足が重い。体全体が疲労困憊で歩くのがやっとだった。視界も霞む。コノエの忠告通り、体力が戻りきっていなかったことをフーガは痛感する。先を歩くカバネの土色のコートのベルトが、風に煽られていた。
「っぷ」
「……足元にも注意を払え。……全く」
足元の僅かな窪みに躓いて、転びかけたフーガは、カバネの腕に助けられた。足手まといにならないようにと言われていたのに。悔しさが滲む。
「ごめ……なさい」
「仕方がないな。……ほら」
カバネが背中を向けて膝を折る。それはつまり、背負われろと言うことだ。フーガのプライドは少々傷付いたが、ただでさえフーガに合わせて速度を落として帰路についているカバネに文句は言えない。
渋々……と、半分は恥ずかしさを抱えつつ、好意に甘えることにした。軽々立ち上がられ、重さなど関係なさそうに歩き出すカバネの腕力に、フーガは少し安堵した。
「……まあ、よく頑張ったんじゃないか。泣きもせず、怪我もせず」
「うん……割と耐えた。約束……したから」
「……そうだな。本当に、良かったのか。戻る事も、出来ただろうに」
「いい。僕はリーベルさんのそばにいたら、また惨めな自分を感じる。もっと僕が、僕を認められたら……会いに行く」
「言い方が悪かった。……それでも戻るのか、バケモノの巣に」
カバネの言葉に、フーガは小さく笑う。バケモノ。ある意味では、そうかもしれない。
落とされないように首に回した腕に、フーガは少しだけ力を込める。
「バケモノなんかじゃないの、僕は知ってる」
「生粋の馬鹿だな」
「じゃあ、人の命を助けてくれる人ばっかりの、優しいバケモノだ」
カバネはため息をついて、それ以上は何も言わなかった。少し緊張していたフーガは、沈黙に安堵する。少なくとも、こんな荒野の真ん中で置いていかれずには済みそうだった。
不死。ヴィダにキズを負わされても引き潰されても再生するのを前に、流石にフーガも戦慄した。その上で自分の行いが愚行であったことを認識した。死んでも死なない彼らは、それでも人の心を持っていたからこそ、フーガの命を助けてくれたのだ。
だから、フーガに迷いはなかった。カバネからはアークに着く前にアルムの呪いのことも聞いていたし、リーベルの状況が良くないのも聞かされた。恐らくリーベルは助からないと。それでもコノエが諦めずに居てくれたように、フーガも諦めたくはなかったのだ。
だから、その前に姿を表すことを躊躇しなかった。
――死にかけてる人を助けるのに、言い訳なんて要らないんだ。
それが一度は生きることを諦めようとしたフーガに与えてくれたコノエやクオン……それからカバネの、教えてくれたことだったから。手当の仕方などフーガには知識の外でアルムを遠ざけるしか出来ず、カバネが何も言わず処置を施してくれたお陰で、その後はユニティオーダーの技術に任せる羽目にはなったが。それでも、命はきっと繋げている。
リーベルにはまだ生きてやるべきことがある。表舞台に立つことはなくても、アルムにはきっと、必要だろうから。フーガにはまだ、未来が見つかっていないけれど。
「……起きろ、もうすぐ着く。背負われていたら、またコノエが血相変えてベッドに運び込むぞ」
「へ、も、もう……? はやい……」
「お前が寝こけていただけだ。……今ならまだ、戻れるぞ」
カバネの背からおろしてもらいつつ、フーガは首を振った。
「約束したから。必ず帰ってくるって。……僕はまだ、恩返し、してないし」
「恩返しなど求めていない」
「そ、そっちはなくても、僕がそうしたいんだよ!」
「なら、約束を言い訳に使ってやるな。……コノエが責任を感じる」
「あ……」
言われてみれば、その通りだった。さっさと歩きだしてしまったカバネを慌てて追う。足元が悪い細い道を抜けると、やっぱり薄暗い地下空洞に辿り着く。圧迫感があるほどの空間は、それを誤魔化すようにいくつもの淡い光のライトで照らされていた。
「……カバネ」
不意に聞こえた声に、ハッと我に返る。正面にいつの間にか立っていたのは、クオンだった。見送られたときと同じ穏やかな笑みを浮かべたクオンが一歩歩み寄る。
「役割は、果たした。……肝心なものは、手が届いていないが」
「ううん。無事に帰ってきてくれただけで、今はいいよ」
「……コノエは?」
「そろそろ食事の支度をする時間じゃないかな」
「だそうだ。行ってこいフーガ」
不意に話題を振られ、フーガはぽかんとする。カバネの無感動な瞳がフーガを促していた。ぽんとクオンが手を合わせる。
「ああ、そうだね。行っておいで。待ってると思うよ」
「え、べ、別に僕は」
「顔が合わせづらい? じゃあ僕も一緒に行こうか」
「子ども扱いするなよ! い、行けるし」
黙ってカバネに背中を押される。良いように丸め込まれた気もしたが、顔を出さない選択肢はない。緊張で動きの鈍い足を、踏み出した。
見覚えのある道を頼りに、時折道を戻ってやっとの思いで辿り着く。自分でも理解しきれない緊張と共にキッチンを覗き込むも……中は空っぽだった。まだ他の仕事が終わっていないのかもしれない。
「……どうしよ」
他に行くあてもなく、ひとまず椅子に座る。半分コノエの私室を兼ねているというキッチンの一角には、本の積まれたテーブルが常にある。試しにフーガは指でそっと本の表紙を摘み上げたが、中に踊る字は見慣れないものばかりで何も分からなかった。
それどころか疲労に負けて、また瞼が重くなる。カバネの言うように、こんな所で寝てしまったら、またコノエが心配して……。
「え……、フーガくん? えっ、ちょっ、大丈夫ッスか?!」
「……あー……」
遅かった。体を起こすより先に抱き抱えられてしまった。
「へ、平気だって! 疲れて眠くなっただけ……!」
「だから言ったじゃないッスか! まだ無理だって! あーもうほんとに! もっと反対すれば良かった!」
「あーもううるさいな! 僕ちゃんと、帰ってきただろ!」
「そうじゃなきゃ困るッス! 心配させて、ほんとに!」
フーガの主張など聞き入れず、コノエはさっさとフーガを運んでしまう。暴れたら落ちそうで諦めたフーガに、ふっとコノエが笑った。
「良かったんすかこんな、地下に戻ってきて」
「……うん。僕はまだ、ここに居たい」
「なら、良いッス。……おかえりなさい、フーガくん」
おかえり。その言葉が、形式的な場所への帰還を示したのは、久しぶりだった。ぎゅっと胸が詰まる。喉の奥が熱を持って、思わずフーガは唇を噛み締めた。
「……フーガくん?」
「ううん。……た、だいま」
「はい。じゃーまた良く寝て、しっかり飯食って、それから仕事手伝って貰うッスよ」
頷く。フーガが硝煙と血の匂いに吐きそうになりながら耐えて戻ってきた場所は、変わらず安心で満ちていた。
嬉しさと安心で、ついはしゃいでしまった自分をコノエは自嘲する。そんなにフーガに戻ってきて欲しかった自分がいたとは意外だった。手の掛かる客人ではあったが、居ると居ないでは空気が違う。停滞していたものをかき混ぜて空気を変えてしまうような。クオンが言っていたように、フーガは風なのだろう。留まることは出来ず、また停滞することもさせない。
今は疲労から丸くなって静かに眠っているが、起きればまたコノエの後ろをついて仕事を手伝ってくれるつもりなのだろう。有り難いと同時に、少し怖い。居なくなる日については、考えたくなかった。
「……クオンさん、俺ってクオンさん的に言うと、何ですかね」
「そうだなぁ……コノエは、大地……かな。全てを受け止めて、全てを支えている」
「そ、そうなん……すか。……そっか」
「どうしたの、突然」
「あー、いえ。……フーガくんが風っていうの、分かった気がしたんすよ。俺も。そしたら俺はなんだろうなーって。単純な興味ッス」
なるほどね、と笑ってクオンはカップに口をつける。そう。単純な興味だった。クオンの言い回しは独特すぎて、とうの昔に理解を諦めていた。だが今は知りたいと思ったのだ。変化の象徴が、ここに帰ってきた意味は、そこあるのだろう。
「フーガは寝てるのかな?」
「良く寝てます。……元々、ここに初めて来たときから、傷だらけだったんすよね。……リーベルとやり合った時じゃない、もう少し古い骨折、いくつもあるみたいッス。たまに歩き方とか変なんすよ。本人は自覚してないみたいッスけど」
「……休ませてあげたいね、しばらくは」
「その間に……話さないとッスね……」
つい、トーンダウンする。不死の呪いなど、受け入れてもらえるわけもない。どんな顔をしてフーガが出ていってしまうのか、考えるだけで気が滅入る。コノエにとって、フーガは手の掛かる弟のようなものになりつつあった。
「不死の話なら、もうしてある」
「カバネ」
「俺にも飲み物をもらっていいか、コノエ」
「もちろんッス! って、え、は、話しちゃったんすか」
音もなく部屋に入ってきたカバネは、特に迷った様子もなくクオンの隣に腰掛けた。ソファが軋む。その衝撃も相まって、コノエはポットとカップを持ったまま立ち尽くしてしまった。
「……コノエ、カバネがお茶待ってるよ」
「は! いやでも、ええ、うわ、あぁ……」
「何だその顔は」
カバネが不愉快そうに片眉を跳ね上げる。コノエからしたら、そっくりそのままその台詞をカバネに返したい。震えた指先でカップを置いて、決して美味しくはないお茶を注ぐ。
黙礼したカバネがカップに口をつけるのを見届けると、迂闊にも涙が出そうになったコノエは天井を仰いだ。
「ふふ。分かるなぁ、コノエの感動は」
「クオンさん感激が薄くないッスか?! 五百年くらい見てない光景ッスよこれ! カバネさんがクオンさんの隣でお茶を! 泣くなという方が無理ッス……!」
「うるさい。俺のことはどうでもいい。それよりアイツに話はしてあるから、お前が……」
「どうでも良くないッス! ああもう俺感激のキャパオーバーッス……すんません、少し休養ください……」
「休みなよ、コノエ。言ったじゃないか。これからはまた、みんなで頑張ろうって」
「はい、そうッスね! とりあえず夕飯まで俺感動に震えなくて済むように精神統一してくるんで!」
「フーガも起きたら、四人で食事が出来るね。楽しみだ」
クオンの追撃に、コノエは感動のあまり震えながら部屋を後にした。やっと会話をする気持ちになれた二人を、コノエが邪魔するわけにはいかなかった。
五百年。クオンとカバネは、突然仲違いを始めたわけではなかった。カバネが徐々にクオンと距離を置くようになり、それを感じ取ったクオンが黙って距離を保とうとした。お互いの為に、距離を。間に入ること自体は苦痛ではなかったが、目すら合わせない二人を見ているのは痛々しくて、たまらなかったのだ。
それが、やっと終わった。いつかまたそんな日が来るかもしれないが、一旦は……悲しい冷戦は終わったのだ。安堵が脱力となってコノエに襲い掛かっていた。
「……コノエ、具合悪い?」
「違うッス……感激疲れッス……」
「何それ、そんなに感激することある?」
「あるッスよ! ……ってフーガくん、起きたんすか」
ごく自然に会話していたが、ここはコノエの私室も半分兼ねたキッチンだった。フーガは苦笑いを浮かべて軽く会釈をすると部屋に一歩踏み込む。コノエもテーブルに突っ伏していた体を起こした。
「あ、喉乾きました?」
「うん……ちょっ、と」
「じゃあここに座って、お茶淹れてあげるッスよ」
「ありがと」
小声でお礼を述べて、フーガはコノエの対面に座る。肩を縮めているのは、また少し緊張しているらしい。感情の振り幅は大きいが、素直な良い子だとつくづく思う。
「今度お茶の淹れ方教えて、コノエ」
「良いッスよー。そしたら俺にもたまにはやってくれると嬉しいッスね」
「当たり前だろ。……そ、その為に、覚えるんだし……」
ぼそぼそと付け加えた言葉に、コノエはつい嬉しくなった。誰かのために何かをすることは千年続いたが、誰かが自分のために、なんて期待したくても、できなかったのだから。細やかな当たり前の還元が、今はこんなに眩しくて儚い。
お茶を出しつつ、ふと、カバネの言葉を思い出した。
「あー……あの、フーガくん?」
「何?」
「……カバネさんから……えーと、俺達が、死ねないって……話」
「知ってる。千年……? 生きてるって、言ってた」
あっさりと認められ、コノエは言葉に詰まる。ずっと悩んでいた話を、カバネは世間話のような軽さで伝え、フーガはたまたま耳にしたゴシップ程度の興味かとコノエは一人で寂しさを覚える。悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しかったのだろうか。
もやもやとした気持ちが胸を重くして、テーブルに視線を落とした。
「……分からない。そんなの。だって僕はまだ、百年も生きてない。千年なんて、そんな感覚……全然ピンとこない」
「フーガくん……そー、ッスね。……俺も、そう思いますよ」
「それに僕は、あんまり頭を使うの得意じゃないしさ。……僕が分かるの、ここは静かで平和で、優しい人しかいないってことだけだし」
「……そっすか」
「そーだよ。……優しくない普通の人より、優しいコノエ達のほうが、僕は好きだよ」
折角落ち着いたはずの心が、また震えてしまいそうになる。本人に労るつもりなどなく、本心を言っているだけなのだろう。自分は他人と違い過ぎると人としての理解を諦めていたコノエにとっては、苦しいほどに温かい言葉を久々に聞いた。
大きく、息を吐き出す。
「……本当、良い子ッスねフーガくん」
「別に……だって、他に判断するものないし。……分かんない、から、聞くけど」
「はぁ」
「……僕は、本当にここにいて、いいの。地下からずっと出なかったのは、誰も来てほしくないからだろ。この生活、こわ、壊すつもり、ないけど。でも、馬鹿みたいに短い命しか持ってないクソガキなんて、鬱陶し、かっ……たり、邪魔っ……」
「フーガくん」
びく、と肩を竦ませて目を伏せたフーガに、コノエは静かに首を振った。
「自分を傷付ける言葉はもう、吐かなくていい」
「……でも」
「何て言ったら良いのか、分からないッスけど。……ここはずっと何も変化がなくて、多分それはアルムくんたちが来てからも彼らが出ていった時点でまた静寂に戻ったと思うんす。でも、フーガくんが居てくれてからは……何ていうか、カバネさんもクオンさんも、俺も……少しずつ、変わってきてるッス。それを邪魔なんて言うわけないッス」
「コノエ……」
「……嫌じゃなきゃここにいて、欲しいッスね、俺は。……ずっとじゃなくて、構わないんで」
「……うん」
頷いたフーガは、顔を伏せる。鼻をすすった様子に、コノエは苦笑を溢した。繊細過ぎる所は長所であり、最大の弱点だ。
「あと……せ……、千年……生きて、るんだろ」
「え? あー、まあ、一応?」
「その、……コノエ、さん……のほう、がいい……です、よ、ね?」
恐る恐る視線を向けたフーガに目を瞬く。コノエさん、に、敬語。何を言いだしたのか数秒コノエには分からなかった。
「……そう呼びたいッスか?」
「わ、分かんない。失礼なのかなっ、て」
「いやフーガくんは、最初が一番失礼しまくってたッスよ」
「それはっ……そ……、コノエ意地悪ばっかり言う……」
フーガはしょんぼりと項垂れた。コノエも少し意地悪を言った自覚はある。苦笑を溢して、首を振った。
「いいッスよ、フーガくんが呼びやすいように、話しやすいようにで。変に気を使われてしまう方が、俺は寂しいッスね」
「……分かった」
緊張の面持ちで頷いたフーガを見ると、コノエがつい和んでいるのは本人には秘密だ。
夕食を作る時間が迫る。四人分の食事を作ると考えると、胸が熱くなった。
四人。それでこの居住区の人員の全員だ。ここの成り立ちも彼らの生きてきた時間も、フーガには理解できる範疇を超えている。それでも、カバネ達はフーガからしてみれば、普通だった。会話をして、笑って。傷付いたり悲しんだりもする。何よりフーガにとっては優しい人達しか、ここにはいない。それだけで十分だった。
コノエは四人で座った食卓を見て泣きそうな顔をしていた。曰く、五百年ほどそれぞれ一人ずつでしか食事を取ってこなかったから、らしい。たった数週間でも寂しさで発狂したフーガにとっては、強靭すぎる精神だ。何も変わらなかったと彼らは言うが、変わらずにいられたというのも奇跡だと、フーガは思っていた。
「フーガにとって、コノエはお兄さんみたいな感じなのかな」
「んー……どう、なんだろ。……そうなのか?」
隣に座るコノエを窺う。コノエはパンを千切った手を止め、眉をひそめた。
「お、俺に聞かれても困るんすけど……?」
「コノエはどう思ってるのかと」
「ええー……そうッスね……、手の掛かる……近所のクソガキ……?」
クオンが噴き出し、カバネは無言で目を逸らした。フーガはスプーンを握り締めた手を、震わせる。
「コノエのバカ!」
「率直に返したら怒るのおかしくないッスか?!」
「今のはコノエが悪いだろう。もう少しオブラートに包んで言ってやれ。ガキなんだから」
「カバネ何で追討ちしてるの? 子どもだと思うならもっと優しくしてあげないと」
「いやカバネさんどころかクオンさんも結構追撃してますよ……? フーガくん泣いちゃうじゃないッスか」
「泣くかバカ!」
言い返したものの、フーガの心のうちは意外にも安堵が満ちていた。
食器を下げて、食後のお茶をフーガが淹れる。コノエが淹れるつもりだったのだが、やると言って食い下がられてはかなわない。教えた分量は厳守したお陰か、以前のクオンのような悲惨な薄さは免れた。ついコノエは安堵に胸を撫で下ろす。
それぞれの前にカップを置き、着席したフーガは満足そうに笑っていた。そういえば、こんな風に笑う子だったか。
「嬉しいなぁ。久しぶりに人と顔を合わせて、話をしながら食事をして。……夢を見てるみたいだった」
幸せそうに笑うクオンの隣では、カバネが眉間にしわを寄せる。完全に自己嫌悪の顔だ。コノエの背筋が寒くなる。
「え、それ、僕が来たせい……? コノエが付きっきりになってたから……?」
コノエがフォローに入るより早く、フーガが口を開く。てんで見当違いな発言だった。だが、フーガの顔は翳っている。本気で不安を覚えていた。この子は発言や振る舞いからは想定できないほど、繊細なのだと痛感する。ぎゅっと胸が苦しくなった。
「ううん、違うよフーガ。僕達はね、長いこと顔を合わせることすらしなかったんだよ。コノエが世話を焼いてくれなければ、言葉すら忘れていたかも」
「そう、なんだ」
「そのうちね。フーガにも、聞いてほしいな」
「え……でも」
「もう地下で、ただ腐ることはやめることにした」
不意に、カバネが口を開く。クオンは穏やかに微笑み、フーガは意外そうに目を瞬いた。コノエは手のひらを膝の上で握り締める。
「……俺達は死ねない。形を変えた呪いが、縛っている。それでいいと思っていた。でもそれでは、クオンを天子の呪いから解放したことには、なっていなかったんだ」
「カバネ……僕は気にしてないって言ったよ?」
「違う。俺が気にするんだ。……呪いから自由にする誓いを果たせていない自分を認めるのが出来なかった。過ちを認めて、悔いるのは心が折れるからな」
「……それ、僕が聞いていい……話……?」
「むしろお前に聞いて貰わなくては困る」
フーガだけでなく、ついコノエも首を傾げた。カバネはテーブルの上で指を組み、カップに視線を落とした。
「……コノエがお前の命を助けたのを、最初愚かな行為だと思った。あの状態で命を取り留めても、心が追いつくわけがない。案の定、塞ぎ込んでいただろう」
「う……、ん」
「それでも、コノエは諦めなかった。そういう、やつだからな。コノエが居たから、俺もクオンも壊れずにいられた。……凄いんだよ、コノエってやつは」
ふっとカバネが笑みを浮かべ、コノエを一瞥した。主からの思わぬ賛辞に、目を見張る。迂闊にも、涙が出そうになる。大したこともできずにいた自分を、心の何処かでコノエは責めていたから。
「……うん、コノエは……優しくて、強いよ。僕だってコノエが居なかったら、とっくに死んでた。感謝してる。……何をしても足りないくらい、コノエには感謝してる」
「僕もだよ。……いつもありがとう、コノエ」
「フーガくん……。クオンさんまで、やめてくださいよ。俺別に、そんなに感謝されることは、何も」
「あー、コノエ泣いてる。涙脆いんだ」
「るっさいっすよー、フーガくーん」
ぐしゃぐしゃとフーガの頭を撫でると、フーガは楽しそうに笑う。こんな風に笑えるようになって、良かった。コノエは誰かが俯いて悲しんでいるのが、一番つらいから。
「お前がアークについてくると言ったとき、そうなるだろうとは、思っていた。クオンの言葉を借りれば、お前は風なのだろう。風は留まれない。動いた先に、何かを齎す。……だから、信じてみようと思う」
す、とカバネの視線がフーガに向けられる。主の視線に、コノエは数百年ぶりに意志の煌めきを見た。鼓動が、早くなる。
「……俺達は、死ぬための道を、探しに行く。……何処かで、アークへ向かう日がまた来るだろう。あそこには、呪いの根源があるのだから。根源を辿れば、この終わらない命も解放するすべがきっと……いや、必ずある」
「う、ん……」
「それでも、お前はここに居る覚悟はあるか? アークは滅びていない。ここもバレている。いつか、もう一度戦う日が来るかもしれない。あるいは……呪いが急に消えて、お前一人を残して消える日が、来てしまうかもしれない。……それでも」
「僕はここにいたいんじゃ、ない」
カバネの言葉を遮って、フーガは口を開く。真っ直ぐにカバネを見つめたその瞳は、迷いを置き去っていた。
「……今急に一人にされたら、きっと怖くて悲しくて泣くけど。……でも、ちゃんと僕は、歩ける。すぐには戦えないかもしれないけど、必要なら頑張る。僕は、この空間そのものも好きだけど……コノエやクオンや、カバネが好きだから一緒に居たいなって、思って、……ます」
「ぷっ……」
「おい! 何で今そこで笑うわけコノエ?!」
「いや、出たなぁと。フーガくんの時々出る、良くわからない取ってつけた敬語」
「それどうでもよくない?!」
食ってかかるフーガには悪いが、コノエは笑いが抑えきれない。真面目な話を真面目な顔でするのは、やっぱりフーガには似合わないと思うのだ。
「……まあ、嫌になったらいつでも出て行って構わない。それまでは、……コノエを頼む。お前がいると、コノエは助かるだろうから」
「いや……何をさせてもハラハラしてばっかッスけどね」
フーガの拳が二の腕を叩く。クオンもカバネも、笑っていた。この空気を作ってくれたのは、間違いなくフーガなのだ。本人は不貞腐れてそっぽを向いてしまったけれど。
食器を洗い終えて、今日一日がやっと終わる。明日も早いが、まだ眠るには惜しい。何しろ今日は、コノエにとって楽しくて仕方なかったのだから。
「ふあ……」
「あー、フーガくんお疲れ様ッス。先に寝てても良かったんすよ」
大きなあくびをして目をこするフーガを一瞥する。食器を仕舞い終えてやっと気が抜けたのか、今にも寝そうな顔をしていた。
「……嬉しかった」
「何がッスか?」
「んー……なんだろ、全部かな。……帰ってこれたのも、おかえりって言ってもらえたのも。……コノエ」
「はい?」
「……世界って、やっぱり広かったよ」
天井を見上げて、フーガは微笑んだ。アークに向かうために出た地上での空のことを、見ているのかもしれない。何も言えず見つめていると、フーガはコノエに笑みをスライドさせた。
「空、きったないけどさ。……見に、行きたい。クオンもコノエも、カバネも一緒に。地下にいるなんて、世界は広すぎるくらいなのに、勿体無いからさ」
「……フーガくん」
「やっば、くん付けやめない? ……お客さんみたいで、やだ」
「そッスか? ……大丈夫ッス、もう一回、世界と戦う覚悟を決めたカバネさんッスから。……空も川も砂漠も、遠くない。安心していーんすよ、……フーガ」
「……うん」
殊更嬉しそうに笑って、フーガは貸している古びたコートを羽織る。
「おやすみ、コノエ。また明日」
「……はい。また明日ッス。あ、寝坊したら叩き起こしに行くから覚悟するッスよー」
「とか言って、コノエは僕に甘いから寝かしてやろうって起こさないよ」
ひらりと手を振って出て行ったフーガに、反論は出来なかった。フーガの言うとおり、寝ていたらそのまま寝かせてやりたくなる。
「また明日……か」
ぽつりとそのフレーズを呟く。ほんの少し前までは、嫌になる言葉だった筈なのだが。
今はどうにも、待ち遠しい。そんな気持ちを運んで来てくれたのは、やっぱり風が吹いたお陰なのかもしれない。
体を伸ばして、息を吐く。今日は心地良い眠りが待っている予感がした。