血糊を落として窮屈だったネクタイを外すと、やっと一息つける。久し振りに犯人役なんてやりましたね。なかなか新鮮でした。今なら新しい曲がかけそうな気がします。
「お久しぶりです棗さん! 今日はありがとうございました。先にご挨拶できずすみません」
駆け寄ってきて慌てて頭を下げた女優……あ、的坂さんですね。以前MC仕事を一度しましたっけ。やりやすかった記憶があります。そういえば今回のドラマのヒロイン役でしたね。以前より存在に華がある気がします。
「こんにちは、的坂さん。お気になさらず。私の入り早かったですから。今日は休憩無しで撮影で大変でしたね」
「大丈夫です! ここが頑張り時ってマネージャーも言ってましたので、休んでいられませんし」
「あらあら。ご無理はなさらぬよう」
若いって良いですね。眩しいです。と言って、私よりほんの少し若いだけですけれど。何と言うか、芸歴の長さで私は随分年を食っている気がしてしまう。そんなはずはないんですけどね。
的坂さんはきらきらとした目で私を見つめていた。何か期待させるような事しましたかね、私は。御堂さんじゃあるまいし口説き文句は吐かないのですが。
「……どうかしました?」
「いえ、あの、狗丸さんの曲、全部買ってます!」
「そうなんですか。喜ぶと思いますので、今度会ったときに伝えておきますね」
「棗さんがまた作曲してくれるようになって、私すごく嬉しいです。いつか、いつかまたZOOLが帰ってくること、待ってますのでっ」
真っ直ぐな眼差し。この人は今、女優的坂夏乃じゃなくて……ZOOLのファンだった女性だ。とても、心が熱い。夢を見てくれている人が、ここにも居るなんて。
私が言葉に窮していたら、ハッと我に返った様子で的坂さんが胸の前ではたはたと手を振る。
「す、すみません私また勝手な事を」
「いえ。……気持ちは、伝わりましたし私も嬉しいです。聞いてくださって、ありがとうございます。どうぞ今後も狗丸さんを応援してあげてくださいね」
「それはもちろん! 棗さんの曲もそれを歌う狗丸さんも、私大好きなので。ずっとお二人の事応援します」
「ふふ。ありがとうございます。それでは私はこれで」
「はい! お疲れ様でした」
頭を下げた的坂さんに会釈をして、私も現場を後にする。足取りが少し軽い。この気持ちを、早く狗丸さんと分かち合いたいですね。
機嫌が良かった。すこぶるミナの機嫌が良くて、どうやら俺が遅くなるって言ったからか飲んできたらしい。俺の帰宅に合わせて家に来たミナはふわふわとした笑みを浮かべていた。そういうの意外で可愛いとこだよな。
「良いことあったのか?」
コップに水入れてやってローテーブルの上に置く。隣に腰を下ろすと、ミナはすぐに肩にもたれてきた。
「ええ少し。狗丸さんを褒めてくれて、ZOOLを期待してくれてる人が居るんだなぁと、知ったので」
「へー、それは俺も嬉しい。ライブももうすぐだしな。頑張ろうな」
「はい。……ふふ。変ですね。去年の今頃は明日がどうなるか不安でたまらなかったのに、今は明日を信じられるようになりました」
「そうだなぁ。去年は……マネージャー説得できるか、不安だったよな」
「でもそれも何とか乗り越えて、今は……早く狗丸さんと暮らせる日が待ち遠しいです」
それとなく手を握って来たミナに、少し俺も照れくさくなりながら握り返す。指輪がちょっと冷たいな。本当にあとすこし。きっとそうだって今は自分を信じられるようになった。いつまでも駄目かもしれないけど、それは俺達が勝手に決めたルールだからな。
「今ならミナと喧嘩せずに済むかな」
「どうでしょう。私嫉妬深いので。……また拗ねてしまうかもしれませんね」
「心配すんな。俺はミナしか今の所興味ねーよ。ミナだってそうだろ?」
「さぁ、どうでしょう」
あ。ずる。はぐらかしやがった。素直じゃねーな、今日は。でも狼狽えるのは罠に引っ掛かるようなもんだ。俺だってお前の扱いは少し心得てるんだよ。
ずいっと顔を近付けると、ミナは軽く目を見張った。
「好きじゃない奴の家に来るなんてどういうつもりだよ?」
「飢えた狼みたいなこと言わないでください」
「安心しろー。今日から指一本触んねーから」
「えっ、い、狗丸さん」
ミナはやっと動揺した。ちょっと胸がすく。鼻先が触れる距離で何もしねーとか、気持ちが先に言っちまうよな。きゅっとミナが袖を掴む。懇願するように見てくる瞳に笑ってやった。
「どーする?」
「意地悪ですよ……。好きです。貴方以外要らない。貴方の一番のファンは私ですからね。それだけは、忘れないでください」
「うん。……知ってる。好きだぜ、ミナ」
ご褒美じゃないけど、お互い素直に言えたから、キスをする。一回じゃ満足出来なくて、二回三回って繰り返してたらスイッチ入ってしまったけど、まあもう今更だからいいよな。
気付けばもう、付き合い始めてからは五年になる。その間に積み重ねた経験値は、強くもしてくれたし、弱くもなったと思うんですよね。前に進む勇気を貰って、離れるのは怖くなってしまった。
街中に溢れ出したバレンタインの広告が、今年はやけに目につく。狗丸さんは甘いものそんなに好きではないので必要ないですけど、亥清さんに用意してあげたら喜びそうですね。
「……あ」
ふと、店先から漏れた音楽に足を止める。狗丸さんの声が聞こえた。今季のドラマにオファーをいただいた私にしては珍しいラブソング。視聴率、どうなんですかね。ドラマの内容には興味がなくて見ていない。業界マナー的には確認しておかないといけませんね。
「この曲さぁー、トウマっぽくないよねぇ」
つい足を止めていたら、そんな声が聴こえてぎくりと背中が凍る。瞬く間に血の気が引く感覚に、息を飲んだ。
「あんためっちゃ聞いてるじゃん」
「らしくはないけど、良い曲だから好きなのー。たまにはトウマのバラードも悪くないなって、思ったんだ」
なにそれー、と軽く笑って行き過ぎた女子高生二人を、つい視線で追いそうになって慌てて耐える。少し不安だった要素は、やっぱり予想通り。それでも今の彼女は、好きだと思ってくれたんですね。それは……有り難いです。
顔を上げて、歩き出す。一位を。私は狗丸さんを一番にしてあげたいと今でも思う。それは約束の件を抜いてでも抱いている願いですから。だから多くの人に届く曲を書かなければと。でも、一人に刺さるのも、悪くはないですね。私達は……私達の音を、紡いでいられればいいのかも知れません。
別段チョコレートが好きなわけでも無いけれど、少しだけ甘い気持ちを味わってみたくなって四つ入りの小さい限定品を購入する。濃いめのコーヒーとなら、狗丸さんも食べてくれるかもしれませんしね。季節のイベントを素直に楽しめるようになってきた私を、あの人はどう思っているのか少し気恥ずかしいですけれど。
今月末発売予定のあの曲が、どうか一人でも多くに届きますように。祈りなんて私には似合わない。それでも狗丸さんの為なら祈らずには居られないのだから、恋愛というものは凄い力があるものです。
私のマネージャーというものは多分過保護なのでしょう。何もライブ当日まで張り付いていなくていいのに、とため息をつきそうになった。
「ほほ、本日はよろしくお願いしますっ……!」
「いえこちらこそ。衣装の手配などはお任せしていますし」
にこにこと笑顔ではいますが確実に狗丸さんのマネージャーにはプレッシャーですね。頭を下げたまま動きそうにありません。
「時間までは何処にいたらいいの? オレ楽屋とかつまんないんだよな。折角だしトウマのステージ見たい」
「ハル……! お前すげえ素直になって……!」
「いや感動しないでよ、うざいから。勉強だよ、勉強。ステージ演出とかオレも自分の意見出せるようになりたいから色々見てんの。勘違いするな」
狗丸さんはがっくりと肩を落とし、御堂さんは笑いながら狗丸さんの背中を叩いた。私も少し笑ってしまいましたけど、亥清さんの気持ちは分かってますよ、私は。恥ずかしいんですよね、素直に認めるのは。私だってすぐ誤魔化してしまいますから。狗丸さんは嘘が苦手ですから、そのまま受け止めてしまいがちですけどね。
マネージャーはマネージャー同士で話をするからと控室から出て行った。残された私達四人は、なんとはなしに、顔を見合わせて笑みを零す。何でしょうねこの感じ、久しぶりすぎて落ち着かない。
「バタバタするから、あとでスタッフさんに良さげな場所聞いといてやるよ。……それより、お前らありがとな」
「どうした急に」
「やっぱ今更だしやめるわ、って言われたらどーしよーかと思ってたんだよ。ドタキャンされても困らないように予備セトリ用意しといたけど、それでもさ」
「何、怖気づいて逃げ出すかもって思ってたわけ?」
「そうじゃねーけど……俺達はZOOLでなくたってもう……一人で歩けてたろ。だからさ」
「狗丸さん……」
少し寂しげに微笑んだ狗丸さんに、ぎゅっと胸が詰まる。四人で一人前だったあの頃とは、今は全然違いますもんね。ふと、亥清さんが息を吐く。
「それはまあ間違いないけどさ。……オレはZOOLでいると楽しかったんだよ。お前らと歌って踊って駆け回れる場所、もう一回立ってみたくてここに来た」
「ハル……」
「何だこんなもんかって終わった後で思うかもしんないけどさ。もう一回だけ、確かめさせてよ。オレがここまで来れた場所を」
「……ああ。目一杯暴れてくれよ。俺のライブってこと忘れていいからさ!」
「安心しろ、最初からそのつもりだ」
御堂さんは多少遠慮した方がいいですね。でも、それは彼らしい。開演まではあと二時間。私達のステージは、近付いていた。
音と光が溢れて、歓声が会場を揺らす。レーザーライトがカラフルに踊り、巨大スクリーンが映像で空気を作る。夢を見るような時間が、ここにはある。
「久しぶりに着たのに、ぴったりなのは複雑」
「そうか? 俺は少し緩くなったな。筋肉が落ちたのかもしれないが」
「ふふ、御堂さんはデスクワーク増えましたものね」
「アレほんと似合わないよなー」
「好き勝手言ってくれるな、お前達は」
肩を竦めた御堂さんに、亥清さんと顔を合わせて笑う。間もなくアンコールが開始される。懐かしい衣装が、少し不安にもなる。私達は……拒否されないでしょうか。あくまでここは、狗丸さんのための場ですから。
「っし! 待たせたなお前ら!」
「お、リーダーのお出まし」
ぎゅっと黒のキャップを被って駆けてきた狗丸さんに、たったそれだけで胸が詰まる。私達は……帰って、これたんでしょうか。あの場所に。
四人で決めた曲は、私達が四人でZOOLを始めようと決めたあの曲。ZONE OF OVERLAP。あの日、レッフェス前に感じた緊張感が蘇る。
「何があっても、心折れんなよ」
「それトウマもね。オレと虎於がファン取っちゃうかもだし」
「あら、私だっていますよ、亥清さん」
「何言ってんだ。この会場のファンはお前とトウマをセットにしてのファンだろ。惚気けられてるとも知らずにな」
「そうそう。巳波も気合い入れなよ」
どこまでもこの人達は強気ですね。本当は不安だってあるでしょうに。でも、ステージへ続くステップを歩く先には、私達のリーダーが居てくれますから……何にも、心配なんてないんですよね。
「こっから、もっかいスタートだ。行くぞハル、ミナ、トラ」
頷く。不安を勇気に、緊張を歓声へ変えるために、踏み出した。
たった一曲だけれど私達にとっては大きな一歩で。暗転したと同時にアンコールを叫んでいた声が歓声に変わって、続く前奏にどよめきが走った。こんな禁じ手、普通は業界で許されない。でも、二大事務所が噛んでしまったからこそ、ギリギリの所で実現できた場所。
会場の空気が、熱を帯びる。歓声が大きくなる。ステージの上から見た久しぶりの光景に、胸が軋みそうなほど熱くなる。私の周りにはいつもの三人がいて、それぞれ示し合わせもせずに顔を見合わせて、笑みを浮かべた。気持ちは全員、同じですね。それが嬉しい。光と音を浴びる時間が、永遠に続いてくれたらいいのに、それはもちろん叶わない。
OVERLAP。交差点。私達の道は、またここで、交差できた。それだけで充分幸せなんですよね、きっと。
あっという間の時間だった。一曲って、こんなに短かったでしたっけ。惜しくてたまらない。息を整えるのが、勿体無いほどです。
「っ、てわけ、で、ZOOLでした! 最高だったろ!」
狗丸さんが、一際嬉しそうに観客に問い掛ける。歓声が応えて、私達は受け入れられたのだとやっと安心出来た。本当、こんなの本来であれば大問題ですよね。解散したはずのメンバーが歌うなんて。[newpage]
「アンコールもうちょい続くんだけど、その前に一個! 報告があるから聞いてくれ!」
報告? ちらりと亥清さんと御堂さんを見やるも、二人とも戸惑った様子で首を振った。私も何も知らないんですけど、はけた方がいい……ですかね? その刹那、首に腕を回された。慌てて見やると、それは狗丸さんで。
「先週出た新曲! 一位になったんだよ! お前らのお陰だぜ、ありがとな!」
「えっ……?」
「良かったよな、今回もばっちりミナが書いてくれたんだぜ。すげーこいつ悩んでたけど、最高だったよな!」
狗丸さんの呼びかけに、歓声が返る。聞いてる、最高だ、おめでとう。重なり合った声が、私に向けて叫ばれる。呆然と狗丸さんを見やると、にっと心底嬉しそうに笑って私の頭をくしゃりと撫でた。
「やっとここまで来た。……ありがとな、ミナ。……やっぱお前、最高だよ」
違いますよ。貴方の声がなきゃ、曲は完成しないんですから。一位。別に約束があったからじゃない。それでも私はこの人をトップにしたかった。この人には、それだけの能力と価値があるから。私に情熱を取り戻してくれた狗丸さんには、ずっとステージで輝いていて欲しかったから。
胸が熱い。苦しい。やっと、やっとここまで届いた。解散したあの日から、見送ってしまったあの朝から。ずっと届けられなかった一番という場所を、やっと私は狗丸さんに届けられた。それが嬉しくて、涙がぼろぼろと溢れた。おかしいですね。人前で泣くなんて、私らしくないのに。
「うお泣くな泣くな! ミナらしくねーぞ!」
「だっ、て、だってやっと……私はやっと狗丸さんを一番にできた。私じゃなくても出来たはずなのに、私に曲を作らせてくれたお礼が、やっと、出来た」
「何言ってんだ。一緒にここまで来たんだろーが。これは俺とミナで掴みとった一番だぞ」
「はい……、はい……っ」
おめでとうって、何度も聞こえる。狗丸さんの一番を喜んでくれる人が、ここにはこんなに居る。ここに狗丸さんを立たせることができて、私は本当に嬉しい。私は今、最高に幸せな場所にいるんですね。
「あー、はいはい。ここまだステージの上だから。オレらの出番ここまでだから撤収するよ巳波ー」
「俺がいなくてもしっかりやれよトウマ」
「うるっせ! ここはそもそも俺のステージだバカ!」
軽口を叩いて、私は亥清さんと御堂さんに挟まれて狗丸さんの元を離れる。遠くなる光と、その中心で歓声を浴びる狗丸さんが見えた。目を細める。諦めなかった夢はまだ指先で、輝いていた。
まだ、信じられない。ネットで調べて、本当に一位になったのを見ても、まだ。着替えを済ませてぼうっと椅子に座っていると、亥清さんがひらひらと目の前で手を振った。
「意識ある?」
「はい……あります」
「珍しい……とは思わなくなってきたけど、本当、巳波はトウマが絡むと急に壊れるよな。おもしろ」
「……本当ですね」
もう否定できるものなんて何もない。二年も放置されてそれでも待っていて、一年かけてやっと願いに手が届いた。数字にしたらあっという間だというのに、その間に私も随分変わった。恐らくは、良い方に。
隣に座ってペットボトルの蓋を開けた亥清さんを見やる。
「久しぶりに立ったあの場所、亥清さんはどうでした?」
「……やっぱ一人より楽しい。景色も空気も全然違うし、下手したら今のほうが観客動員数叩き出せるかもしれないけど……四人でいる方が、楽しい」
「……そうですよね」
「悔しい。何で今そこに居ないんだろ。手放しちゃいけなかったんだよな。あの時は……罰だと思って、それが社会の契約ってものだと諦めてたけど……馬鹿にされてもなじられても、泣いて喚いてでも、しがみついてるべきだった」
同感です。いつかまた掘り返せばいいと思った宝箱は、アスファルトの下に埋められてしまったように簡単には取り出せなくなってしまった。後悔が、今更湧いてくる。
「おい何しんみりした顔してんだよ。折角最高に楽しかったのに」
「狗丸さん……」
着替えを済ませて、スタッフとの挨拶を終えてきた狗丸さんが御堂さんと一緒に戻ってきた。手にはスタッフからいただいたのか、花束を抱えて。
「ほらよ」
「え?」
「一位祝いにってスタッフさんがくれたんだよ。ミナにやる」
「流石に遠慮します。だってこれは……狗丸さんのお祝いですよ」
「お前ほんとに……クソ真面目かよ。いや卑屈なのか?」
割と失礼なこと言いますね。狗丸さんのイメージカラーの赤が多く配された花束。クランクアップの際に私も貰ったことがありますけど、狗丸さんのそれは凄く……立派に見える。
「はぁ……いいか、ミナ。何回も言ってるしお前が素直に受けとめ切れるまで何十回何万回と言ってやるけど」
「桁が急に飛んだな」
「茶々いれんなトラ! あのなぁ、確かに歌うのは俺だけど、ミナの曲がなきゃ俺は歌うことすらままならねぇんだよ。だからこれは、ミナの曲が一位になった記念でもあるんだぜ。いい加減認めてやれよ、自分のこと」
「私の……こと」
「今日のセトリだって、ミナが書いてくれた曲できる限り入れた。俺が聞いて欲しいんだよな、みんなにさ。ZOOLだった頃から最高だった曲は、今もここで生きてんだぞって。それを喜んでくれる人が、沢山いたろ」
一曲だけ立ったステージで聞こえた声を思い出す。私達を歓迎してくれた声。私達を……知っていてくれた声。もう三年も前に表舞台からZOOLとしての姿を失くしたのに、覚えていてくれた人が確かにいた。私は……私自身で、勝手にZOOLとしての私も、音楽家としての私も一歩離れた位置に置こうとしていたのかもしれない。じっと花を見つめて、自分の心と向き合っていたら、ふと。
「あれ、ステージで泣き出したのって、一位取れて嬉しかったからじゃないの?」
「多分ちげーな。ミナの事だから俺を一位にできて良かったーしか思ってねぇ」
「惚気か?」
「一緒に暮らせる嬉しいの涙だったかもしんねーけど」
「ち、違います! それは断じて違います」
三人が目を丸くして私を見やる。それは、前者は正解ですけど。後者はプライベート駄々漏れの欲じゃないですか。そんな事は思ってないですよ、流石に。
はぁ、と大きく息を吐き出して、恐る恐る手を伸ばす。差し出されていた花束に触れると、にっと狗丸さんが歯を見せて笑った。
「おめでとう、ミナ。やっと一番だぜ。次も、その次も一位目指して頑張ろうな」
「……はい。狗丸さんこそ、おめでとうございます」
「うん。よっし! それじゃ、打ち上げ行こうぜ打ち上げ! スタッフさんが店とっといてくれてるから、お前らも当然行くだろ」
「良いのそれ。オレたち本来出演者じゃないけど」
「ばっか、俺達の為に練習してくれてたんだぞ。もう仲間だろ」
「そういう時だけ強引なやつだな」
「お前ら放置されても拗ねるし誘ったら渋るし相変わらず面倒くせえな……」
数秒間があって、それから四人揃って噴き出した。本当に。何にもあの頃から変わらない。あの頃から狗丸さんが引っ張ると逃げようとして、さっさと行ってしまうと慌てて引き止めるばかりですね。成長できてない。いえ……ずっと甘えてるんですね、この人の優しさに。
荷物をまとめて、控え室に四人で頭を下げてアリーナを後にする。冬の終わりの近づいた夜の空気は、いつもよりも暖かかった。
腕に抱えた花の香りが、今日ばかりは誇らしい。打ち上げの一次会を終えて、いつもの四人で少しだけ飲み直しの二次会をして、深夜二時を回った頃、解散した。マネージャーからはお疲れ様の一言だけ送られてきていて、少しだけその言葉が嬉しかったのは黙っておく。あの人も、ちゃんと見ててくれましたからね、関係者席で。
誰もいない静かな通りを狗丸さんと二人で歩く。今日は私の家に泊まるので、残しておいたワイン、後で開けても良いかもしれませんね。
信号が点滅する横断歩道を律儀にボタンを押して青にして渡る。今の時間は車も通らない。なんだか車道を駆けてみたくなりますね。
「……あと三ヶ月後でも、良かったかもなんて、少し思いました」
「何の話だ?!」
「私の誕生日プレゼントに一位をくれても、という話です」
「いやそれは無理」
即答しましたけど、私だって分かってますよ。そんな都合のいいドラマみたいな話。でも夢くらい見ても罰は当たらない気がします。
公園の前を抜ける。ここを過ぎれば、もうマンションですね。帰ったらひとまず温かいお茶を入れましょう。
「ミナ、左手貸せ」
「え? はい……」
戸惑いつつ左手を差し出すと、黙って手を握られた。きゅっと胸が締め付けられる。言わなくたって、分かりますよ。次に何を言いたいのか。心臓が少しずつ、騒ぎ出す。何なら飛び出してしまいそうで、口を引き結んだ。
「待たせてごめんな」
「……いいえ。私の力不足も、多分ありましたから」
「そんなことねーよ。お前の曲はいつも最高だから。……どっち先に見に行く?」
唇が震えた。もちろんそれが、欲しかったわけじゃないですけど。どの道何にも法的拘束力はありませんから。でも、嬉しい。花束を抱えた手に力が入って、その分少しだけ近付いて花の香りが強くなる。薔薇の匂い。真っ赤な花弁に、ぱたりと雫が落ちた。
「泣くなよー……俺が泣かしたみたいだろ」
「貴方のせいには間違いないじゃないですか。……どちらでもいいです。いいですけど」
「けど?」
「指輪は……早く、差し上げたいです」
おっけ、と軽く応えて、狗丸さんは少しだけ手を強く握る。帰る場所が同じになる日を、期待してたわけではないけれど。一人置いて行かれた日を思うと、苦しくて潰れそうになっていたから。帰ってしまう度、帰る度、明日には来ないかもしれないと不安に駆られた日がやっと終わる。
涙を拭って顔を上げると、狗丸さんが小さく笑った。
「その花束もなんとかかんとかってので、保存しとこうぜ」
「プリザーブドフラワーですよ。……ふふ、そうですね。いつか家中記念の花束だらけにしても、素敵ですね」
二人で笑い合って、花束を抱え直す。桜さん。貴方が居なくなって寂しくて死んでしまうかと思ってましたけど、意外と私は図太く元気です。貴方が教えてくれた音で、私は世界で一番大事な人を見つけられたんですよ。いつかまた、会いに行きますから。その時には私の曲を世界一に仕上げてくれるこの人を、自慢させてくださいね。
新曲の打ち合わせと、楽曲に関する契約更新の話し合いを終えて、ようやく一息つける。相変わらずミナのマネージャーは仕事となると怖い顔をするから背筋が伸びるよな。
「正式な書類は改めてメールでお送りしますのでご確認をよろしくお願いします。……また一年、しっかり頼みますよ狗丸さん」
「それはもちろん! 今年はMOPとかも狙いたいんで」
「目標は高く。良いことです。……で、他に報告する事は」
ぴっと背筋が伸びた。ミナはマネージャーさんの横で澄ました顔で荷物を片付けてたけど、お前から言ってくれよ。笑顔が怖いんだよ、マネージャーさん。
「え、なんか、ありました? 路線変更とかするんです?」
「ええとぉ……いやそれはないんすけどね……」
うちのマネージャーは鈍感だからな。良くも悪くも。冷や汗が出る。机の上に置いていた拳を引っ込めようとしたら、目元に鋭さが増す。あ、やばい。やっぱこの事だ。
「そんなに怒らないで下さいマネージャー。ふふ、素敵でしょう。一昨日やっと買ったんですよ。狗丸さんのお給料二ヶ月分です」
「そんな高くねぇよ! あと折半しただろ!」
「あら。狗丸さんの分は私が出しましたけど、私の分は狗丸さんが買ってくれたんですから意味が違いますよ。そう思いません、マネージャー?」
いや話題を振るな。頭抱えて思いっきりため息ついてるじゃんか。俺怒られるやつだぞ、これ。
「何ていうか、知らなかったんですけど、狗丸さん達はバカップルだったんですね。へー、意外です。見る目変わりました」
「そんなんじゃないのに……」
うちのマネージャーまで酷い。ミナは何でそんなに平気な顔してるんだよ……。普段は弱気なことばっかするくせに。人の目があると途端にメンタルが強靭になるよな。意味が分からない。羨ましいけど。俺だってもっと堂々と居られる自信がほしい……。
肩を縮めていたら、ミナのマネージャーが、俺を見やった。
「すみません」
咄嗟に謝ってしまった。悪いことはしてねぇはずだけど。でも怖いし。
「いえ。……頼みますね。棗くんは、貴方がいないともうどうにもならないようですから。くれぐれも」
「週刊誌にすっぱ抜かせはしませんし、ハニトラもさせませんのでご安心を」
「あと棗くんは少しは隠しなさい」
「TPOは弁えているつもりですよ。これでも」
いや今のお前は俺でも分かる程度には浮かれてる。ただまぁ、マネージャーの前だからっていうのもあるんだろう。何だかんだ、ミナはマネージャーさんに少し甘え始めてる所あるもんな。本当、面白いやつ。
「はぁ。それじゃ今日の仕事はもう終わりなので、解散としましょう。棗くんは明日オフだけど家まで送ろうか?」
「あ、言い忘れましたけど今日から住所が違うのでお願いします」
「は?」
「狗丸さんはこの後仕事ですか?」
頭が痛い。やめてくれミナ。もっとちゃんと説明を経ようとしてくれ。お前のそういうめちゃくちゃするとこ、結構好きだけどさぁ。
「仕事は無いですよ! 食事でもして帰られるんですか? 俺もまぜてもらいたいなー……なんて冗談ですけど」
「それはまたの機会に。ではマネージャーに送っていただきましょう」
「……棗くん……いや……、狗丸さん。私が言うのもおかしな話ではありますが、良いんですか、本当にこれが。私が頭痛いですが」
「俺も痛いです……でもまあ……そこがミナの良い所でもあるんで。頑張ります」
「……心配だな」
ミナのマネージャーさんの心配も分かる。でも、俺達はこれからだ。またきっと喧嘩して、拗ねて宥めて、仲直りをしてそうやって生きていく。形ばかりの指輪と、同居する新居を買っただけで、やっとスタート地点に立ったに過ぎないからな。
俺達個人の夢はここまで来れた。次はZOOLとしての夢を、走り出す番だ。
今日も街の至るところで音楽が響く。その一つに聞き覚えのある声を拾うたび、心が熱くなる。今日も誰かが狗丸さんの歌を聞いてくれている。その基盤を支えているのは、隣に並ばなくたって私なんですよね。あの人の事を、後ろから支えていられるなんて特権は私にしか与えられていない。
でも、まだ四人の夢は諦めていないから。もっと私達は、前へ進まなくちゃいけませんね。
ふと、肩を叩かれて振り返る。サングラスをずらした左手の薬指には、シンプルな、シルバーのリングが今日もあった。
「悪い、待たせた」
「五分の遅刻ですよ」
「二年よりよっぽどマシだろ」
ええ、本当に。そんな冗談が笑えるようになっただけ、良かったですけれど。
先に発券しておいたチケットを差し出して、笑みを浮かべた。
「寝ないで見てくださいね。折角私が助演男優賞をいただいた作品なんですから」
「分かってる分かってるって。帰りに花束買ってやるよ」
「ふふ、そうしてください」
それもまた、プリザーブドフラワーにしても良いですね。花束も音楽も、私達にとっては似たようなものですから。
ポップコーンの味でしばし揉めた久しぶりの映画館は、短いオフにはちょうど良かった。
【END】