帰るのが憂鬱というか、妙に緊張感を孕んだのなんて初めてだった。飛行機に乗ったら日本に早く降り立って知ってる顔に会いたかったのに、今はそうでもない。というか、会ったら気まずい。勝手にオレが気まずくなる。ダサいなぁ、オレ。いつだって肩で風切って歩くなんて簡単だって思ってたのに。
逃げ出したいような気持ちさえあって、それでも到着ゲートから、それぞれ散っていく人の波に乗った。夏も終わりに差し掛かってるけど、空港の窓から見える入道雲と青空は、まだ夏を諦めてない感じだ。
呼び掛ける声が聞こえて、大きく手を振る良く似た二人の存在を視認すると、つい苦笑いが溢れる。
「ほんと、兄妹そっくりだな」
四葉はでっかい。あっちゃんは小柄だけど手の振り方とか全部、同じだ。それはなんだか、不思議と安心する。
あっちゃんが好きだって自覚して初めての帰国。会うのが気まずいかもって一瞬前まで不安に思ってたのに、屈託なく笑って手を振ってるあっちゃんがいてくれたのは、やっぱり何より嬉しかった。
「じゃあはるちゃんそこでマネージャーさんと見ててね」
「ホントにオレ見てなきゃだめ……?」
「駄目でーす」
腰に手を当てて胸をそらしたあっちゃんに、ため息を一つ。いや、なんでオレここにいるの? 何故か収録見学に付き合わされてるの、意味わからなくない? 音楽番組の録画で、このスタジオにはあっちゃん含めて若手アイドルグループが三組出ていた。今じゃIDOLiSH7すら中堅だもんな。この業界は入れ替わりが激しいんだなって痛感する。
「理さんとは、レッスン仲間だったんでしたっけ」
「え? あ、はい。いち……おう?」
急にあっちゃんのマネージャーに話しかけられた。ビビるなぁ、もう。オレ人見知りなんだから知らない人と放置しないでほしい……。すっと背筋の伸びた黒いスーツをぴしっと着た女性マネージャー。この人も九条のこと知ってる人なのかな。あっちゃんのプロデュース、ちゃんとやるって言ってたはずだし投げ出しては……なさそう、だよな。
じっと準備中のあっちゃんを見守ってる眼差しは、どことなく熱を秘めていた。これから目の前にくる、輝きを待つように。
「……あっちゃんて、やっぱ凄いんですか?」
「見たことありませんでした? じゃあしっかり見てあげてください。きっとその為に、連れてきたんだと思うので」
そういうもん? あっちゃんのコンサート自体は、映像ですら見たことない。ちらっとテレビで歌ってるのは見たことはあるけど、番組で加工されてるのは違う気がするんだよな。十分輝いてたけど、絶対見ろって連れてこられるってことはあっちゃん的には自信あるのかも。
目の前で、あっちゃんの本気が見られる。なんだか少し、期待に胸が膨らむな。知らないあっちゃんがきっといるんだろうから。
マイクを持って、あっちゃんはステージの真ん中に立つ。カメラがその姿を真っ直ぐ捉えて、一旦あっちゃんは目を閉じた。カウントダウンがスタジオに響き、最後二秒、瞳を開いたあっちゃんは、その瞬間アイドルを纏った。
「っ、う、わ」
思わず声を漏らして慌てて口を手で覆う。やばいやばい。すごい。音楽に重なるあっちゃんの声もすごいけど、何より纏ったオーラが違う。TRIGGERの九条天とおんなじ。ステージの上で煌めく様は、テレビで見たそれなんか全然違う。圧巻だった。
言葉もなくて、息も忘れて目でただ追いかける。スタジオの照明も、わずかに足元を覆うスモークも、ステップを舞うあっちゃんを輝かせるためだけのものだった。
曲が終わり、最後に丁寧にお辞儀をしてから顔を上げたあっちゃんの表情は、いつもと同じ。知った空気に、いつの間にか肩に力が入ってたのがすっと抜ける。びっくり……した。やっぱ悔しいけど、あっちゃんもきっちり育て上げられた九条の作品なんだ。ああなれたのかもって思うと、ちょっと寂しい気もするけど。
ステージに登る出演者とすれ違うあっちゃんは、いつもと同じ。四葉とよく似た無邪気な笑い方で、軽くハイタッチをしていた。
だんだん涼しくなってきた夕方の通り。影が短くなってきた通りを、あっちゃんと二人であーだこーだ言いながら歩いていた。なんだろ。懐かしいな。アメリカのダンススクールの帰り道もこんな感じだった。つい苦笑いを零す。
「どしたのはるちゃん」
「スクールの帰り道みたいだなーって。まぁオレもあっちゃんも、もうすっかり成人してるけど、ガキの頃と変わんない」
「えー、そんなこと無いよ。だってほら」
ぱっとオレの前に立ったあっちゃんは、その勢いで顔を近づけた。びっくりして固まるオレに笑って、あっちゃんはぺしっとオレの額を軽く叩く。
「すっかりはるちゃんの方が背がおっきいもん。昔は私のほうが背が高かったのに。ぜーんぶ変わってるんだよ」
変わってる。その言葉が、何だか急に苦しくなった。そうかも。オレも、ZOOLやって、それがなくなって泣き喚いてるかと思ったけど、意外と今も一人で頑張れてる。あいつらも頑張ってるって知ってるから、オレだけ挫けてるわけにいかないって。昔のままじゃないんだ。なんにも考えてなかったあの頃と違う。
今目の前にいるあっちゃんだって、いつ何処かに行ってしまっても、不思議じゃないんだ。あっちゃんの隣を今はオレが歩いてるけど、この先の未来でオレじゃない誰かが隣にいるかもしれない。
―それってすごく、怖い。嫌だ。もちろん勝手にオレが好きなんだけど、それを抱えたまま黙ってその日を迎えてしまうのは、嫌だ。胸がざわつくのを抑えるためにぎゅっと手のひらを握りしめる。このままじゃ、駄目だ。
「……あのさ、あっちゃん」
「なに? あっ、コンビニでアイス買ってかない?」
「オレが、あっちゃんのこと好きだって言ったら、困る?」
「困らないよ! 私もはるちゃんのこと好きだよ」
「いや多分違くて。……つ、付き合って、ほしい……ていう、意味で言っ……」
言いかけて、気づく。あ。やば。あっちゃんが笑顔のまま固まってる。瞬間、置き去ってた羞恥が襲い掛かって、頭のてっぺんまで沸騰した。
ぶんぶん首を振って、一歩後ずさる。きまず、気まずい。やばい。なんでオレ言っちゃったんだよ。バカ。こんな空気無理じゃん!
「なん、っなんでも、ないから! 嘘! 冗談っ」
「び、びっくりしたぁ」
「そんなんあるわけないじゃん。あ、何だっけ? アイス? それ食べたら帰ろ。遅くなると四葉が心配するだろ」
「うん。えへへ、何買おっかなー」
くるっと背中を向けて歩き出したあっちゃんに、ほっとすると同時に、めちゃくちゃ、悲しくなる。なんで、冗談なんて言っちゃったんだろ。言わなきゃ良かったのはそうだけど、嘘なんて、違うじゃん。オレ自分の気持ちに嘘ついた。それがめちゃめちゃ悲しくて、心が痛い。鼻の奥がつんと痛くなって、ぐっと涙を飲み込んだ。
今すごく、トウマに会いたい。トウマに何でちゃんと言えたのって、聞きたい。オレには無理だよ。ステージに立つときより勇気がいるんだって、今初めて痛感した。
コンビニの扉が開くと、冷房でキンキンに冷やされた空気が肌を撫でる。頭冷やせって言われたようで、虚しさに奥歯を噛み締めた。
アメリカに戻るその日、行く前にちょっと時間くれって四葉が連絡を寄越してきた。空港で待ち合わせて、適当なカフェに腰を落ち着ける。オレはチョコシロップのかかったフラペチーノで、四葉は甘いの特盛りフラペチーノ。そういやこいつとは甘いもの交換良くしたっけ。
「で話って」
「俺思ってたんだけどさー、いすみんならいいよ」
「は?」
何が。いや全然意味わからないけど? ぽかんとしたオレに気付いてんのか気付いてないのか、ストローくわえたまま、四葉は天井を仰いだ。
「んー、いや、やっぱやだ! って気持ちあんだけど。でも俺の所有物ではないじゃんな」
「ごめ、何の話?」
「理の話しかなくね」
ひゅっと喉の奥が鳴った。なん、て? あっちゃん? え、なに?
天井を見ていた視線を落として、四葉は深いため息をつく。いや、嫌そうにすんなよ。分かってるからっ……! 頬杖をついてオレの目を見て、四葉は口を開く。
「この間告白されたっぽい気がするって言ってた」
「しっ……」
「してない?」
「……、しました」
ここで否定したらいよいよ終わる。渋々認めると、四葉はまたため息をつく。あっちゃん四葉に言ったんだ……。兄妹だもんな、それはそうだけどさ。それにしたって肩身が狭い……兄からの査定ってこういうやつ?
「俺さー、流石に九条はないよなーって思うんよ。だから、てんてんとずーっとやんわりダメだぞーって言ってんだけど」
「そ、そうなんだ」
「そー。でもさ、やっぱ理の人生じゃん。俺のじゃないし、好きにしたらいいと思う気持ちはある。九条はやだけど」
「うん……」
「んで、いすみんならいっかなって。むしろいすみんなら、まぁ少しは安心っちゃ安心。いすみん良いやつだし、親いない俺達のこと、分かってくれるじゃん」
「それは……オレだって両親は死んじゃってるから……」
でもばあちゃんいるだけマシなのも知ってる。四葉とあっちゃんは、施設に入ってバラバラになってしまったから。今二人で暮らしててすごい楽しそうだもんな。オレだって、二人が楽しそうで嬉しい。友達、だしさ。
悶々と考えてたら、ばしっと肩を強く叩かれた。慌てて背筋を伸ばすと、にっと四葉が笑う。
「そーいうわけだし、いすみん頑張れ。応援してやっから」
「兄貴に応援されるの……変すぎだろ……」
「そか? でも妹に変な虫がつくより全然いいぜー」
変な虫ってオレもそうじゃないのかなぁ……まぁいいか。四葉にバレてるの死ぬほど恥ずかしいけど、反対されるよりは良い。あっちゃんの気持ちがどうあれ、四葉とは友達でいたいから、嫌われたくはないよな。
「……望み薄だと思うけど」
「どーかなー。いすみん次第じゃね。あ、いおりんに助言求むする?」
「しなくていいから。あー……、恥ずかしい……ほんとに……」
顔が熱い。励ますみたいに背中ばしばし叩かれたけど、オレあんまり勇気持ってないから、もっかい告白なんて出来ないんだけどなぁ。
出発ギリギリまで他愛ない話をして、四葉と手を振って別れる。こんなに不安がつきまとう出発は、あの日初めて一人で飛び立ったときと同じだった。
連絡を全くしなかったわけじゃなく。でも忙しかったのもあって、あんまり仕事以外の連絡をしてなかった。だから、四ヶ月ぶりに日本に帰ってくるのも、誰にも知らせてなかったはずなんだけど。
「なんでいるの」
真冬のコートにマフラー巻きつけて暑いのか、顔の赤いあっちゃんが待ってたのには、驚いた。ぽかんと立ち尽くしてたら、後ろから来た人に肩がぶつかって軽くよろめいた。よく見て歩けよな……! 立ち尽くしてたオレも悪いけど!
緊張を抱えつつ、あっちゃんとの距離を縮める。なんて、なんて言えばいいんだろ。変に緊張する。普通どおりで良いはずなんだけど、普通ってなんだっけ。
「考えたんだけどっ」
「へ?」
挨拶もなく、急にあっちゃんが口を開く。ぽかんとしたオレの目を、あっちゃんはまっすぐに見た。綺麗な瞳に、どきどきする。
「お嫁さんにしてくださいっ」
「……は?」
「すっごくすっごく考えたんだけど、はるちゃんのお嫁さんになるの、素敵だなって」
いや。いやいや、それなんか、おかしい。話が飛躍しすぎてる。流石は四葉の妹だけど。顔真っ赤にしてたのって、そういうこと? 緊張してたの? あっちゃんが?
なんにも言えないでいたら、あっちゃんが一歩、近付いた。
「……あの時、ちゃんと返事できなくて、ごめんね?」
「あっちゃん……あれ、あれは別に」
冗談だった、って言いそうになって慌てて口を噤む。逃げるな。逃げたって、好転しないんだよ。むしろここで嘘だって誤魔化したらあっちゃんに失礼だ。
手のひらを握りしめて、でもずっと気になってることを口にする。
「九条は、いいの。あっちゃんすっごい好きだったじゃん」
「兄ちゃんたちすごい心配してくれるけど。流石に私だってもう子どもじゃないんだよー。いろんな大人の人に会って、仕事して、少しは成長してるの。もちろん、ここまで私を導いてくれたんだから、見守ってて欲しいって思ってるけどね」
「そっ、か」
「あとこの間はるちゃんじゃない人にも付き合って欲しいって言われて」
「はぁ?!」
何それ聞いてない! 四葉から何にも聞いてない! 思わず声を上げたら、あっちゃんは愉快そうに肩を揺らした。
「その時にね、はるちゃんのこと思い出したんだ。いつも私の隣に居てくれたの、はるちゃんだなーって。それがなくなったら、私きっとすごく寂しいから」
「それ……別に、付き合わなくても」
「だめ?」
心底不思議そうに、あっちゃんは首を傾ける。なんていうか……あっちゃんはいつも通り、突飛だよな。普通、自分が好きかどうかくらい分かるじゃん。そういうめちゃくちゃするとこ、ほっとけないし……目が離せないんだよ、昔から。
一歩、オレからも踏み出す。なけなしの勇気をかき集めて、声が震えないことを祈りながら、口を開く。
「駄目じゃない。……ありがと、あっちゃん」
「どういたしまして! えっとー、よろしくね、はるちゃん」
「うん。……よろしく、あっちゃん」
初めて顔合わせしたときみたいな挨拶だった。あっちゃんの事だから、どうせまだ、好きかどうかなんてよく分かってない。分かってないとしても……今はそうしていいって言うなら、押し切ろう。オレだって、まだふわふわしてるような感じだし。
「お腹すいてない? ご飯、良ければ行こうよはるちゃん」
「うん。あっちゃんの時間が空いてるなら」
「なら今日は大丈夫!」
満面の笑顔を返したあっちゃんに、苦笑いを零しつつ、その手を取った。細い指先。重ねた手のひらがちょっとだけ熱いけど、気付かなかったふりして手を引いて歩き出した。
「あ、わ……」
小さく零したあっちゃんを見やると、顔が真っ赤になってた。あ、そうなんだ。ちゃんと……オレのこと好きでは、あるんだ。意外って思うと同時に、すごく嬉しくなってしまう。単純かも、オレ。
「行きたいとこある? あっちゃん」
「え、ううん。特にはないかも。はるちゃんは?」
「オレもないかな。ちょっとだけ長めの散歩、付き合ってよ」
折角繋げた手を離したくないから、なんだけど。目的地なんてないままに、電車に飛び乗る。
二人で電車に乗るのなんて、今更何にも新鮮さなんてどこにもない。でも今日はあっちゃんと少しだけ近い距離で窓の外を流れる景色を見つめた。ZOOLが終わって一人で飛び立ったあの日から、二年。どこに行くのにも不安だったあの日からもうそんなに経つんだ。どこへ行こう。今なら、どこへ行ったって全部輝いて見える気がした。
ぐつぐつと、野菜と肉が鍋の中で震えていた。なんというか、震えたいのはオレだけど。膝の上で握りしめた手がそのまま固まってしまいそうだった。
「んでー……いすみんと理は結婚前提ってことで間違いないんだよな?」
「え、あ、えっと」
「当たり前でしょ兄ちゃんてば。失礼だなぁ」
いや、失礼では、ないと思う。いや遊びなわけでもないんだけどさ、実際あっちゃんと結婚てイメージまだ湧かないから、頷くに頷けないだけで。
四葉は腕組んでじっと半眼でオレを睨んでくるし。み、味方してくれるんじゃなかったの……? そろそろと視線を外すと、隣にいたあっちゃんの両手がオレの頬を掴んで、強制的に四葉に戻された。むごい。
でもその様子になんか一瞬だけ安心した顔して、四葉がにっと歯を見せて笑う。
「……ま、いっか。いすみんだもんな。よし、腹減ったし食うかー!」
「はるちゃんには私が取り分けてあげるね」
気を使わなくていいのに。あっちゃんそういうとこ、しっかりしてるよな。四葉が、グラスを掲げる。慌てて、オレもあっちゃんとグラスを手に持った。
「んじゃあー、いすみんと理が無事付き合いだした記念にかんぱーい!」
「ありがとう兄ちゃんー!」
あっちゃんは高らかにそう返したけど、オレはめっちゃ恥ずかしいよ……。顔耳まで真っ赤かも。こういうの祝われるの、考えてなかったから。
でもこの二人といるのは割と好きだから、結婚……も、いいの、かも。
「はいはるちゃん。あーん」
「い、いいって、いいってば!」
「えー」
いや、えーじゃないから! 四葉が睨んでるからっ! あっちゃんやっぱり距離の詰め方少しおかしいよ……。でも引き下がってもくれないから、四葉の視線に耐えつつ、人参を齧る。恥ずかしいが振り切りそう。味も何もわからなくなりながら過ごした四葉家の夜は、思ったより温かく過ぎて行った。