第一話 紙切れ一枚

 こんな日くらい仕事を空けておけばいいだろうに、あいつは妙なところで意地っ張りだな。いや、逆か。トウマが目の前でいなくなるのが余程キツイんだろう。自覚しているかどうかはさておき。

「巳波、大丈夫かな。一人じゃないほうが良かったと思うんだけど」

「俺もそうは思うが、本人目の前にして置いて行かれたらこの場でチケット買って追いかけそうだけどな。仕事があるのは、多少自分を奮い立たせる理由にはなるだろう」

「そうかもだけどさぁ……トウマ寂しくない?」

「寂しいから電話してるんだろ」

 さっきからもう五分か? 見送りに来て欲しいって言えないのもトウマの悪い所だぞ。しばらく顔を見れないと分かっていても、肝心な所で勇気が足りないな。これだから放っておけなくて困る。悠は何か言いたそうな顔をしていたが、お前だって来週には日本を発つだろうに。

「悠は、ちゃんと見送りに来いって自分で言うんだぞ。友達に」

「べ、別に見送りなんて要らないし」

「まぁ、環なら言わなくても来そうだけどな。でも仕事かもしれないだろう。だったら挨拶くらい先にしておけよ」

「……うん」

 素直で良い返事だ。勝手に来るとは俺も思うが、目の前でやきもきさせられるのはこの一度で十分だからな。

 やっと別れの挨拶を済ませたのか、トウマは空を仰ぐと大きく息を吐いていた。泣きそうなんだろう。馬鹿だな、本当に。ついて来いって言えば、あいつは喜んでついていくだろう。そうしないのは、トウマなりの決意だろうが。それでも早足で戻ってきたトウマは、笑っていた。

「悪い、待たせた」

「挨拶済んだ? 巳波泣いてたんじゃない?」

「スリに気を付けろって言われたぜ」

「またそういう……巳波は素直じゃないよな、ホントバカ」

「そうか? ミナはつえーよ。心配させて申し訳ねぇくらいには」

 思わず悠と顔を見合わせてため息をつく。トウマはぽかんとしたけど、あいつは全然強くないし、それは心配じゃなくて虚勢だ。必死に〝棗巳波〟をやってただけだぞ、多分。そういう鈍さは付き合って二年の間に成長しなかったな。

 がやがやと人の賑わう空港は、そこかしこで別れと再会の声がする。次にトウマが戻ってくる時は、ちゃんと巳波もいるといいんだが。

「早く戻って来い。失敗して泣きながら逃げて戻ってきたって、笑ったりはしないさ」

「おい。絶対失敗するみたいな言い方すんなよ」

「成功しなかったら、オレが拾ってやってもいーよ」

「ハルまでそんな事言うな! 泣くぞ!」

「泣くなら今泣いときなよ。向こう行ったらオレも虎於も慰めてやれないし。まぁ……巳波はここにいないから、すでにハンカチ貸せないけど」

「それは大丈夫だ。今日はちゃんと持ってるからな!」

 得意げにコートのポケットからトウマがハンカチを取り出した。しわくちゃだぞ。すでに。お前らしいけどな。つい笑みが溢れる。

「まぁ、元気でやれ。まずは体が資本だ。……成功を祈っててやるよ」

「分かってるよ。……大丈夫、あんま不安はねーんだ。あるけど、楽しみな気持ちのほうが強い。絶対名を上げて戻ってくる。歌うことを、諦めなたくないからさ」

 お前はいつもそればっかりだな。そんなトウマに俺達はZOOLって存在を託してたわけだが。道標みたいなものだった。俺はこれから、自分でオールを握らなきゃいけなくなったのだと、不意に気付く。

「じゃあそろそろ行くな。二人も体に気をつけろよ」

「それこっちのセリフだから。ほんと、スられんなよー」

「気をつけるって」

 いや気を付ける程度じゃスられるんだよ。巳波の心配は、俺にだって分かる。分かるが……そんなこいつが、あいつは好きなんだから不思議なものだ。

 握手をして、頭の上で手を振って遠ざかるトウマに苦笑いで悠が手を振る。目立つだろうが。トウマだと認識した女達が小さく悲鳴を上げていたが、本人は全然自覚がないな。どこまでもいつも通りに、収録終わりのようにトウマはゲートの向こうへ消えていく。なんだろうな。胸が、少しだけ熱い。

 じっともうトウマの見えないゲートを見つめていると、傍らの悠が鼻を啜る。横目で見れば、悠は乱暴に目元を擦っていた。ぽん、と軽く背中を叩く。

「……寂しくなるな」

「急に素直じゃん、虎於のくせに」

「お前もな。……行くか、俺達も。悠やトウマと違って、俺は夢なんてないが、生きていかなきゃならない」

「見つかるよ。きっと。虎於は案外熱血だし」

 それはどうなんだろうな。俺はいつもどこかですぐ諦めようとする。それでも……何かを俺は、願ってるんだろう。願いもなく生きるのは、つまらないからな。

 悠は大きく息を吸うと、顔を上げて俺に笑みを向けた。

「オレも仕事いくな」

「あぁ、送ってやるよ。安全運転でな」

「あはは、早くもトウマの運転思い出しそう」

 笑い合って、空港を後にする。ZOOLが終わって、トウマが日本を飛び立っても俺達の明日が止まったわけじゃない。自分の足で、一歩を踏み出した日の空は、よく晴れていた。

─やりたい事があったわけじゃない。ただ一点、未だ向き合っていない問題だけは、ZOOLでなくなった今だからこそしないといけなかった。

 

 

 話は外でしたいからと連れてこられたのは、閑散とした古い喫茶店だった。テーブル席は十ほどあるというのに、俺達以外は誰もいない。これで店としてやっていけるのか不安だが、マスターが置いたカップから漂う珈琲の香りは、良い香りを立ち上らせていた。腕はきっと、いいのだろう。

 正面に座る彼女はずっと浮かない顔で視線を伏せていたが、角砂糖を一つカップに入れるとすっと顔を上げた。

「……よく私の前に顔を見せましたよね」

「顔を見せずに話がしたかったか?」

 僅かに、不愉快そうに彼女が目元を歪める。

 花巻すみれ。三年前に俺が利用して、用が済んだら手を切った女だ。あの頃もくたびれていたが、今はそれとは違う意味で疲れたような顔をしていた。……それもこれも、俺のせいかもしれないが。ぐるぐるとスプーンで角砂糖を溶かしながら、ぽつりとすみれは口を開く。

「私あなたの事、一生許しませんよ」

 冷たく突き刺す言葉だ。浴びせられて当然の。弁解の余地もない。謝罪なんて、この女には意味がない。そんなものでは贖えないことだ。

「……分かってる」

「分かってない。あの後、わた、私が……どんな思いで生きてきたか、あなた想像出来ないでしょう?」

 即座に否定して、すみれは俺を僅かに睨む。そこにあったのは敵意や憎悪というより怯えだ。俺を怖がっている。そう思わせてしまうだけのことを、俺は仕出かしているのだから、反論なんてしない。それは俺が受けるべき刃そのものだ。

 唇を震わせて、それでも言葉に出来ない様子のすみれに、流石に俺も目を伏せた。

「あの事は悪いと思っている」

「聞きたくありません」

 そうだな。言い訳なんて、謝罪なんて意味がない。分かっていたからこそ、俺は決めたわけだが。

 目をそらしたすみれに、俺は改めて一枚の紙をテーブルの上に置いた。茶色の枠の公的書類。婚姻届。すみれが表情を強張らせたのが見えた。

「……もう一度言う。結婚を申し込みに来た」

「だ、だから意味が分からな……」

「まぁ聞け。遅くとも今から一年後にこれを提出して、その三ヶ月後に離婚届を出す」

「は、はぁ……?」

「理由は俺の浮気でいい。適当にその辺の女をでっち上げるつもりだから、何も心配しなくていい。お前は不幸にも女にだらしのない男と結婚した運のない、罪もない女になる。慰謝料もちゃんと用意するさ。他に必要なものは?」

 唖然とするすみれに、つい苦笑いが溢れた。まぁ、そうだな。俺だってめちゃくちゃなことを言ってる自覚はあるさ。兄さん達にだって何を言われるか考えたくない。

 ……でも、これくらいしかお前には詫びられないだろう。ツクモからも退職金をまともに貰えていないと聞いたし、むしろ違約金で支払いだってあったはずだ。最低限そこはどうにかしたい。

「……そんな事をしたら、貴方が不名誉を被ることになるじゃない」

「構わないさ。元々俺はそういう男だからな」

「わ、私は別に、お金が欲しいわけじゃない。甘い夢を見た馬鹿な女だって笑って忘れてよ」

「夢を叶えてやるんだよ。一瞬だけでも。恨みだってあるだろう。俺がお前にしたことを週刊誌に売ったっていい。好きなだけ石を投げつけろ。この業界から叩き出されたって、文句は言わないさ」

「何よそれ……」

 怒りを通り越して呆れた、といわんばかりの表情だな。俺だって他にどうしていいか分からない。かつて龍之介には恥じなく生きろと言われたけど、こいつにだけは、殺されても文句は言えない。TRIGGERは三人で這い上がってこれたが、すみれは奈落に落ちたまま、芸能人としては死んだ。俺のせいで。それは……同等の罰を受けるべきなんだと、俺は思うんだよ。

 ZOOLがあった頃は、そうは出来なかった。あいつらとZOOLを続けて居たかった俺の身勝手のせいだが、あいつらを巻き込むのも違ったんだよ。相変わらず人生をかけてでもやりたい事は、見つからない。だが、やるべき事だけは分かっていた。俺個人の抱えた、一番の問題を。

「……身勝手なのは、あの時と変わらないね」

「強引なのもたまには刺激的だろう?」

「貴方のはもう、毒薬と変わらないよ。……少し……、考えさせて」

「……ああ、そうしてくれ」

 破って捨てられるかと思った紙切れ一枚は、すみれが丁寧に折り畳んで仕舞い込んだ。そこからは会話なんてなく。ただ二人で沈黙の中飲んだ珈琲の味は、存外悪くなかった。

 

「は? 御堂さん正気ですか? 自爆するなんて情熱的な行動、珍しいですね」

「前から思ってたが、お前は俺を何だと思ってるんだ?」

「刺激的な生き方をなさってる割には臆病な猛獣ですかね」

「お前はトウマの緩さに慣れ過ぎだ。昔は巳波も毒牙をチラつかせていたぞ」

 瞬間、巳波の表情が曇る。それは俺の返しが腹が立ったとかではなく、トウマの名に反応したんだろう。意外なことに、傍にいなくなったことを余程気にしているらしいな。そういう面では可愛げがあるな、こいつも。

 すみれの元を訪れて三日。何の音沙汰もない所に巳波から食事の誘いが来た。この様子ではトウマが居なくてよっぽど暇を持て余してるんだろう。俳優の仕事は山積みだろうに、そういう面では苦がないようだった。

「まぁ、破って平手打ちされて終わるかと思ったんだが、保留になったのは意外だったろ」

 話題を元に戻した俺に、巳波は苦笑いを溢した。まったく、なんで俺が気を使わなきゃならないんだろうな。トウマのせいだぞ。

 巳波は黙ってブランデーの入ったグラスを手に取ると、じっとその琥珀色の水を見つめた。やっぱり少し、寂しそうに。

「……御堂さん」

「なんだ?」

「平手打ちなり何なり、物理的制裁をいただいたら、写真くださいね」

「なんで」

 ふっと巳波は笑みを浮かべる。久々に見たな、その無邪気そうに見えて腹の中が真っ黒な笑みは。

「気落ちした時に笑って嫌なことを追いやれそうな、良い写真になりそうだと思いません?」

「ここに良い顔がすでにあるだろうが」

「生憎と、私は狗丸さん以外に口説かれるつもりは今はありませんので」

 いやそもそも口説いてない。お前みたいな面倒な奴はトウマじゃなきゃ扱いきれない。肩を竦めると、巳波は満足そうに笑っていた。まだ欠けた場所は、俺も巳波も取扱が慎重だな。少し空気は和んだが。

 ふと、スマホが振動する。電話……か?

 胸ポケットから取り出すと、そこには花巻すみれの文字。意外な名に、一瞬頭が白くなる。

「……出なくてよろしいんですか?」

「あ、ああ……」

 巳波に促され、我に返ると慌てて画面をタップする。耳元に持っていく手が微かに震えていたのを、案外巳波は分かっていたかもしれない。

「……どうした?」

『さも私が貴方の声が聞きたい女みたいな扱いやめてください』

 初手からキツイな。まぁ人間三年もあれば丸くもなるし尖りもするか。警戒心が声に滲んでいる。

「例の話なら、心は決まったか?」

『人の話を聞いて……、はぁ……、そうだった、貴方はそういう人だった』

「変わっていなくて安心したか?」

『条件を追加して』

 俺の冗談を無視して踏み付けて、すみれは硬い声でそう言った。条件。金の割増くらいならまだ安いものだが。

 電話越しに一つ息を吐いたのが、聞こえた。

『戸籍に傷を付ける必要はないと思うから、一年後に別れる方向にして欲しいの』

「……構わないぜ」

『あと、……月に一回位、会って。それっぽい事もなしに、一方的に貴方を叩き落としたって、嘘だってすぐにバレるから』

 意外な提案だった。まぁ無理もないか。俺が傷つくのはともかく、すみれの戸籍まで傷つける必要はない。その点は配慮がなかった。反省だな。

「分かった。それでいい。……もう永遠に連絡してこないかと思っていたけどな」

『何もかも、考えるのが嫌なの。理不尽に上司に怒られようが、楽に流されていたほうが余程辛くないから』

 言葉に詰まった。あの日から、すみれはずっと止まっているのだと今更気付く。俺が了さんとつるんで利用していなければ、過労で倒れるまで働いて、それで済んだのかもしれないのに。

 ぐっと、拳を握り込んだ。

「……また電話する。お前も何かあれば気兼ねなくしてこい」

『お断りします』

 ぴしゃりと言い切られるのは、割と爽快だな。今まで散々縋りついて喚く女ばかりだったから余計に。まぁ、すみれもあの時はそうだったけどな。……我ながら、嫌なやつだな、俺は。

 それでは、と俺の返答を待たずしてすみれは電話を切った。完全に避けられているな。無理もないが。

「フラれた顔していますよ」

「似たようなもんだ。実際来年フラれる」

「どうしたらそんな発想に至るのか、御堂さんは本当に愉快な方ですね」

 これは笑っていても、呆れたという意味だな。分かるさ。俺だって馬鹿げていると分かる。なのに無理矢理にでも罵倒を浴びないと前に進めない気がするのは、何故だろうな。

 他愛ない話をして、巳波はいつもより早く帰って行った。仕事が早いからとは言っていたが、心のどこかでトウマからの連絡を待っているのだろう。自分からすればいいだろうに、意地っ張りだな。見ていて危なっかしい。

 一人でグラスを空にして、天井を仰ぐ。ぶら下がったライトが、いやに目に眩しかった。

 

 待ち合わせに遅れてやってきたすみれは、軽く息を切らしていた。走ってきたとは思わなかった。前回の喫茶店でマスターおすすめの珈琲を飲んでいた俺は思わずぽかんとする。

「すみ、ません。遅れました……」

「別に急いでない。仕事だったんだろう。残業とは大変だな」

「上司に捕まってただけです。私が定時に出ようなんて珍しいから」

「プライベートに干渉する上司とは、失礼なやつだな。はっきり言ってやればいいだろうに」

「貴方じゃあるまいし、普通は簡単に上司に反抗したりしません」

 むっとして言い返したすみれに、思わず笑ってしまう。すみれはそんな俺に、更に眉を吊り上げたが。

「違う違う。俺には反抗するのかと思っただけだ」

「だって貴方は別に上司じゃないし……」

「関わりたくない相手とは当たり障りない笑みで誤魔化すのだと、知り合いが言っていた」

「……はぁ、貴方のご友人、よっぽど嫌な人ですね」

 そうか。その内巳波にそう伝えておこう。俺が睨まれそうだけどな。すみれは大きくため息をつくと、カウンターに座っていた俺の隣に腰を下ろす。

「本当に来るとは思ってなかったけど、意外と律儀ね」

「ここのコーヒーが気に入ったんだよ」

「シャンパンの方がお好きでしょ」

「そう尖るなよ。可愛い顔が台無しだぞ」

 すみれは言葉を詰まらせた。あー……しくじった。つい、いつもの癖が出た。いや、嘘は言ってないがすみれには苦い記憶でしかないだろうから。マスターがすみれの前にブレンドコーヒーを置いて、苦笑いを浮かべる。何もかもお見通しって顔だ。気まずいな。

「あー、……と、これは土産だ」

 空気を誤魔化すために、持ってきた紙袋をカウンターの上に置く。すみれは一瞥して、すぐに目を逸らしたが。

「頼んでませんよ」

「そう言うな。ネイルオイルだよ。あんた、爪がぼろぼろだぞ。別に俺のために綺麗にしろとは言わないが、女ってネイルでテンションが上がるんだろう。まずは下地でも整えておけ。一年後、すぐに声がかかるようにな」

「……本当、ムカつく人ね」

「男からのやっかみなら、腐るほど逸話があるぞ?」

「はいはい」

 受け流されたが、すみれは諦めた様子でネイルオイルは持って帰っていった。必死に今を生きている後ろ姿に、少しだけ心が傷んだのは気のせいということにしたい。

 

 生憎の雨で、空は憂鬱になりそうなくらいに黒かった。まだ昼間だというのに気分が滅入りそうだな。一月に一回と言われたのに、たった二週間で顔を出しに来た俺をすみれは笑うかもしれないが。ちょうど暇を持て余して、呼んでもいない女からの呼び出しをかわす言い訳くらいにはさせてほしい。

 いつもの喫茶店で時間を潰していると、いつもより早い時間にすみれはやってきた。ずぶ濡れで。まさか傘を持っていなかったのか。

「お、おい。連絡くれたら車で迎えに行ったぞ」

「すぐに帰るので。一応顔だけ見せてあげに来ました」

「いやそれはいいんだが……」

 マスターがタオルを差し出してくれたのをすみれは断って、ふっと笑う。寂しそうに。

「私多分、引っ越さなきゃいけないので。しばらく来ないでください」

「は?」

「あはは、やだなー。折角今度こそ平和に仕事できると思ったのに」

「すみれ?」

 乾いた笑いを溢して、すみれは俯いた。どうしていいか分からず沈黙していたら、すみれは顔を上げて、微笑んだ。

「こんなですから、私帰りますね。あ、虎於さんもこんな天気なんですから、安全運転で帰ってくださいね」

「待て。傘なら貸してやる。みっともない格好をするな」

「私はずっと、みっともないんですよ」

 吐き捨てた言葉に、瞬間頭がかっと熱くなる。カウンターから立ち上がると大股ですみれに歩み寄ってその手首を掴んだ。やっぱり細いな、女の手は。

「送ってやる」

「結構です。シート濡れますし」

「言い方を変える。送らせろ」

 すみれは驚いた様子で顔を上げた。何か言いかけたようだったが、結局それを言葉にすることはなく、小さくため息をついたのだけが土砂降りの雨の隙間で聞こえた。

 

 マスターが貸してくれたタオルで髪を拭くすみれを横目で見つつ、しばし。いよいよ雨が激しい。さっさと送り届けてやるべきなんだろうが、ギアをパーキングから変えられないまま、数分が過ぎていた。オレを急かすでもなく、すみれは沈黙のまま視線を伏せている。そんな元気もないんだろう。

「言いたくないなら、無理には聞かないが……俺のせいか?」

「どういう自意識過剰なの。嘘でも誰も貴方と付き合ってるなんて知らないわよ」

「三年前の件だ」

 ぴくりとすみれの指先が震えて、ゆっくりと俺を見やる。責めるでも懇願するでもなく、感情のない瞳が俺を捉えた。もう、それが答えだ。

「……ずっと、三年もお前は」

「同情なんてしなくていいから。あれは私が馬鹿だったの。それだけ。貴方も悪いけど、私も悪い。それだけのことなんだから」

「何を言われるんだ」

「何にも。もしかして昔歌手やってた花巻すみれかって聞かれるだけ。そうやって噂が広がって囁かれて、勝手に私が居心地悪くなるの」

「俺のせいにすればいいだろうが」

「数週間前までトップを走ってきた人が悪いなんて誰も信じるわけないでしょ。馬鹿なの?」

 呆れた様子ですみれは言葉をため息のように吐いた。タオルを畳み、膝の上に置いたすみれが雨で視界不良の正面を見やる。

「……はぁ、ばっかだなぁ。昔の私を本当に殴ってでも止めてやりたい」

「すみれ」

「あぁもう……次は何処に引っ越すか、頭痛いなぁ」

「シートベルトをしろ」

「あぁ、うん。ごめんなさい」

 気のない笑みで頷いて、すみれがシートベルトをしたのを確認して、ギアを変えた。ライトをつけてもなお暗い夕方の道路を走り出す。

 しばらく窓の外を見つめていたすみれは、ふと。

「あの、こっち道が違うんだけど」

「問題ない。腹は空いたか? あまり俺は得意じゃないが、サービスエリア寄ってやるが」

「え、ちょ、ちょっと待って」

「黙って連れて行かれろ。……安心しろ、指一本触れやしない」

 信用ない言葉かもしれないがな。今一人にするのは、俺が見ていられないんだ。勝手な……罪滅ぼしのつもりで。望んでいないとは思うが。

「……もう騙されませんよ」

「はは。一晩だけ夢くらいは見られるぞ?」

「結構です」

 つれないな。それでも、喚かずにいるすみれは一人が不安なのは間違いないんだろう。俺じゃないほうが良いに決まってる。でも、生憎とここには俺しかいないから、嫌がられてでもエスコートくらいはさせてもらおう。

 高速道路に程なく入る。雨は止む気配がなかったが、沈黙を推奨する空気にしてくれるのは、悪くなかった。

 

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