「え、アークに……行く?」
「行けたら、だけどね。……やっぱりナーヴの持つであろう天子の呪い原本が必要なんだ」
フーガは思わず隣に座るコノエの袖を掴んだ。食器を片付けようと立ち上がろうとしたコノエはフーガを一瞥すると苦笑いを向ける。
「大丈夫ッスよ、その時は俺もついてくんで」
「も、もっと悪い! 何それ、僕一人で留守番しろって?!」
「は? 何で居残るつもりなんすか。その時はフーガも行くに決まってるじゃないッスか」
「一人のほうが怖いと思うよ、フーガ。ここはほら、僕達以外誰もいない割に広すぎるから」
うう、とフーガは小さく呻く。渋々コノエの袖を掴んだ手を離すと、その手で頭を撫でられた。子ども扱いはやめてほしいと思いつつ、安心してしまうのもまた事実だった。
死なない呪いを解くための一歩。必要なことだと、分かっていた。それでもフーガはまだ、アークが、地上そのものが怖い。また自分が狂ってしまう予感が肌にまとわり付いて、地下の存在にすがりついてしまう。
「……空を、見たいんじゃなかったのか。俺達と」
「それは……、……見たい……です」
「何に怯えているんだ。お前はかつては孤独に振り回されていたかもしれないが、今でもそのつもりか?」
首を振る。今のフーガには、カバネ達が居てくれる。彼らが温かく守ってくれている。分かっていないわけではないのに、心はまだ臆病なままだった。
ふと、カバネがため息をつく。
「……コノエ、こいつやっぱり、お前を親鳥と勘違いしてるだけじゃないか?」
「ち、ちがっ! そんなことないって! コノエの事、僕好きだって?! カバネとかクオンのそれとは違うからな?!」
「カバネさんもフーガも俺をいじめるのやめて……」
背を向けたまま震えるコノエに、フーガは目を伏せる。上手く伝わらないのはもどかしい。フーガが項垂れていると、くす、とクオンが笑みを零した。
「……カバネ、途中まで凄く良い事を言っていたのに。夜道を歩くのは得意でも風を掴むのは下手だね」
今すぐにというわけではないから、とクオンが釘を差して居たが、コノエが見ていた限り、結局フーガは晴れない表情をしたままだった。勘が良いのだろう。その日が近いことを、感じているのだ。フーガをどう説得すべきか、カバネに相談しておきたいところではあった。
やっと心と身体が回復するかどうかだったあの時は、自ら出たいと言ったのに。アルムのためという名目もあったのだろうが、そうすることでこの地下に戻ってきても良い自分を確認したかったのだろうと、カバネはあとで語っていた。だとすれば、今はアークに行く理由は何も無い。何も無いが……これも全て、フーガを一人にさせないためだ。
つい、ため息が溢れる。明日の朝の下拵えを終えたコノエは、キッチンから外へと向かう。
照明は最低光度。ちらちらと光る灯りは、星の瞬きにも似ている。暗い足元を慣れたブーツで足音を殺しつつ進む。二ヶ月前にはほとんど使っていなかった部屋は、今では家主がいた。直したばかりのドアノブをそっと回して、灯りの消えている部屋を覗き込む。ベッドの上で丸くなっている姿に、ほっと胸を撫で下ろした。
何となく。何となくで、また憂鬱な顔をしていないかと心配でフーガの様子を見に来たのだが、杞憂だったらしい。それでも寝顔だけでも確認しておくかと歩み寄って、ベッドサイドにいつも置いてある椅子に腰掛ける。
(……ずっとここに座って、面倒見てたな。……あの時は、生きるか死ぬか心配してたのに)
今では、笑えるか怒れるか、泣いていないかが心配になる。変わったものだ。しばし黙って傍らに座っていると、ふと。
「……なんか言え、ばか」
「何だ、起きてたんすか」
「足音で起きた。……コノエの足音くらい、僕だって分かる」
それは意外だった。足音は殺したつもりだったのだが。それだけ認識されているというのは、どうにも照れくさい。苦笑を溢していると、膝の上に置いていた手にぬくもりが触れた。
「……コノエ」
「はい?」
「い……、一緒に、寝よ……って、言った、ら、こまる……?」
「いーッスよ。……フーガの頼みなら」
「……じゃあ寝ろ」
何で命令形なんだか。どうにも不安だったに違いない。狭いベッドに引っ張りこまれて、嬉しそうに腕の中に収まられてしまったら、和んでしまったけれども。
「ほんと、子どもッスね、こういうところ」
「うるさいな。いいだろ、落ち着くんだし。……むしろ、コノエは嬉しくないわけ」
「嬉しいッスよ。元気になってくれて」
「いやそーいうんじゃなくて」
不服を訴えようとするフーガの額にキスをする。当人は、そのまま固まってしまったが。やっぱり、とコノエは苦笑する。
「駄目ッスね。慣れるまではこの先は無しッスよー」
「うう、うぅぅぅ……コノエの馬鹿……」
「……大丈夫ッス。一緒にいるんで。……だから、怖がらなくていいんすよ」
フーガの背中を軽く叩く。フーガは身を寄せて黙って頷いた。コノエの伝えたいことは、分かってくれているらしい。
「どこかに置いてったりしないッス。……一緒に生きて死ぬために、少しだけ勇気を出してくれると、嬉しいッスね」
「……分かって、るよ。分かって……る、から、さ」
物言いたげに視線を上げたフーガに、コノエは笑顔を返す。
「じゃー明日も早いんでさっさと寝るッスよー。明日はきっかり起こしますからねー」
「ちょっ、コノエッ! なに! いーじゃんキスくらいしてくれたって!」
「子どもにはまだ早いッスね」
暴れるフーガを抱き締めて、苦笑を零す。そんな事で確認しなくたって、気持ちはちゃんと分かっているのに、と思いつつ。
不貞腐れていた。分かりやすく不貞腐れているフーガを横目に、クオンがそっとコノエに耳打ちする。
「怒らせちゃったんだね」
「はぁ……、前より扱いが難しくなって大変なんすよ」
「ふふ。良いんじゃない。変化が無いよりは。僕は古い土が崩れて新しい表層を覗かせるのは割と楽しいよ」
また難解なことをいう……。畑の水やりが最近のクオンの仕事だ。見ていて不安になることはないが、申し訳無さはあった。間もなく収穫の時期がくる。クオンがまた別の楽しさを感じてくれると良いのだが。
「コノエ、少し手を貸してくれるか」
「あ、カバネさん。どっか配線切れてます?」
珍しくカバネが畑の近くに足を踏み入れていた。余程急ぐ案件に違いない。コノエは素早くカバネに歩み寄る。カバネは、いつもの無表情にほんの少し焦りをにじませていた。
「無線が入ってる」
「え……でも、周波数なんて」
「それと、もう一つ」
「もう一つ?」
カバネはちらりとクオンの方を一度だけを見やり、声を潜めた。
「……天子が、降りてきた」
息を呑む。それはある意味では、一つの命の終わりを示唆した言葉でもあった。
畑のことはクオンとフーガに任せ、コノエはカバネと共に通信室へと足早に向かう。長らく使うことはなかったものだ。自動応答でギリギリ稼働する対天子レーダーだけは、それでも忘れずに手入れしてきた。アルムを以前感知したのもこのレーダーだ。原理についてはコノエも半ば忘れかけているが。
「……ほんとッスね。天子……これ、どこだ? 割と近くないッスか」
「この間、ついでに地表の地図を手に入れて来るべきだったな。惜しい事をした」
「いや、通貨もわかんないのに無茶ッスよ」
「誰も買うとは言っていない」
「王様! カバネ様国王の自覚捨てるの良くないッスよ!」
「冗談だ。……無線の発信位置も同じに見えるが、どう取るコノエ」
ひどい冗談を言うようになった。頭を抱えたくなるのを我慢して、コノエはレーダーを見やる。モニター劣化が少ないのは幸いだった。
可能性は二つ。一つは天子……アルムからの何かしらの信号。もう一つは、アルムではない天子による呪いの発動の可能性。あるいはすでに発動して、誰かが無差別に救援を求めた無線か。何れにせよ、無視は悪手では。
「コノエ! 畑仕事終わった! 次何すんだよ! って、何ここ。すごい通信設備」
「げ、フーガ?! ちょ、クオンさん!」
「ごめんね、僕も手持ち無沙汰で困っちゃって」
ふわふわとした笑顔に全てを許しそうになるが、慌てて首を振った。ここは地下の中でも機密地区だ。流石にフーガといえど自由に立ち入られては困る。
「丁度いい、フーガ。お前ここがどこか分かるか」
「カバネ様っ?!」
迷いもせず声を掛けたカバネは、フーガを呼びつけるとモニターの前に立たせた。隠すつもりは毛頭ないらしい。コノエの頭が痛い。
「フーガもここで暮らしているわけだし、知っておいてもらったほうが良いんじゃない」
「それはそうかもしれないッスけどぉ……、一兵士としては、一般人に見せるのは抵抗があるもんッスよ……」
肩を落とすコノエを励ますように、クオンの手が背中を撫でる。くすぐったいような力が抜けるような。静かになったフーガに気付き、視線を向ける。
「……ここ……」
「分かるのか?」
「方角が間違ってなければ……多分、リベリオンの……本部アジトがあるところだ」
ぞわりと背筋が冷える。フーガの表情も固い。無理もない。まだ心の折り合いがついていない場所だろうから。どうすべきかコノエが躊躇していると、カバネが顔を上げた。
「分かった。……コノエ、フーガを連れて出ていろ」
「な、なんで」
「いいから。コノエ、いいな?」
「あ、は、はい! フーガ、ほらこっち」
「僕は、邪魔ってこと?」
手を取ろうとして、すかさず避けられる。酷く傷付いた顔をされたが、コノエもフーガに対するカバネの気遣いを無駄にはしたくなかった。穏便に宥めたい気持ちを飲み込んで、毅然と首を振る。
「そーいう駄々っ子は今は駄目ッス。いいから、後でちゃんとカバネさんが説明を」
「コノエ、待って」
クオンが手で制し、割って入る。思わず息を呑んだコノエの手を取り、そのままフーガの手を握らせた。二人して、顔を見合わせる。
「え、は?」
「これで大丈夫。……コノエ、信じてあげて。その為に、君がいるんだから」
「クオンさん……」
「はい。カバネ、これで大丈夫。……繋ごう」
「……時々、強引な手に出るようになったな」
ふっと微笑んだカバネに、クオンもにこりと笑みを返す。
「そうかな。僕は昔から、こういう気持ちは持っていたよ」
不安定な周波数を微調整して音を拾う。ノイズ混じりの音に、声が入り始めた。
『……っ、え……! か……!』
「え、この声……」
『……! カバネ! 聞こえていたら返事をしてくれ! 頼む!』
「アルム……お前だったか」
カバネの声に安堵が滲んだ。コノエもほっと胸を撫で下ろす。もし聞こえてきた声が救いを求める知らぬ声だった場合には、担いででもフーガを連れ出そうとしていた。最悪は、免れたと思いたい。
通信機のマイクを入れ、カバネが口を開く。
「アルム。お前何故地上にいる」
『ああ、カバネ! 良かった! 返事をしてくれて本当に良かった!』
「質問に答えろ。何故地上にいる? お前はアークにいた筈だろう」
『それについては色々理由があって……、ま、待ってくれ。今代わる』
「代わるって……」
『あー、ハイハイ。すみません、ここからはオレが』
コノエの知らない声が聞こえた瞬間、握っていたフーガの手が震えた。眉を顰めてフーガを見やると、半歩分体を寄せる。リベリオン……だとしたら、知り合いか。
『どうも、いつぞやはリーベルとフーガがお世話になったそうで。リベリオンの代理代表、クウラだ。単刀直入で悪いがアルムの坊っちゃんの話を聞いて、あんたたちに頼みがある。力を貸してくれ』
「クウラさん……」
苦しそうにその名を呼んだフーガの手を、コノエは黙って握り締めた。無理を悟ったら、問答無用で連れ出す。守るべき優先順位は、コノエの中に存在するのだから。
カバネは一度沈黙する。クオンは傍らに立ち、その肩に手を置いた。
「……カバネ」
「分かっている。……話は聞く。手を貸せるかどうかは、それからだ」
以前ユニティオーダーのこじ開けた地上への道を埋めずに良かったと思わずには居られなかった。半日位上掛かる細道よりは急勾配で足元も悪いが、数時間もあれば地上には辿り着く。いつ崩れるか分からない不安はあり、近いうちに補強は必要そうだが。
「外なんて、本当何百年ぶりか……はー、草の匂いが凄いッスね」
「……良かったのか、置いてきて」
フードを払い除けながら、カバネがコノエに問い掛ける。コノエは苦笑いを浮かべ、ついで小さくため息をついた。
「何ともッスね。でも……顔色悪くて飯も少し残してたんで、具合は良くないんすよ。……元々、完治してないッスから。元気に笑えてるだけマシで良くうつらうつらして、なんとか少しずつ体力回復してるんすよ、フーガは」
「その状態で連れてくるのは、反対か?」
「……いえ。それは必要なことでしょう。大きな目的を果たすために時には切り捨てなきゃいけないものがあることはわかってますよ、俺だって」
「顔に嫌だって書いてあるな」
「それはまあ……、一個人としては、不安にさせるのは嫌ッスよ」
「世界なんて簡単には変えられない。俺達がいくら死なずに戦い続けることが可能だとしても。……なら、今手の中に捕まえた脆い幸せくらいは、優先しろ」
素直に認めたコノエの背を、カバネの言葉が押す。つい、コノエは苦笑いを浮かべた。
それは、言い換えればフーガのために世界を無視することも気にするなと言うことだ。もっとも、コノエはそれを受け入れるつもりはない。
「リーベルを見捨てたら、またフーガは自分を責める。罪滅ぼしを願う子ッス……贖罪に付き添うのも、俺の仕事……いえ、願いッスよ」
「……真面目な奴だな、お前もあれも」
「手間をかけます」
顔を上げると、濁った空の向こうにアークが見える。千年もかけて、世界は復興より破滅を歩んでいるというのは、コノエの心を重くした。
リベリオンのアジトから少し離れた廃墟。待ち合わせ場所に指定したのはカバネだった。原型をとどめていた建物を見つけ、無線で一度連絡は入れた。間もなく到着する頃だろう。
人の気配も絶え、家屋そのものもぎりぎり残っている程度の街。吹き付ける砂で町中の大半の扉は重く閉ざされていた。建物の内部は砂を巻き込んだ風は避けられたが、ごうごうと唸るような音だけは響いている。完全に死んだ街だった。
「……酷いもんッスね」
「さてな、ここが酷いのかここはまだマシなのか、……文明の大半は人々の死を持って破壊された。俺達の保有する記録すら、アークからしたらゴミのようなものだろう」
「……それでも、地上よりは、ましッスよ……」
「ああそうだ。……突き付けられる。選択の間違いを。……俺達は、地下で嘆いてる場合ではなかった」
「カバネ様……」
かつての国を思い出してか、カバネの表情が翳る。普段はあまり感情を出さないカバネだ。よほど、堪えているのだろう。主に寄り添う言葉を、コノエは見出だせなかった。
「……はぁ、すごい。町が砂漠に埋もれてしまいそうだ」
「だからアルムは待っていろとあれほど」
「駄目だ。クヴァルは絶対に喧嘩になる。それに私がいないと、顔も分からないだろう。クウラが困る」
「……相変わらずよく喋る」
ふっとカバネが表情を和らげる。過去を傷むのは、また後だ。コノエも気持ちを切り替えて、服に残っていた砂を払い落とした。
高い位置についたすでに枠だけになった窓から差し込む光量で、建物内部は薄暗い。その暗さをかき消すように、軽い足取りが近付いた。
「カバネ、久しぶり。コノエも一緒だったんだな。一月……半、ぶりか?」
「そうだな。……ナーヴの象徴が地上の民の服とは、世も末だ」
「アルムに無礼なことを言うな」
「ほらクヴァルはすぐそうなる。そもそも、カバネの言う事は間違ってない。世界はまさに、世紀末……終わりへ走っている最中だ」
はぁ、とため息をついたアルムは、パーカーに身を包んでいた。足元は砂地に適したブーツ。天子のぞろりとした衣服は欠片も残っていない、その辺りを歩く少年と大差ない格好をしていた。これでは誰も、ナーヴ教会の信仰対象とは思わない。
アルムと、リベリオンのロゴを刻んだ服をまとう眼鏡の男と、こちらを睨んでくる背の高い男。それぞれコノエの知らない人物だった。
「……あー、話に花を咲かせてるとこ悪いんだが、こっちの話をさせてもらうぞ坊っちゃん」
「す、すまない。つい、楽しくなってしまって」
「落ち込まれるよりは楽しい方がオレには助かるよ。……あー、で、だ。改めて。どうも、オレはリベリオンの代理代表のクウラ。こっちはアルムの坊っちゃんのお付きの元ユニティオーダーのクヴァル。今は坊っちゃんと一緒にリベリオンに力を貸してもらってる」
「……カバネだ。こっちはコノエ。……用件は」
前置きなしに切り込んだカバネに、コノエは冷や冷やする。死なないという強みこそあれど、囲まれでもしたら厄介だった。コノエとてアルムのことは疑っては居ないが、何分世界には疎い。純粋な瞳を悪意で操るのは、難しくはないのだ。それを危惧しているからこそ、カバネも場所をここに指定したはずだった。
アルムの明るさに緩みそうな気を引き締め、コノエは緊張感を切らず、カバネの後ろに控える。
「リーベルをユニティオーダーの医療施設に預けておいたんだが、難しくなったので地上へ降ろすことになった。が、状況は良くない。それで、あんた達のところで治療を頼みたい。空には劣るだろうが、ここよりはマシだと坊っちゃんから聞いてる」
「何故今になって? 上手いこと秘匿していた筈だろう。それこそ、アルムとクヴァルを使って」
「そうだ。そうしてもらってた。……けど、状況が変わった。アークが……というか、ユニティオーダーが二分する。逃げ出した筈のお偉いさんがシンパを焚き付けて間もなくクーデターを起こす」
「……抑えきれないのか、お前の権利でもってしても」
カバネの視線がアルムに向く。アルムは悲しそうに微笑んで、頷いた。
「私は……教会の仕組みそのものは分かっていない。それに所詮私は象徴だ。天子というモノがあればいい。信仰心の深さというものは……難しいな」
「……信仰は、自己に浸透すればするほど、歪むんすよ。それは自分そのものを否定することになるから。否定をすれば、自分を見失ってしまうものだから」
ふと、フーガを思い出してついコノエは口を挟んでしまった。壊れて狂って、自分さえ殺したがったあの目は、もう自分の前ではさせたくない。クヴァルも渋い顔をしていた。思うことは、あるのだろう。
「リーベルなら世界を変えられるとお前は信じているのか、アルム」
「それは……どう、だろう。リーベルは私を連れ出して外を見せてくれた、初めての友達だった。その夢も理想も、私には眩しいものだったし、その世界を見てみたいと思う」
「まあうちのリーダー、ロマンチスト過ぎるのはあるがな……」
「人一人では、限度がある。そのために集団を形成する。それこそ、お前たちのように。……だが、忘れるな。一人に責任や期待を依存させれば、絶望は容易い。その歪みは、今のナーヴ教会を見れば分かるだろう」
「……リーベルに、がんばらせるな、ということか?」
首を傾げたアルムに、カバネは首を振る。困ったようにアルムは眉根を寄せた。
「お前もだ、アルム。……お前が誰かの希望となりたいのは、構わない。だが、それは同時に己を縛ることだ。他人の希望となればなるだけ、お前は個人としてのアルムを失う」
アルムが表情を曇らせる。何を言っているのか、分からないわけではないだろう。カバネが言っているのは、かつての己の後悔だ。国を滅ぼすことになったかつてのカバネの後悔が、コノエの胸に痛い。
「……それを踏まえてもう一度聞く。それでもお前は、その道を歩くんだな?」
「何だか……難しいな。私には少し難し過ぎるぞ、カバネ」
「大事なことだからな」
「うーん。……正直よく、分からない。分からないが……いつか、困るかもしれないが……、とりあえず、今の私はリーベルを助けたい。今はまだ、死んで欲しくないと思う。救える命なら、まだこの世界に居るべきだと思う」
うん、と自分に納得したようにアルムが微笑む。クウラとクヴァルは心配そうに顔を見合わせていたが、コノエにはアルムの気持ちは、よく分かる。それはフーガの命をコノエが拾い上げたのと、同じだ。
沈黙するカバネに、コノエは手のひらを握り締めた。
「……受け入れて、やりましょーよ、カバネさん」
「コノエ……」
「俺達だって、アークに用はあるんすから。……拾った命が間違いを犯すなら、そのときは拾った奴が責任を取ればいい。叱って宥めて、必要なら殺してでも。……俺は、その責任、負いますよ」
一瞥寄越したカバネに、コノエは笑みを返した。誰の事を言っているのか、分かっているはずだった。同じなのだ。命の価値は、きっと世界においてはどれも軽い。
立ち止まることは、終わりにしなくては。
「……地面の下で腐ることに慣れすぎたな」
「今はクオンさん的に言えば風が吹いてるんで、変わるチャンスってやつッスよ」
「……分かった。ある程度回復するまでは、預かろう」
「あ……!」
ぱあ、と表情を明るくして、アルムはカバネの手を取った。
「ありがとう、本当にありがとうカバネ!」
「礼なら、コノエに言っておけ。……こいつがフーガを拾っていなければ、今頃断固反対と言っていたぞ、多分な」
「フーガ……? や、やっぱり、あの時のフーガだったのか? そういえば何でリベリオンにいなかったんだ?」
アルムがクウラを振り返る。クウラは表情を引き攣らせ、わざとらしく眼鏡を直した。どうやら、アルムの耳には事の経緯は伝わっていないらしい。きっと、わざと蓋をされた話なのだろう。
「……こっちはこっちの事情であいつを拾った。そちらの事情はそちらで聞け。……話は纏まったな。ピックアップの日取りが決まれば無線で連絡を。可能であれば、ユニティオーダーからある程度の医療資材は降ろせ。今更追いつく技術じゃないが……分析程度は、出来るだろう」
「……分かった」
硬い声音で、クウラが頷く。カバネは視線でコノエを促した。これ以上の長居は無用だ。慌てて頷くと、カバネに続く。ぽかんとしたまま動かないアルムに、コノエはこそりと耳打ちをした。
「元気にしてるッス。……その内、会いに行くよう説得しときますんで」
「あ……わ、私も、いく。絶対行くぞ」
笑みを返し、クヴァルの鋭い睨みを見なかった事にしてコノエはクウラの脇をすり抜ける。刹那。
「……ありがとう」
「リーベルの命がちゃんと助かってから、もっかい聞かせてくださいよ、それ」
別の意味だと知りつつも、コノエにはそう返す他なかった。彼らのもとへ、フーガは戻れない。戻すつもりも、今はない。
外で先に待っていたカバネに追いつくと、カバネは薄く笑みを浮かべていた。
「な、なんすか」
「いや。……安心しろ、送り出すつもりはない。そうでないと、コノエが死ぬために生きる意味が、なくなるからな」
「カバネさん、そういうの、やめてくださいよ……恥ずかしいんで……」
「さてな。……まぁ、戻ってこの話をして……それから、こちらも準備だ。……ああ、本当に。風が吹く世界は、忙しないな」
ぼやいたカバネに、コノエは笑みを零した。
千年動くことを諦めていた自分たちは、加速度的に諦めていた世界へと飛び込もうとしていた。