第十一話 それは灯となりて

 今日もひどくフーガは憤慨していた。余計な事を言えば裏拳が飛んで来そうな気がして、コノエはひとまず放置を選択する。まだこれから、昼の支度が必要だった。

「……ちょっとコノエ!」

「うわ出た、八つ当たりの時間ッスか。それ本当面倒くさいんでやめてもらっても?」

 畳み終えた服を棚に仕舞うのを見計らったかのような見事なタイミングでフーガがコノエの背中を掴んで怒鳴る。振り返ると、案の定不服全開の半眼で睨むフーガかいた。

「はいはい。聞いてあげますよ」

「そーじゃないだろ! むしろ八つ当たりじゃなくて正当な怒りだろ!」

「……俺なんかしたッスか?」

 むしろ今日分の洗濯も終え、朝食は昨日夜まで頑張って勉強していたのを知っていたので多くした。さっきは疲れて居眠りしていたところを十二地区の懐かれている子ども達に起こされそうになっていたので、それから守ってあげたのだが。

 覚えがなさすぎて首をひねる。

「僕が怒ってたら普通理由聞かない?!」

「え、面倒くさいんで聞かないッスね」

「聞けよ!」

「聞いて欲しいって言ったらいいじゃないッスか……」

「じゃあ僕の話聞いて、コノエ」

 ぶすっとしつつ、素直に頼み込んでくるフーガに、つい笑ってしまった。ぼす、と拳で頭を一発小突かれたが、笑うなという方が難しい。最初からそう素直に言えばいいのに。

素直に言えたご褒美代わりに抱き締めると、フーガはずるい、と小声で呟いた。ここは聞かなかったことにしておく。

「で、なんすか? またオルカと喧嘩ッスか? 飽きないッスねぇ」

「違う。……今日な、また怪我したーって言うからわざわざ行ってやったの。そしたら大したこと無くって、唾でもつけてほっとけって言ってやったんだよ」

「何だ、頼りにされてるってことじゃないッスか」

「だから違うんだってば!」

 コノエの胸を押し返し、何故か今度は胸倉を掴まれる。殴りかかって来そうな剣幕に、流石にコノエも笑みが引き攣った。

「あんのクソジジイ共! いやぁ、可愛い子に手当された方が早く治るから舐めて欲しいとか言いやがって! ついでに金を出すから一発させろとか、僕は娼婦じゃないんだけど?! 本当最低過ぎて蹴り飛ばしてきたんだよ! コノエの大事な僕が娼婦扱いだぞ! 怒れ!」

「……フーガ」

「なに」

 ぶすっとしたままのフーガに軽いキスをして、コノエはにこりと微笑んだ。

「そいつらどこッスか。あらゆる面から俺が二度と立てないようにしてくるんで」

 

 オルカが頭を抱えている様子に、クオンはつい笑ってしまった。

「おい笑い事じゃねぇよ。お前んトコのせいだぞ。あの普段はフーガのサンドバッグ代わりにされてるコノエがだぞ。あいつに初めて恐怖を覚えた。オレあいつには逆らわねぇ」

「まあまあ、未遂で済んで良かったよ。コノエがあんなに怒ってるの久々に見たなぁ。ねぇカバネ」

「ああ。……足から折るか腕から折られたいか聞くあたりまだ理性が残っ」

「てねぇよ! あーもう、だからフーガには忠告してやってたのに、こっちの話を聞かねぇから」

「忠告すべきはそっちだ。まあこれに懲りて、しばらく馬鹿は黙るだろう」

 本当にな、と深いため息をついて、オルカは頭を掻きむしった。コノエにとってフーガがいかに大事かはこれで理解しただろうから。それにしても、とクオンは小さく笑う。

「最初は大丈夫かと思ったけど……フーガ、強くなったね。最近は発作も少ないんじゃなかった?」

「荒療治で最初はコノエは良い顔はしてなかったがな」

 フーガのトラウマのトリガーは血や痛みそのものだ。ふとした瞬間に未だ発作を起こしているようではあったが、コノエのお陰でだいぶ落ち着いている。そんな状態で治療や薬について覚えたいと言ったのは、意外だった。わざわざトラウマに飛び込むようなものだ。当初はやはり泣いて吐いて大変だったようだが、今は切り替えが出来るらしい。二年もあれば、人は変われるのだ。

 フーガは今では十二地区の人々にとっては救いの一つになっている。邪な感情も持つ者もあれど、誰かに認められることはフーガにとってはやっと見つけた生きる意味そのものだった。

 不意に扉が開けられる。戦斧が天井を切り裂きそうになりながら、ヴィダが入ってきた。きょろきょろと視線を走らせ、目を細める。

「……おいオルカ。あのいつもぎゃあぎゃあうるせぇ犬みたいなガキは何処いった」

「犬……あー、フーガのことか? コノエに着いてって、畑行ったぞ」

「チッ。面倒くせぇな。おい、怪我人だ。ちょっと呼んで来い。それからモグラ共」

 モグラじゃない、と小声で抗議したカバネについ苦笑を零しつつ、クオンはヴィダへ目を向けた。不愉快そうに、ヴィダは鼻を鳴らす。

「テメェらに客だ。手土産の一つもねぇ厄介種だけどな」

「ヴィダさん! オルカさん!」

 飛び込んできた少年に、揃って目を向ける。四人もの視線に晒されてか、びくっと肩を震わせたがそばに居たヴィダが視線で促した。

「あ、あの。ゆ、ユニティ……オーダーが」

「おいおい……何でこんな死にかけの土地にそんなモンが来るんだよ」

「何人来ようがオレが殺してやる。オルカ、テメェはこいつらのお守りだ」

「なら、俺も行こう。人手は多い方がいい。死なない体はこういう時こそ役に立つ」

「無理しないでね、カバネ」

 頷いて、カバネはヴィダと共に素早く出て行った。報告に来た少年は不安げに瞳を揺らしている。クオンはそっと微笑み歩み寄ると、肩に手を置いた。

「大丈夫だよ。ヴィダは君達を守る為に、その力を奮うんだ」

 オルカが表情を引き締めて武器を手に取る。指示を飛ばし始めたオルカに少年を預けると、クオンも一人、外へと踏み出した。

 

 殺意はある。だが敵意はない。対峙するユニティオーダーの兵士たちはそんな群れだった。手にしたナイフを一度軽く振って、カバネは手に重さを馴染ませる。

「んだよ……テメェらは子守りの続きでもしてやがれ」

 吐き捨てたヴィダを一瞥して、剣を構えていたリーベルが眉を顰める。

「そんな事を言っている場合か。数がいる。取り敢えず一気に叩くぞ」

「偉そうにオレに指図すんじゃ、ねぇよっ!」

 言うが早いか、ヴィダは地面を蹴る。人を超えた速度だ。神速。呪術でなければ、こんな速度は出せやしない。敵に回せば恐ろしく、味方にすればこれ程力強いものはない。千年前のあの日に、ヴィダの先祖達が敵に回らなくて本当に良かったなどとカバネが思ってしまうほどには。

 リーベルとクヴァル。この二人がここに居る時点で、アルムに何かあったのだろう。手早くここを片付けて、話をしなければならない。

「ナーヴに……ミゼリコルド様に勝利を……」

 ぶつぶつと、うわ言のように口にしたフレーズに眉を顰めつつ、カバネは黙って切り伏せる。その瞬間にも、恐怖や怒りは掠めなかった。その感覚が、薄気味悪い。

――何だ? こいつらは……生きてる、のか?

 いや、生きていたとして、意志が感じられない。振るわれる剣をかわし、銃弾を避ける。射線上に味方がいようと、構わずに引かれた引き金に、カバネは怖気がした。

「こいつら、意志が」

「他所事考えてる余裕は、テメェにはねぇだろうがよ!」

 逡巡したカバネの目の前で、ヴィダの戦斧が振り下ろされ骨が砕ける音が響く。飛び散った血が頬に付着し、まだ生きた温度を感じさせた。

 ひゅ、と風が吹き音が消える。誰一人逃げることなく、ユニティオーダーの兵士はこの地の上で屍となった。

「は……、肩慣らしにもなりゃしねぇ。ザコが過ぎる。こいつら戦う気がねぇ。死ぬまで走るよう指示された駄犬じゃねぇか」

「……お前も、そう感じたのか」

「あぁ? ……まぁどうでもいい。こいつらは駆逐した。使えそうな武器は後でオルカに拾わせておくか。……おいリーベル、分かってるとは思うが、さっさと要件を済ませて出て行け」

「分かっている。……カバネ、突然ですまないが力を……いや、知識を貸してくれ」

 剣を鞘に仕舞い、リーベルが歩み寄る。嫌な予感に、カバネは眉を顰めた。

 

「……いや駄目ッスね。特に怪我とかはなし。あと、呼吸も脈も正常なんで、本当にただ寝てるだけッス」

「そんなわけがあるか! もう一週間になる。一週間、アルムはずっとただ眠り続けてるなんてそんな馬鹿な!」

 噛み付いて来たクヴァルの気持ちは分かるが、コノエにだって信じ難い。宥めるようにリーベルがクヴァルの肩を掴んだが、不安は同じだろう。

 一週間。アルムが目を覚まさなくなって一週間になるという。共に行動していたクヴァルも、二日目まではただの心労だと片付けようとしたらしい。だが、三日にもなると流石に異常だ。慌ててリベリオンへ戻ったものの、向こうでもお手上げ。結果、カバネ達を頼りに来た。

 苦痛もなさそうに、ただ静かに眠るアルムの額にコノエが触れる。やはり熱もない。あるいは、天子の呪いのせいなのかとも、脳裏を過ぎる。

「何故だ……俺が、何かを間違えた? 眠る前までは、明日は南に行こうと、楽しみにして……アルム……」

 答えのない後悔に頭を抱えるクヴァルに安心を提供できないのは、コノエとしても申し訳なかった。原因が、分からない。何一つ。

「鍵だったんだよ、あれは。扉を開く鍵だったんだ」

「は……?」

 ゆったりとやって来たのはクオンだった。ヴィダが不満げな顔をして着いてきたのは意外だったが、すぐに窓辺に逃げて外を睨み始める。コノエはピンとくる。クオンは、何かをしようとしていた。

「……扉……、そうだ、アルムは……夢で扉を見ると。エーテルネーア様がいる、と」

「そう。でもそれは、死への扉じゃない。それが死の扉だとしたら、今すでにアルムは息をしていないからね。……きっと、少し迷子なんだ。アルムは世界を知らないから、知らなくちゃならない事が多すぎて時間が掛かってるんだ」

「知らないこと……?」

 頷いて、クオンはアルムの傍らに立つ。コノエの見上げたクオンの表情は、もう迷いがなかった。カバネとの話は、終わっているのだろう。

「だから、僕が迎えに行く。僕が、一番アルムに近いから、僕ならきっと入り込める」

「俺も行かせてくれないか」

「テメェは無理だ、リーベル。呼ばれてねぇ」

「な……」

 絶句したリーベルに、ヴィダは一瞥寄越し、鼻を鳴らす。

「テメェはそこのモグラとは違う。媒介するものが何もない。権利がねぇんだよ。ここの呪いをオレしか受けられないように。お前らはみんな余所者だ。余所者はなぁ、土地の主に拒まれんだよ。首を掻っ切られたくなかったら、黙ってそこに座ってろ」

「おいヴィダ、お前何を知ってるんだ」

「何も知らねぇよ。でも聞こえんだよ、オレには。少し困ってしまってる、そこの偽善者の声がな」

 沈黙。誰も、ヴィダの言う事を理解できて居なかった。ただ一人、クオンだけが覚悟を決めている。

「問答は終わったか? なら、さっさと始めるぞ」

「カバネさん」

 音もなく入ってきたカバネがぱたりと、扉を締める。クオンは安心したように微笑んだ。

「行ってくるね、カバネ」

「ああ。……必ず、戻れ」

「もちろん。……僕達には、まだやり残したことがあるからね」

 そうしてクオンは膝をおると、静かに寝息を立てているアルムの傍らに膝をついた。そっと手をとり、ヴィダを見やる。

「……チッ、うぜぇな。直接会話出来ねぇくせに」

 ずかずかと歩み寄り、コノエを押し退けるとヴィダはクオンの頭を乱暴に掴んだ。咄嗟に止めに入ろうとした刹那。

「……すまない。少し借りるよ」

 ヴィダの声で、ヴィダではない言葉が紡がれた。驚いて目を見張ったコノエの前で、ふらりとクオンが傾ぐ。ぱたりとアルムの隣にて意識を失ったクオンもまた、静かに眠り始めていた。

 

 そこには確かに扉があった。でも扉は既に開かれて、その先には燃え落ちた町があった。

「……すまない。アルムには、早かったのかもしれない」

「でも、求めたのはアルムなんだ。……だから、僕は貴方の導きは正しいと思う。……貴方が、エーテルネーア?」

 扉の傍ら。一人の男性が立っていた。黒の聖職者の衣装は、かつてクオンが見たそれとあまり変わらない。ナーヴは変化を嫌う。そのことを体現するかのように。懐かしさとほんの少しの恐怖が、クオンの中で渦を巻く。

「その、魂の名残……残像、かもしれないね。ただ、私達はこうして記憶を共有してきたんだ。ナーヴの力で。天子を天子とした、その方法で」

「うん。僕も、それは知りたい。……行こうか。あまり眠っていると、カバネに怒られてしまうから」

「ゴウトの最後の王の名……? そうか……君は、一人では無かったのだね」

 心から安心したように、エーテルネーアが微笑む。性根から、心優しいのだろう。アルムは良いナーヴのトップに恵まれた。クオンは笑みを返すと、静かに顔を上げエーテルネーアと共に歩みだす。

 扉を踏み越えた瞬間、炎の熱がクオンの肌に容赦なく吹き付けた。そしてその先に、見覚えのある少年が、黒い衣服を纏って蹲っていた。

「……アルム」

「記録に囚われている。真っ白なキャンバスに色を塗るのは簡単だ。善悪も、好きも嫌いも最初に与えられたものから判断する。アルムには、まだそれが足りなかったようだ」

「うん。……でも、キャンバスは塗り重ねるものなんだよ。その下に描かれていたものがあるなら、そこには色がある。大丈夫、アルムは完全に真っ白なキャンバスじゃない。経験を、記憶を、ほんの少しだけ隠されてしまったんだ」

 クオンは黙って蹲るアルムに歩み寄る。眠っていた姿とは違う。震えて、声もなく泣いているアルムはこの記憶の主そのものだ。

 膝を折って、アルムの背に触れる。

「アルム。これは君の記憶じゃない。君の罪ではないんだ」

「……え……」

 震えながら、アルムが顔を上げる。涙に濡れたその顔にクオンは笑みを向けた。

「僕が誰か分かる?」

「クオン……、く……あぁ、よかっ……怖かっ、た、クオン……!」

「うん。そう。そして君はアルムだ。さあ泣きやんで、アルム。みんなが心配してるよ」

「そうだ。ここは何処なんだ。私はエーテルネーア様と……あっ」

「良かった、アルム。すまないね、私は少し焦ってしまったのかもしれない」

「よ、よく分からないけどもう大丈夫だ。うん、クオンの声が聞こえたら、視界が晴れた。何と言うかこう……すーっと、道が見えた気がしたんだ」

 言ったそばから変な事を言ってるな、と自分に疑問を呟くアルムの手を取って、クオンは立ち上がる。燃え盛る熱の温度は、もう感じない。周囲は全て、すでに描かれた動く過去のキャンバスだ。アルムの服装も身を隠すために身軽になったフード付きコートに変わっている。裾が翻った。

「エーテルネーア様。ここは、何なんだ。私は何故、ここに居るんだ? 経典が、ここに導いてくれたのだろう。ここは……経典の中に閉じ込められた過去の世界なのか?」

「ここは、代々のナーヴ指導者が管理してきた記録の断片だ。すべての書物を燃やせば、文明は消える。だが、文明は一度消えれば再生も出来ない。技術もだ。だから、指導者達は閉じ込めてきたのだよ。天子の器の記憶を。その、管理方法を。呪術兵器たる天子は、その実全て人間そのものだからね」

「閉じ込めてきた……? 天子……を?」

「その魂を、だよ。経典は、最も古い原初の呪い……天子の魂を縛った、最初の呪いだ」

「なんで、そんな事を。死んだら、魂は天に還るのだろう。そうして、また人は生まれてくるのだろう? これも嘘なのか?」

「嘘じゃないかもしれないから、縛るんだね。ナーヴは、円環が怖いんだ。だから天子だけは円環を邪魔している。その器の記憶が、いつか露呈するのを恐れて」

 エーテルネーアは悲しげに微笑んだ。アルムは分からない、と小さく呟く。片やクオンは、笑ってしまった。不思議そうに目を向けたアルムに、クオンは笑みを返す。

「ううん。僕も、最期まで天子だったら、ここにいたんだろうなって。……そうしたら、生きて一族と会うことは、二度と無かったんだろうね」

「いちぞく?」

「そう。僕はね、アルム。君の血筋をずうっと辿るといつかは交わる、遠い遠い一族の一人なんだよ」

 

「良かった。天子は、経典に無事に触れて回路に辿り着けたのですね。ならば、エーテルネーア様から与えられた役目は、無事に完遂出来ました」

 そうベッドの上で微笑む彼女は、あと三十分もすれば命を閉じる。円環へ還る。流暢にしゃべっているようでいて、目の焦点は合っていない。もう、目も見えていない可能性が高かった。フーガはぐっと奥歯を食いしばる。もう、自分には何も出来ない。

 そっと肩に触れた手を振り返ると、コノエが黙って手を引いた。代わりに、彼女の傍らへはリーベルがつく。残された時間は、未来へ使うべきだった。

「……教えてくれ、君は何者なんだ。ナーヴの信徒ではないのか?」

 リーベルの問いに、彼女は薄く微笑む。

「私に与えられた役割で言えば、それはエーテルネーア様の侍女……ということになります。でも、本来の私をというのであれば、それは天子の血を絶やさぬための存在、あるいは奇跡を奇跡と再現し続けるための、労働力の一つに過ぎません」

「労働力……? 血筋?」

「天子の呪いを、一族を解放してくれる英雄を、私達は待っていました。遥か昔、一度だけ天子は呪いから解放された。それでも、呪いは終わらなかった。私達の一族もそろそろ終わります。奇跡が奇跡である限り、やがては滅びる」

「どういう……」

「天子は、エーテルネーア様が終わらせてくれるでしょう。もう、歯車は回り出した。ただ、私達の技術も知識も、伝えられる時間は、もう限られています」

「……分かっている。呪術も科学も、伝えるべきものがいなくなれば、そこまでの全ては無駄になる。地上から奪い、アークで維持されてきた千年前より続く文明は、世界の為にも、継がなければならない」

 リーベルの隣にカバネが立ち、女性に迷いなく答えた。カバネの言っていることは、フーガにも理解できる。彼らが地下でつなぎ続けたものが、フーガの命を救ってくれたのだから。

「他に、言いたいことはあるか」

「……全ては運命の回るままに。どうか、貴方がたの頭上に、幸運の星が瞬きますよう」

「アルムは、クオンが連れ戻す。呪いも終わらせる。クオンに言わせれば、本来加護であるはずのものだ。あるべき形に、昇華させる」

「……はい」

 満足そうに微笑んで、彼女は目を閉じた。数秒、数分。彼女が動くことは、なく。

静かに命を閉じたのを理解して、フーガは目を伏せた。コノエの手が、背中を撫でる。

命は、こうして静かに終われるなら幸せなのだろう。それでも世界は優しくない。

「……終わらないのかな、こういうのは」

「終わらせるんすよ。……人間が始めた戦争は、人間にしか終わらせられないんすから」

 

 誰もいなくなった街が続く。正確には、命の亡くなった街。血を吐いて動かなくなった人々だけが存在して、やがて爆弾と炎で全てが吹き飛ばされた。辛うじて生き延びた人々はなけなしの財産を持って街を去っていたが、彼らがどうなったのかをクオンやアルムが知るすべはなかった。

「……天子で人だけを殺して、炎で全部燃やす。ナーヴのしてきたことは、これなんだな」

「全ての怨嗟を天子に向かわせ、その憎悪と殺意に恐怖した天子がその呪いを持って全てを滅ぼす。何度も繰り返して、文明と人を焼き払った。人類の進歩を止めるばかりで、ナーヴは何一つ、進歩をしなかった」

「……驚いた。ナーヴは天子以外の呪術すら捨てたんだね。それが一番簡単で、制御しやすいから。地上から奪った文明すらその先を見いだせず。……無理もないか。奇跡なんだから。奇跡の裏には、人間の手があることを知られてはならないもの」

 クオンの呟きにエーテルネーアは黙って頷いた。アルムはクオンの服の裾を掴んだまま、じっと眉間に皺を寄せている。ここにあるのは、アルムが辿っていたかもしれない未来そのものだ。それを直視するのは、心が痛む。

「ナーヴは、戦争に勝つためだけに、こんなものを作ったのか? 自分達すら殺しかねないのに」

「そう。聖印がないとナーヴの人間ですら呪いからの死は免れない。……この先に、その答えが、あるのかな」

 死んだ街を抜けると、また扉があった。古びた石の扉。ひびが入り、今にも崩れそうな扉の前に立ち、ふとクオンは足を止める。

「……僕が、カバネ達に……ゴウトの人達に連れ去られるとき、誰も止めようとはしなかった」

「え……?」

「ううん、居たには居たんだ。僕が行けば、もっと大勢が死ぬって。でも、そういう人達を止めてくれる人がいた。これは大人の都合で、子どもに勝手に背負わせた責任を全うさせる必要はないって」

「……君の時代には、まだたくさんの同胞が、居たからね」

 頷く。物心つく頃には『天子』だったにせよ、クオンにはまだ家族がいた。その時が来るまでは、普通の暮らしを享受する権利が与えられていた。アルムが今ナーヴの象徴としてその身を縛られているのは、クオンが連れ去られたことも一因なのだろう。真相は、分からないけれど。

「エーテルネーアはこの先を、知っているの?」

「……ああ。知っているよ。だから……終わらせなければと、思っていた。ナーヴは全て借り物で出来ている。それは全て、帰さなければ。君に続いて、アルムが地上を選んだことは……その時が来たのだろうと、思ったから」

「僕は……地上を選んだんじゃない気が、するな。カバネやコノエと居てみたかったんだ。ふふ、その願いの結果が、これなんだろうけど」

「君の死ねない呪いは……」

「大丈夫。これの答えは、あと少しなんだ。……僕は天子を終えれば、解放される。でも、その先を、あと少しだけ歩きたい。その為に、知りたいんだ」

 じっと黙ったまま不安な顔をしていたアルムに微笑む。顔を上げると、鍵が開く音がして、石の扉が開いた。光が溢れて、その眩しさにクオンは目を閉じた。

 

 アルムはぽかんと立ち尽くしていた。

 緑があって、湖があって、白の蝶々が二匹じゃれ合うように視界を横切る。野菜の入った籠を抱えて通り過ぎる女性達が楽しそうに談笑していた。

「……何ここ。……アーク……じゃないけど、穏やかだ」

「アルムの一族の、始まりの場所だよ。……彼らはずっと、自然の中で暮らしてきた。そうだね、自然信仰の一族だ。自然を重んじ、精霊の声を聞くと言われていた。精霊なんて……今の世界に、いるかどうかすら分からないが」

「覚えはない? 花に、水に、空に心を震わせられたようなこと。僕ももう、聞きとるのは難しくなってしまったけど……彼らが話しかけてくれていたのかもしれないんだよ」

「あ……あるぞ。見たことがないから……かと、思って……いた」

 リーベルに連れ出されて見た世界の全ては、美しかった。生命の鼓動が、聞こえた気がしていたからだ。ぎゅっと、心臓を掴む様に服を握りしめる。不思議な高揚感が、アルムを包む。

「ヴィダが死者の声を聞こえるように、僕らには生きるものの声を聞くことが出来たのかもしれないね」

「……凄いな。ドキドキする。私にも聞こえる日が来るだろうか。聞いてみたい。ヴィダにコツを聞いたら教えてくれるだろうか」

「どうかな。ヴィダは恥ずかしがり屋だから」

 苦笑を浮かべたクオンに、アルムは意地でも教えてもらおうと心を決める。ふと、誰かが祈る声が聞こえた。歌うような、抑揚のある祝詞。急に時間が早回しになったように流れる雲と太陽の位置が変わる。夜に差し掛かろうという頃、雨が降り始めた。乾いていた大地が、潤いを取り戻す。夜が明ければ、土から芽を出した緑に雨粒が残っていた。

「……自然を、制御できるのか」

「呪術とは、本来人を殺したりするだけの物ではないんだ、アルム。ナーヴはもう、天子の呪いしか、持っていないけれど」

「でも、エーテルネーア様。そうしたら、何で私達はこんな呪いなんだ。これじゃまるで正反対だ。生きるための祈りが、何故こんな」

 アルムの問いをかき消すように、銃声が聞こえた。どさりと、倒れる音。

嫌な予感がした。見てはいけないものだと頭では分かっていたが、アルムはぎこちなく首を巡らせる。

いつの間か、景色は変わっていた。村の中心。通りすがる人々が、毎日祈りを捧げる場所。そんな神聖な場所で今日も祈りを捧げていた女性の頭が撃ち抜かれ、石碑に血しぶきが飛んでいた。

「……なん、で」

 茫然と呟いたアルムの手を、クオンとエーテルネーアがそれぞれ握った。震える手を、宥めるように。

「さて、殺されたくなければ、我々の指示に従って貰おう」

 冷たい声が、穏やかな村を制圧する。雪崩れ込んできた兵士の制服には、ナーヴの紋章が刻まれていた。怖気が走る。アルムの中心が、ざわざわと騒ぎ出す。

「やめ、ろ」

 兵士の一人が、先ほど撃ち殺した女性を足でひっくり返す。彼女の腕には、まだ生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。この空間で、母親の死すら知らないのか眠ったままで。誰かが叫んでいた。アルムも、叫びたかった。それは、いけないと。その引き金を引けば、何が起こるか「知っていた」。

「ぐ……、っ、が……」

「ああ……あぁぁ……!」

 兵士が引き金を引く前に呻き声を上げて、血を吐く。アルムの瞳からも、涙が溢れた。体が悲鳴を上げていた。これは誰の痛みなのだろう。自分か、赤子か、母親か、あるいは。血を吐いて倒れた兵士に、慌てて他の兵士が駆け寄る。もれなく彼も血を吐いて転倒した。

 場が、静まり返る。何をしたのか、されたのか。きっと誰一人理解していなかった。空が、黒い雲に覆われる。大粒の雨が降り出して、間もなく雷が大地を抉った。

 

 彼らは、逃げていた。唐突な落雷に一旦退却を余儀なくされたナーヴ軍を見計らって、村を捨てて逃げ出すほか、道はなかったのだろう。武器も持たない彼らには、自衛すらままならない。赤子が泣くと、抱いていた人が衰弱しやがて死んだ。彼らは困惑したが、アルムにはもう、分かっていた。天子の呪いだ。命を削り続ける呪いは、この場所で生まれていた。

「……やっぱり、同族だから少しは、耐性があるんだな」

「きっとね。……でも、平気ではないんだ」

 ナーヴに見つかると、彼らは赤子を囮に殺しては逃げた。そうするしか、守る術がなかったのだから無理もない。アルムに彼らの生き方を非難する術はなかった。彼らが生きていなければ、アルムはここに居ないのだから。

 数ヶ月、数年。早回しで日々が過ぎる。そんな無為な日々もある日終わりを迎えた。

 赤子が成長して、一人の少年になった頃。彼らが一度は逃げざるを得なかった村へと、巡り巡って辿り着く。そこには、一人の青年が待っていた。

「……ミゼリコルド?」

「その……先祖だろうね。彼の家系は、聖印を管理してきたのだよ、アルム」

「じゃ、あ……まさか」

「そう。……ここで、彼らの逃亡の物語は終わりだ。数多の兵士の犠牲を払いなら聖印を完成させ、命を奪う呪いを無効化した」

 茫然とする村人を無視して、ナーヴの金髪の青年が呪いの主たる少年へと歩み寄る。

「やぁ、おかえり。……散り散りになって逃げて来た同胞の命を守りたくば、一緒に来てもらおうか」

 断ることなど、彼らに選択は残されていなかった。彼らの村で変わらず残っていたのは、あの日血を浴びた石碑だけだった。

――ナーヴが戦争を続ける上で、最強の兵器となったその存在を、やがて彼の一族の慰め程度に『天子』として扱うようになるのは、その数年後の事だった。

 ぶつん、と映像が切れたように世界が黒に染まる。

 アルムはやっと立っていた膝から力が抜けて、へたり込んだ。あまりにも、哀しい。

「……呪術は……加護だと、クオン、言っていたな」

「そう。……加護だよ。天子の呪いも。一族を守るために生まれた、生きることを優先した加護だ」

「ああ……本当だ。そうだ。私を危険に晒すものを殺すならそれは、私にとっては守りだ。でも……一代限りじゃ、ないのは何故だ」

「そうなるように、ナーヴの呪術で方向性を加えたからだ」

 方向性、と口の中で転がしたアルムに、エーテルネーアが手の甲を差し出す。そこには、ナーヴの聖印が刻まれていた。

「ナーヴも、何一つ呪術が使えないわけではない。元来、ナーヴの呪術は経路を組み立てることを主流とした。向けられた見えない殺人エネルギーを拡散する。降り注ぐ銃弾の軌道をそらす。火の周りを早くする。……そうして、呪いを移し替えることに成功した」

「……そんな」

「たとえ死んでもナーヴに置いた根源に呪いだけは戻る様に。その程度の事なら、ナーヴはお手の物だ。命そのものの操作は出来なくとも、方向性は管理できる。ただ……それでも自我がない子どもに受け継がれていくのは、自己を守る術すらないからだと、私は思っている。……本当の所は、未だナーヴでも分からないままだ。解明するよりも利用する事を優先したナーヴには、経緯など、些末な事だからね」

 知らなくていい。そう、教会に居る間に何度も聞かされた言葉だ。ぐっと手のひらを握りしめる。

「……私は、そんな守りは……もう要らない」

「その結果アルムを守るものは無くなっても?」

「ああ、自分の身は、自分で守る。……戦う力は弱くても、私だってミゼリコルドを殴ったんだ。フーガに教わった拳で」

「あはは、アルムそんな事したの。驚いたな」

 笑ったクオンにアルムは大きく頷いて、震える足で立ち上がる。アルムにはまだ自力で立ち上がる力がある。それは、アルムにとっては自信だった。

「どうしたら、終わらせられる? この呪いは、ナーヴに拘束されている。その消し方を私は知らない。それに、それだけでいいのか? 私がなくなっても、まだ生き残りがいるのならば、誰かが引き継ぐかもしれないのだろう。それは困る。私は誰かに押し付けるのは、嫌だ」

「呪術には根源があるんだよ、アルム。ヴィダにとっての大穴のように、ナーヴにとってのあの空中都市であるように」

「……あの、石碑。私はどこかで、見たことがある気がするんだ。……どこ、だっただろう」

「それは、自分で答えを見つけるんだ。……そろそろ、私もお別れだ。ここが終着地だからね」

 そう微笑んだエーテルネーアに、アルムは分かっていたが悲しみを覚えた。すでにエーテルネーアは死んでいる。そしてアルムはまだ、多分生きている。目を覚ませば、もう二度と会う事はないのだろう。

 心臓が握り潰されてしまうんじゃないかと思うほど、痛くなる。涙が、滲む。

「ああ、情けない。私は弱いな。また泣いてしまう」

「いいんだ。地上で泣くことを我慢してたのだから、今くらい泣きなさい。そうして、また顔を上げたら、天子として最後の旅路だ」

「うん。私は私で、これを終わらせる。終わらせて、みせる。エーテルネーア様がここまで繋いでくれた、私の未来のために」

「……強くなったね、アルム」

 そっとエーテルネーアの腕に抱き締められ、ついに耐えきれなくなってアルムは声を上げて泣いた。また目が覚めたら、この呪いが終わるまでは泣けなくなる。そしてこの腕の中には、二度と戻れない。それはやはり、寂しくてつらい。

「アルムの中にある血には、生きるという力が詰まってる。でも本来、それは人間誰しも持っていたものだ。世界は長い間戦争で、生きる事すら忘れてしまったけれどその内側には世界で一番強い力を秘めているんだよ」

「つよい、ちから」

「ナーヴで一番強い影響力を持っていたのは僕やミゼリコルドだった。でも、世界を変える強い意志は、きっとアルムに宿っている。だから、願いを口に出すことを恐れないで、前を向くといい。そうしたら、きっと笑える未来が、くるよ」

「もっと早く、色々知りたかった。そうしたら、エーテルネーア様も、死ななくて済んだかもしれないのに」

「それは違うよ、アルム」

 クオンの手が、アルムの肩に触れた。涙が止まらないまま振り返ったアルムに、クオンは微笑み、エーテルネーアはアルムを離した。ハッと視線を戻すも、エーテルネーアはすでに一歩離れていた。

「アルムが世界を見て、強くならなければここにきても何にも意味はなかった。エーテルネーアが背中を押して、君は天子から終われるんだよ」

「分かってるんだ。でも、きっと私はこれからも何度も、そう思うよ」

「良いんだよ。アルムが覚えてくれている間は、私は存在しているんだ。そうしていつか、円環の先で」

 アルムは涙を袖で拭う。それでもまだすぐに涙が零れそうになった。慌てて深呼吸をして、頬を叩く。ぐっと両手を握りしめて、黒に溶け込んでいくエーテルネーアに笑って見せた。

「……さようなら、エーテルネーア様。ありがとう。……また、いつか、未来で」

「良い旅路を、アルム。たくさん泣いて、たくさん笑って、たくさんの思い出を手に……また、世界のどこかで」

 大きく頷いて、アルムはエーテルネーアに背を向けた。クオンが少し遅れて、アルムに続く。鼻を一度だけすすって、アルムは顔を上げた。

 足元が、光を放ち始める。花弁が舞うように、羽根が舞うように。光が溢れて全てをかき消すような白が世界に満ちた。

 

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