も、随分見た。それだけここに来て、時間が経つ。
それは素直に、クオンにとって嬉しいことだった。
他愛ない話をして、それから実験の予定を伝えて、仕事を本当に山にしているカバネはコノエに突かれてクオンの元を早々に後にした。もう少しゆっくりできる時間があれば良いのだが、今は猶予がない。
「っ、カバネ様!」
「あぁ……すまない、コノエ」
床が見えていた。視界が霞む。どうやら口の中には血の味がしているようだった。支えてくれたコノエの腕が無ければ、今頃カバネは石畳と激突していたことだろう。深く息を吸う。幸いと、痛みはすぐに引いた。クオンの前でこうならなくて良かった。カバネは安堵して、薄く笑みを浮かべた。
「すみません、自力で立ってください……」
「悪いな。……コノエもキツいのに」
足裏の感覚が鈍いが、確かに地面を捉えてカバネは姿勢を正す。じっと顔をのぞき込んだコノエに笑みを返すと、軽く肩を叩いた。
「大丈夫だ。それに、もう答えは近い。……呪術と言っても必ずルールはある。その予測は、間違っていない」
「……その点は、信じています。なので、クオンさんの身の回りのことは俺に任せてカバネ様は国長としての務めを」
「言うなコノエ。これは俺が始めた抵抗だ。俺がきちんと蹴りをつける。……そうでなくちゃ、あいつがもっと気に病むだろう」
コノエは反論しなかった。それは答えでもあり、諦めでもある。頑固な国長というものを、知っていてくれるからこそだ。だから、カバネは凛と前を向くしか出来ない。
見上げた空には白く月が浮かんでいる。満ち欠けが一周するまでに決着をつけないと、命が保たない。ゴウトの科学者達が導いた答えは、カバネに悩む余地すら残してはくれなかった。
実際にどうやって事象を導いているのかはともかくとして、ナーヴの基本的呪術構造は変わらなかった。究極的には、力の向きを固定化する。クオンの持つ呪いであれば、細胞の自死を促す力が掛かるだけだ。その結果として命を失くす。生き物の運命を加速させるだけの問題だ。なら、力の向きさえ変えてしまえばいい。その為の印という形だと、研究者達とは結論を一致させた。上手く行くかは、別として。
「……明日の昼に、クオンに施されている呪いの印を、書き換えようと思う」
「分かりました。言っても聞いてはくれないでしょうから、俺も同席します」
「待機命令を出しても、コノエは聞き入れないのだろう。良いのか? 何かあったら、サナが泣くぞ。いや、コノエが死んだら恨まれて俺が殺されてしまうかもしれないな」
「彼女はそんな人じゃないですよ。警備隊長としての役割を、ちゃんと理解してくれています」
「はは、ならいいんだがな。……心配するな。俺もコノエも、もちろんクオンも死なない。呪いを生み出そうというんじゃない。少しいじるだけだからな。……上手く行ったら、そろそろコノエは祝言を上げろ。待ってるぞ、サナも」
「それはまぁ……考えておきます」
恥ずかしそうに口を濁したコノエに、ついカバネは笑みを零した。コノエには随分と迷惑と心労を掛けている。そろそろ自分の幸せを掴んでも良い頃だ。クオンの呪いの件が片付けば、ナーヴの脅威も消える。今よりは平和な世界を、見られるだろう。そんな世界に、コノエは居るべきだ。幼い頃から、先代の父の頃より国長のために尽してきてくれたのだから、これくらいは恩返しにもならないだろうが。
コノエは気持ちを切り替えるように息を吐いて、顔を上げる。それはいつもの、警備隊長としての顔だった。
「念の為、ナーヴ他、諸外国の軍の動きについてはギリギリまで注意しておきます。……それと」
「分かっている。……死ぬな、あるいは危険になったら必ず逃げろ、だろう。……国を残して死にはしない。約束する」
「最悪、クオンさんのことは諦めてもらいます。……申し訳ありませんが」
「それも分かっているさ。ただ、やるなら一瞬で仕留めろ。でなければお前が死ぬ。それは俺が困る」
コノエはふっと微笑んで頷いた。もう付き合いは長い。従者としての立ち位置はキープしつつも、半分は友人のようなものだ。立場さえなければ、もっと親しく出来たのだろうと思うと、カバネとしては少し寂しい思いもあった。
黙礼して、コノエはカバネの執務室を出ていく。残りの書類も始末しておけ、と背中に書いてあったが。小さく笑って、カバネはペンを握る。
「終わらせてみせる。……戦争なんて、何も生み出しはしないからな」
軍予算拡張の書類にサインを印す。歪な世界は、一刻も早く終わらせなければならなかった。
もっと、劇的な事象が起こる事を覚悟していた。だが実際には何と言う事はなく、むしろ何が変わったかすら分からず。核シェルターの地下施設は、随分と静かなものだった。ナーヴの儀式で使う特殊なインクで印に書き加え始めた一瞬こそ空気が震えたが、何もなく。クオンとしては、不安で落ち着かない。
「……特に何も……ない、ですね」
「ないな。計測器をもう一度確認してくれ」
『畏まりました、陛下』
モニタールームから見守っていた研究者達の声も戸惑いが滲んでいた。クオン用……というより、クオンの纏う不可視の微細粒子を計測して呪いの濃度を見ていた計測器。それが反応しなければ少なくとも、もう呪いでクオンは人を殺さないで済むとカバネは言っていた。それを、信じたい。どきどきと、心臓がうるさくなる。人生で初めてこんなに緊張しているかもしれなかった。
数十秒か、あるいは数分だったのか。永遠に終わらない気がして不安に駆られていると、ふと、カバネがクオンを見やった。
「……不安か?」
「ううん。みんなの事は……信じているから。ただ……、本当に、僕はそうしても……許されるのかなって……」
この呪いで滅ぼした国は、命はどうにもできない。それは、重く苦しい。だが、カバネは悠然と笑みを浮かべていた。
「罪は贖えない。ただ……生きることは、否定されなくても良いだろう。悔いているなら、尚更な」
「カバネ……」
「少なくとも、もう殺さなくていい。未来で罪を犯さずに済んだ。それで今は十分だろう」
まだ終わったなんて、確定していないのに。信じさせてくれるカバネは心強い。少し遅れて、呪いが観測できないとの報告が降る。その報告に、カバネとコノエが安心したように笑いあったのが、クオンにとっては何より安堵できる光景だった。
――でも、呪いなんてものは執拗に付きまとうもので。この時はまだ、自分達の身に何が起きていたのかすら、クオンは知らなかった。
◆
どこから聞きつけたのかわからない。分からないが、人間の持つ憎悪、復讐心というものは深く心に住み着いて、ふとした瞬間に顔を出して牙を向くのだろう。今の、ように。
「コノエ、コノエッ!」
「きこえ……てます、よ……クオンさん、……っ、ぐ……」
「あぁ、良かっ……た。良かった……!」
コノエの意識が戻ったことに笑ってはいたけれど、クオンは泣いていた。その強さに、コノエも応えなくてはならない。笑みを返しつつ、痛みの疼く頭を抑える。ぬるりと、指先に血が纏わりついた。
……おかしい。
「俺は……どう、して」
「無事だな、コノエ。……いや、無事とは……言い難いか」
「カバネ様……俺、は、……っ?!」
ぞくりと肌が粟立つ。周囲には大量の死体。部下だった兵士も、知らない武装した人間も。等しく地面に伏して血を広げていた。惨状には慣れていた筈のコノエも、言葉が出ない。ここは……戦地では、ないのだから。
「僕は……僕のせいで……」
「お前のせいではないし、悪いことばかりではないだろう。これは。……恐らくな」
「カバネ様……」
すっと、カバネが手を差し伸べる。コノエは黙ってその手を借りて立ち上がった。むせ返るような血の匂いに、つい眉を顰める。意識を飛ばした直前の事を思い出そうとしたコノエに、ふっとカバネが笑った。
「派手に撃たれたな、コノエ」
「……どうして俺は、生きてるんですか。き、記憶が、感覚が間違ってないなら、俺は」
「頭半分吹き飛ばされて、クオンも肩の肉は抉られた」
「は……?」
「……呪いなんだ、多分。僕の、呪いが」
「な、何言ってるんです? クオンさんの呪いは」
「形を変えたんだろう。いや、俺が変えたようなものだ。……死を失くした。きっと、そういう事だ」
淡々と言い切ったカバネに、コノエは言葉が浮かばない。死ななくなった。だからこそ、致死的なダメージを食らったはずなのに今五体満足で生きている。いや、息をしているだけかもしれないが。理解が追いつかない。指先が震え出したが、それが恐怖なのか他の感情なのかも。
「分から、ないですよ。そんな……え……?」
「俺に聞くな。まあ、一度は書き換えたんだ。驚いたが……お陰でお前は無事だ。俺はそれでいい。……お前以外を喪ったのは、悲しいが」
「カバネ様……」
「陛下! ご無事ですか?!」
駆けてきた警備隊員の姿に、コノエはぎくりと背筋が強張る。ぽん、とカバネが背中を叩いた。
「今はここを離れるぞ。……自国で襲われるとは思わなかったよ」
「それは……、カバネ様はあまりに国長の自覚が足りないんです」
「……はは、そうだな」
ほっとしたように表情を和らげたカバネに、申し訳無さが心に滲む。いつものお小言が言えるなら平気だと、判断したのかもしれないが。染み付いた癖で反応できたからいいものの、内心コノエは混乱から一ミリも抜け出せていなかった。
後の調査結果で、クオンに国を滅ぼされた住民がその仇を取るべく襲撃して来たのだという。クオンには伝えなかったがカバネには報告が上がり、ほんの少し寂しそうに頷いただけの国長の姿は、コノエの胸に痛かった。
「は? サナとの縁談を破棄した? 馬鹿か?」
「ば、馬鹿とは何ですか馬鹿とはっ!」
気にかけて貰っていた分、一応報告だけしようと思ったのだが、労りより簡潔な罵倒が飛んで思わずコノエは言い返した。月末の周辺諸国会議の予定表を確認していたカバネは、ため息をつきつつ肩を竦める。
「お前の警備隊長任期を来年までとしようと思っていた俺の計画が丸潰れだ」
「それこそどういう計画です?! クビとか困るんですが?!」
「結婚するなら身を落ち着けるために士官学校教員に任命して、前線から引かせてやろうという俺の気遣いなんだが」
「今でも構いませんが」
「いや駄目だ。独り身のうちは俺に付き合ってもらうぞ警備隊長殿」
得意げに笑ったカバネ。完全にこき使うという宣言だ。コノエは思わずため息をつくが、肩の力が抜けたのも事実だった。下手に労られても余計に心が痛いだけになる。笑い飛ばしてくれたカバネの様子が今は有り難い。
「……すまないな」
「そう思うなら、もっと仕事を増やさない努力をしてください」
「考えておく。……まぁ、一度出来たんだ。もう一度どうにか出来る可能性は高い。今度は、じっくり取り組んでいけばいいさ。時間的猶予は出来たのだから」
「……はい。そうですね」
理由など言わなくても、カバネは理解していた。仕事を優先して、縁談を諦めたわけではなく。単純に今の自分には不釣り合いな話だと判断したからだ。
人の枠から外れた自分に、コノエは普通の幸せを少しずつ諦めることを、慣らし始めている。 それはきっとカバネやクオンが望まない事ではあるとうっすら知りつつ。ただいつか、歪んだ命から解放されればその先でと、夢を見るくらいは、心に抱きながら。
不気味なほど静かだった。相変わらず国際会議の場にナーヴが姿を見せることは無かったが、カバネがクオンを手元に置いてから、ナーヴによる呪術侵攻で滅ぶ国はなくなった。それは、言い換えればカバネの勝利だ。クオンという最悪の武器を奪った価値があるというもの。孤立を貫いているが、ナーヴとて他国からの物資の援助を受けられなければ国を維持することさえいずれ困難となり、会議の場に現れることも必要となるだろう。場は用意してある。あとは、時が来るのを待つだけだ。その間、コノエ達にはまた別の研究が必要にはなっていたがそれもいずれ、解決できると信じていた。
少なくとも、その時までは。
「……俺は……やっぱり止めるべきだったんだろうな」
ぽつりと呟いて、コノエは膝を折る。血を吐いたのか、口元を赤黒く染めて床に倒れて動かない母の瞼を下ろす。喉の奥が熱くなって、奥歯を噛み締めた。
クオンに少し外国を見せてやりたいから、と会議からの帰路を遠回りに設定して王都に帰国した時には、全ては沈黙していた。いや、正しくは赤ん坊の声だけが不気味に夜の空気に響いていた。それが意味した事を悟った瞬間、コノエはカバネの声を振り切って走った。灯りも、機械の動く音もするのに、人の声だけが、気配だけがしない。通りで倒れた人影も、動かない野良猫も視界から除外した。息を切らし走って辿り着いて、やっと現実に絶望する。
両親と、警備隊長を引退して余生を穏やかに暮らしていた祖父。皆一様に、血を吐いて動かなくなっていた。静寂が耳に痛くて、心が潰れそうになる。疑問だけが、頭を駆け巡っていた。
「正しい事を……した筈なのに。どうして……何で……」
「……コノエ」
呼び掛けた声に、一瞬振り返れなかった。今振り返れば、泣き言を言いそうな気がした。あるいは、暴言を。それはどちらも、八つ当たりでしかない。背後に立ったカバネは、何一つ、悪行を働いてはいないのだから。
「逃げた者も……あるかもしれない。今は持ち出せるものだけ、焼き払われる前に持ち出すよう指示を出した。……動けるようになったらでいい。手伝ってやってくれ」
頷こうとして、一瞬息を止める。コノエやカバネはともかく、一般の兵は。
慌てて振り返ると、何かを腕に抱えたカバネが背を向けたのが見えた。
「カバネ様、その手に、何を」
「……今以上に、誰かを傷付けなくて済むようにしただけだ」
「っ……カバネ様……」
「見損なったか? ……すまないな」
ふっと寂しそうに微笑んだカバネの横顔に、コノエは何も言えなかった。本当ならそれは、コノエがすべき事だったのに。遠ざかる足音に、不甲斐なさとやるせなさと憤りで、心が千切れそうになる。
「すみません……すみません、カバネ様。俺は……俺は何も、できなかっ……、う……!」
我慢出来ず、コノエは蹲って泣き崩れた。何も考えたくなくて。こんな現実を受けとめきれなくて。
カバネに……主に、余計な手を下させた。幼子に刃を振り下ろして平気な人ではないのに。ただただ、死の匂いが住み慣れていた自宅に充満している。ここだけではない。王都全体が、同じ状況にある。その中心に立たねばならないカバネの心痛は手に取るようにわかる。だが、傍についているべき自分が、今は隣に居られる心境ではなかった。
ナーヴを……呪いを見誤った。クオンを手中においた時からナーヴの侵攻が止まったことで判断を見誤った。全て、楽観的に見すぎた結果だ。
結果カバネは国民のほとんどを失って、かろうじて逃げ延びた百人足らずの住民と、同行して呪いを免れた兵を連れて地下へと身を隠した。ゴウトが潰された報は諸外国へ動揺を与え、助力を期待できる状態ではなくなったせいもある。クオンのことを考えれば、他国は頼れなかった。ナーヴからだけでなく、亡国の仇として狙われている可能性もあるのだ。そこだけは……守らなければならなかった。
「……地下だと、やっぱり花は育たないね」
「仕方ないですね、そればっかりは。今遺伝子工学でどうにかならないか、研究者と一緒に試してるので少し待っていてください。流石に観賞用より、食用の方が最優先なので」
「もちろんそれでいいよ。ありがとう、コノエ。……ごめんね」
「謝らなくていーんですよ、クオンさんは。……それより、不便は無いですか? 困った事があったら言ってください。出来る限り何とかしますので」
「じゃあ……急いでないんだけど時間がある時に、お願いしたいことがあるんだ。いい?」
「分かりました。声を掛けますから、そのときに聞かせてください」
うん、と頷いたクオンはそのまま逃げるように去って行った。地下に来た当初はクオンの事を睨む兵や住民もいたが、カバネの言葉で彼らは徐々に敵意を好意へと変えてくれた。元より、他人に害をなすような存在ではないクオンだから尚更だ。もうゴウトの民はここで支え合って暮らしていくしかない。いがみ合う余裕はなかった。
「隊長ー、戻りましたよー」
「ああ、シノか。報告を」
「水源を辿ると、もう少し下に落ちてました。地下水の池もあったし、ここより天井高くて、岩盤も硬いらしくて、居住には向いてそうです」
「そうか。……ここだと見つかるリスクも高いからな。……カバネ様に伝えておく」
「隊長」
「何だ?」
珍しく硬い声音で呼び掛けたシノを改めて見やる。シノはじっと真顔で、コノエを見つめていた。少し、緊張感が走る。
「……絶対ナーヴのやつ、ぶっ殺しましょうね」
「物騒な言い方はやめておけ」
「それくらい許せないんですよ、オレは! 仲間も、家族も。……あんまりですよ、あんなの。隊長もそうでしょう? まさか諦めちゃいないですよね?」
「……今は、生活基盤を整えるのが先だ。……分かってる。仇は……討つ。カバネ様が、一番そう思っている」
シノは少し不服そうな顔はしたが、反論はしなかった。非武装の住民がいることを弁えているのは安心だ。そこを説得するのは骨が折れる。コノエにも、まだそんな精神的余裕はない。
一礼して別の作業に戻っていったシノの背を見送り、ぽつりと。
「仇……か」
シノの言う仇とは、何を指すのだろうか。実質的に王都に呪いを振りまいた赤ん坊はカバネが手を下した。呪術兵器を生み出したナーヴ国そのものが仇ならばそれはナーヴの国民すべてを指すのか。奪われた分だけ命を潰すのなら、ナーヴの国民の命全てでも最早足りないくらいに世界は死んでいる。そうして恐らく、今後もナーヴはクオンのような人型の呪いを振り撒くのだろう。命を道具にした呪いを。
考えれば嫌になる。答えを出そうとすると滅入りそうで、コノエは思考を諦めた。
「わぁ、世界が真っ赤だ」
「ちょうど夕焼け時でしたね。……良かった、雨や雪が降っていなくて」
「本当にね。ありがとう、コノエ。付き合ってくれて」
にこりと嬉しそうに笑ったクオンに、コノエも自然と笑みを返す。そういえば、最近は険しい顔をしてばかりだった。
もう少し地下へ移り住む前に、地上をもう一度見たい。そう言ったクオンに、コノエは快諾してカバネに断りを入れてきた。忙しくなったカバネは同行しなかったが、久し振りに頬を撫でた地上の風が心地良い。間もなく、雨季が来る頃だった。
「……ごめんね、わがままを言って」
「全然。……心地いいです。俺も……地上が見たかったのかも」
「それなら良かった。……今なら考えた事が全部風に攫ってもらえる気がする。全て……太陽が焼き尽くして消してくれそうな気がするんだ」
ちくりと、胸が痛む。クオンはずっと、後悔しているのかもしれない。カバネの手をとったことを。そうして、ゴウトを滅ぼす結果を招いた事を。だが、コノエはクオンにそんな事は思って欲しくはない。ぐっと手のひらを握り締めてコノエも夕焼けに染まる世界を見つめた。
「……クオンさんが気に病むことは、何も無いですよ」
「そうかな」
「そうです。……せめて、カバネ様が一人の命を救ったことだけは、誇らせてあげてください。そうでなくちゃ、クオンさん自身にゴウトが滅ぼされてたかもしれないんですから」
「……うん」
「少なくとも俺は、そう思っていないと……保ちそうにないので」
本音が零れる。クオンの前で取り繕ってもあまり意味を為さないから、でもあるが。とてもカバネの前で弱音は吐けない。コノエ以上に疲弊しているのは、間違いなくカバネだった。
ざわ、と木が、花が、風に揺れる。
「……僕は、風が好きなんだ。コノエは?」
「え? いや……別に考えたこともないですけど……」
「そう。風が吹くとね、良い事も悪い事も運んでくる気がするんだ。それは僕に生きているって感覚をくれる。時間は動いてると、教えてくれる気がする」
「……なるほど。それは……悪くない、ですね」
「うん。……風も太陽も、土も。僕達を見捨てたりは、きっとしないよ」
だといい、という願いにも聞こえた。クオンの言葉は、今日もすんなりとコノエの心に落ちる。泣きたくなるような夕日が地平の向こうに消えるのが、今日ばかりは惜しかった。
◆
気付けば半分に減って、その半分になって、そうして百年足らずで生きた人間はゼロになった。最後の一人を埋葬して、三人で黙祷を捧げて、その日だけは眠らずに昔話をして過ごした。昔話なんて、ほとんどがこの地下の話だったけれども。
楽しかった、気はする。そう思いたかったのかもしれないが。コップを片付けつつ、コノエはぼんやりと天井を見上げた。ちらちらと不安定に光る照明に、換え時を感じる。ライフラインも料理も、洗濯も掃除も。食用野菜の栽培までもいつの間にか身につけてしまった。たかだか一兵士をやっていた時からすれば、驚愕でしかない。今となっては剣より包丁を持っている時間のほうが長いし、銃より釣竿の扱いのほうが容易い。ずっと昔カバネが言っていた、後方支援暮らしが出来ていたら、こんなものだったのかもしれない。
「悪くはないんだけどな……、……誰もいないこと以外」
コノエには、クオンとカバネがまだ居てくれる。カバネはもう一度ナーヴへ―今や他国から奪った技術で持って宙へと浮きアークへと名を変えていたが―向かうのだと言っていた。半ば意地だろう。かつての同盟国も粗方滅び、生き残った人々は散り散りになってかろうじて生きている。そんな世界を、カバネは何より望まない。憎むべきはナーヴだけで、未だ呪術兵器として人間を使う上層部だけでいい。
「……終わらせないと」
例えこの命の終わらせ方が分からなくても、ナーヴだけは討たねばならない。コノエも、そう信じていた。
でも世界はとっくに形を変えていて。ナーヴで立ちはだかったのは、武装した兵士ではなく丸腰の、教義に殉じることさえ厭わない無垢で敬虔な教徒だけだった。
「カバネ様、食事置いときますね? ……食べたくなかったら、あとで下げますから気にしないでください」
部屋に引き篭もって声も返してくれなくなって、三日ほど。アークから戻る途上ですらカバネの顔色はずっと暗かった。不安が、首をもたげる。このまま塞ぎ込まれると、コノエとしてはどうしていいか分からない。仕えることしか、コノエは知らなかった。
きっともう、ナーヴを討つ事はカバネは諦めたに違いない。地上で手を取って抵抗してくれる余力のある国は、どこにも無かった。今を生きるのにどの国も必死だ。そもそも、もう国とも言えない。かつて頼った死者信仰の村にはたどり着くことさえ出来なかった。もう、かつての世界には戻れない。
―呪いに負けぬようにな。
ふと、あの巫女が言っていた事を思い出す。彼女はここまでも、視えていたのかもしれない。教えて欲しかったくらいだ。こんな所には、辿り着くべきでは無かったから。
ため息をつきたくなるのを堪えて、カップを洗おうと水につけた時だった。
「……コノエ」
「あ、クオンさん。どうかしまし……た?」
振り返りつつ笑みを向けたが、立っていたクオンの表情は今にも泣きそうな顔だった。そんな顔は、初めて見る。思わず呆気にとられていると、クオンは我に返ったようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「……コノエは、やっぱり強いね」
「え?」
「なんでもない。……何でも、ないんだ」
ごめんね、と言い残してクオンは足早に去って行った。何を伝えたかったのか、一つも分からない。分からないが……嫌な予感がした。
気付いたときには走っていた。あの日の王都のように。今度は、カバネのもとに。
「っ、カバネ様?!」
ノックもなしに扉を開け放つ。無礼とは知っていたが、余裕はなく。そして、絶句する。部屋一面、赤く染まっていた。乱雑に、めちゃくちゃに筆を振ったように飛び散った赤。その意味が分からないコノエではない。血濡れのベッドに腰掛けているカバネは、俯いていた。
その姿に、胸が痛い。逃げ出したいような、凄惨な光景に染められた部屋に、コノエは黙って踏み込んだ。血溜まりで足が滑りそうになる。人一人の血液量なんてとっくに超えている。それでも、まだ生きている。生き続けて、死ねないままでいる。
「……掃除しますから、ちょっと出ててください」
「どうして」
「どうしたもこうしたも、カバネ様が汚したんでしょうが」
「なぁ、コノエ」
カバネが傍らに立ったコノエに目を向ける。憔悴しきった、もう国長の繕いなんて出来ないただの青年がそこにいる。無礼とは思いつつ、コノエは安堵してしまった。
「……俺は国を残して死ねないと、昔、言ったな」
「そんな事もありましたね」
「もう国もない。民もいない。……なら、俺はもう死んでも」
「……部下も国民も居なくなっても、……せめて俺くらい友人にカウントしてくださいよ」
自分で言って声が震えたのは情けなかった。それでも辛うじて笑みは向けられたはずだった。唖然としたカバネの前に膝をつく。血で濡れるのも今は気にならない。
「多分、これから俺達はどんどん生きてるのが面倒くさくなって、死にたくなります。それでいつかきっと、死ねます。でも、それまでは俺がちゃんと着いていきますから。もう一人で頑張らなくていいですよ」
「コノエ……」
「ずっと……貴方は立派な国長でしたよ。最後の一人を見送るその時まで。……それは多分、一番褒められるべきことです。まあ俺なんかに褒められても嬉しくないとは思いますけど」
「国を滅ぼしたのは、俺のようなものだ」
「今はそう思ってて良いですよ。いつか……、いつか、思い出してください。こんなお小言ばっか言ってた部下が唯一褒めたんですから」
カバネは俯いて、口を引き結んだままもう何も言わなかった。と言って、ここにいられては掃除が出来ない。わざとらしくため息をついて、コノエは動こうとしないカバネを部屋の外に追い出す。戻る気力もないのはこの際僥倖だ。さっさと掃除を済ませるに限る。
小走りで掃除用具を集めて、気合を入れ直す。そして、ポツリと。
「……あーぁ、もう。傷も跡形もなく消えるなら、血だって勝手に消えてくれたらいいのに」 生きている事を証明するかのような赤だけは、変わらず人間だった。
それから、何年過ぎたかもう良くは覚えていない。一日というサイクルを忘れないようにするためだけにコノエは食事と洗濯と掃除、それから野菜を育て続けた。人間でもないくせに、と時々自分を嘲笑いながら。終われる日を、ずっと待ち続けながら。
「最近ね、やっとコノエのその口調に慣れてきたんだ」
「今頃ッスか?! おっそ……時間かかり過ぎッスよ、クオンさん……」
「……ありがとう、コノエ。いつもいつも、僕はお礼しか言えないけど」
「大したことは何にも。でもまぁ、どういたしまして」
少しでも穏やかな日々が続くように、それだけで十分だ。カバネとクオンはお互いを避けるように生活しているが、出て行くわけでも無いのだから、まだきっと歩み寄りの余地はある。幸いと時間はまだ多くあるだろうから、コノエはそこまで心配していない。
クオンの前に大して美味しくはないお茶を置いて、コノエは正面に座った。ここに三人揃うなんてことは、もう随分昔のことになってしまうのだと少し寂しさが顔を出した。
「ねぇ、コノエ。あの日の夕焼け、覚えている?」
「地上で最後に見たあれッスか? もちろんッスよ」
「良かった。僕も覚えてるよ。……いつかまた、風に吹かれたいね」
「……そうですね」
地下には風がほとんど舞い込まない。まともな風など、ついぞ忘れてしまった。カップに口をつけて、コノエはふと、笑ってしまった。
「いやでも……風かぁ」
「どうかした?」
「いえ。ここに吹き込む風が来たら、それはきっと暴風みたいな強い風なんだろうなと。じゃないと、こんな地底までやってこないでしょう」
「そうだね。そんなに強かったら、何もかも、壊してしまうかもしれないね」
「そーッスね。……それも悪くないかもッスね」
変化は可能性だと、コノエは思っている。自分達の運命も、今はここで留まっていてもいつかは終わりへ向かうはずだ。そうでないと、困る。
カップを空にして、コノエは立ち上がった。クオンのカップには半分以上も残っていたが。
「じゃあ俺、そろそろ夕飯の支度をするんで。今日は魚捕れたんで豪華ッスよー」
豊富なレシピとは言えないが昔よりは幅が増えた。感想なんて貰えもしないが、ほぼ自己満足でやっている事だ。何も不服はない。
クオンを残して、コノエは水を汲みに通路を進む。水場まではひんやりと冷たく、いつもここだけが僅かな風を感じた。
「何してんすか、こんなとこで」
じっと水の溜まり場を見つめていたカバネに、つい苦笑いをこぼす。こんな所にいるのは、珍しいこととはいえ。
「今日は魚があるんで楽しみにしててくださいよー」
「……コノエ」
「なんすか、カバネさん」
「……いや。……部屋にいる」
「りょーかいッス!」
気配を殺したように、カバネは今日も去っていく。その後ろ姿に、ふっとコノエは笑みを溢した。
「……いつかきっと、自分を許してあげてください。……カバネ様」
呟いたコノエの声は、滝の音に飲まれて消えていった。
【END】