第二話 壁一枚

 運ばれたダンボールは思ったより少なく、空けておいた部屋でも余るようだった。

「遠慮せずに全部持ってくれば良かっただろうが」

「言っとくけどこれで全部なの! 1Kだったんだから!」

「……よく暮らせたな?」

「御曹司には分からないでしょうけどね……」

 睨まれた。そういえば前にトウマからも似たような事を言われたな。あいつも狭い部屋で暮らしてたし。……よく通ってたな、巳波は。いつも巳波がベッド占拠してたって時々トウマがぼやいてたか。そう思うと、俺も少し寂しさがある。巳波はそれ以上だろうがな。

「……私また、間違えた気がする」

 ふと呟いたすみれに苦笑いを溢して、軽く肩を叩いた。驚いた顔で振り仰いだすみれに、特上の笑みを返してやる。

「贅沢な暮らしを教えてやるよ」

「……貴方、前も思ってたけど金銭的価値しか言うことないの……?」

「女はみんなブランドが好きだろ?」

「はぁ、そうかも。……って、触らないでくれます? 契約違反です」

 軽く手で払われて、すみれはダンボールの蓋を開け始めた。本当に、嫌われてるな。それでもここに来る事を良しとしたくらいには、疲れているんだろう。

 仕事を辞めて家も引き払ったすみれは、今日から俺とここで暮らす。百個くらい並べられた同居ルールには笑いそうになったが、どうやら丁度いい仮宿程度にはなれるようだった。

 

 一通り荷物をクローゼットに収納させた後は、俺に命令して二人でダンボールを解体する作業が十分ほど。ハウスキーパー頼んであるから、任せればいいと言ったんだがすみれの命令は絶対だからな。同居上のルールの一つに組まれているからには、俺には従う義務がある。流石に傍若無人な命令には逆らうつもりだが、まぁ……これくらいは社会勉強だろう。巳波や悠に呆れられても癪だからな。

「……コーヒーを淹れる。座っていろ」

「ど、どこに……?」

「どこって……好きなところでいいぞ」

 今更緊張感が最高潮に達したような顔をしてるな。カウンターチェアでも、リビングのソファでも好きにしていいんだが。……そうか、一応男の家で緊張してるのか。思わず笑ってしまった。

「笑うところなの?!」

「いや、そうだな、はは。ソファにでも座ってろ。お姫様」

「嬉しくないわよ!」

 それは残念だ。前は居心地が良かっただろうに、俺相手だから特に嫌なのだろう。仕方ない。

 心底居心地が悪そうに、ソファの端に縮こまるように座っている姿は何だかんだ、可愛らしいものだった。

 

「あらあら、虎於さんが規定の曜日以外にお呼び出しなんて珍しいと思ったら、ちゃんとした恋人さんをこさえたんですねぇ」

「違います! あ……いえ、違わない……ことに、し、ます」

「そう固くなるな。少し家に置いてやる話になってるんだ。よろしく頼むよ、香代さん」

「ふふ、畏まりました。どうぞ初めまして、虎於さんの身の回りの世話をしております。今井田香代(いまいだ かよ)と申します」

 丁寧に腰を折った香代さんに、すみれも慌てて頭を下げて自己紹介を返した。香代さんは今年で七十だったか。小さい頃から実家で世話になって、今では兄さん達が心配だからと香代さんをハウスキーパーとして送ってくれている。生活面で本当に助かっているから、俺もこの人の事は結構好きだ。御堂の家に従うだけあって、そつがなく口も固い。すみれの事も余計な詮索はしないでいてくれるだろう。

「ここにいる間は何なりとお申し付けくださいねぇ。虎於さんときちんと洗い物は分けておきますし、ご安心を」

「え、いえ、それくらい自分で、やりますのでっ……」

 おろおろと胸の前で手を振ったすみれに、香代さんはあらあらと微笑むだけだった。放置したら洗ってしまう人だからな。良く気が回る人で俺は実に助かっている。休日に呼び出したのは申し訳ないが。

「今日は特に頼みたいことはないんだ。話だけしておきたくて、すまないな香代さん」

「いいえ構いませんよ。でも、お掃除だけしておきましょうね。お引っ越しの荷物でホコリが凄いみたいですから」

「わ、私もやりますっ!」

 食い気味に宣言したすみれに、香代さんは愉快そうに笑っていた。プロに任せておけばいいと俺は思うが、すみれがそうしたいなら俺は止めない約束だ。あくまで赤の他人、何ならすみれに主導権はくれてやっている。それくらいで少しは気が紛れるなら安いものだよな。

 あれこれと香代さんの教えに従って掃除を進めるすみれは、存外楽しそうに見えたが気のせいということにしておこう。

 

 

 特段仲良く過ごす、なんて訳もなく。身の回りの片付けを粗方済ませたすみれは、香代さんの紹介でどこかでバイトを始めたらしい。何も言わなくても察した香代さんが、協力してくれたんだろう。今度お礼を言っておかないとな。

 珍しく巳波に呼び出されて食事に付き合わされたら、ものの数十分で泣かれたのは気が滅入ったが。あいつ、トウマが海外に出て行ったのがよほど効いているらしいな。まだ二月と少しだぞ。先が思いやられる。

 妙な疲れを感じつつ帰宅して……呆気に取られた。

「……お……、おかえり、なさい」

「ただいま……?」

 ぎこちない挨拶をしてしまった。いや、ここ数週間で全く話さなかったわけではないにせよ、流石に面食らうだろうが。

 ダイニングテーブルの上に、何故か夕飯らしきものが用意されていた。立ち尽くす俺に、すみれは慌てて首を振った。

「か、香代さんが貴方の服の洗濯と部屋の掃除に来て、それで私の分の食事も作ってくれるってそれに甘えただけ!」

「ああ、なるほどな。香代さんの料理は美味いだろう」

「た……多分?」

 何で疑問形なんだ。すみれも食べたんじゃないのか? やたら気まずそうな顔をしてるが。そもそもどうして待ってたかのようにダイニングテーブルに座って……ふと、理解した。

「なるほどな」

「な、何が?」

「温めてくれると助かるな」

「そんな事も出来ないの?! レンジあるのに。セレブって本当よく分からないんだけど……」

 呆れつつ、席を立ったすみれが肉じゃがの器を手にキッチンに足を向ける。コンロの火を入れた様子からして、味噌汁もあるんだろうな。香代さんがたまに作ってくれるのは、俺も割と好きだ。……まぁどうやら、今日のは香代さんだけではないらしいが。

 数分また奇妙な沈黙があって、やがてすみれが座って待っていた俺の前に温めた肉じゃがと、味噌汁と白米とを置いた。

「洗い物は、私が起きたらやるから。……せめてシンクには持って行って」

「やれとは言わないのか」

「貴方、割りそうだもの。……残しても良いよ。食べてきたんでしょうから」

 素っ気なく言って、すみれは踵を返す。もう話すことはないと。……いや違うな、あれは完全に照れくさい後ろ姿だ。

「すみれ」

 呼び掛けると、ぴたりと足を止める。振り返ることはしなかったが、充分だ。

「今度は帰りの時間を連絡する」

「別に要らないですけど」

「おやすみ」

「……おやすみ……なさい」

 割り当てた部屋に速足で引っ込んだすみれに、苦笑いを零す。らしくないことをしてるのか、あるいは本来そうなのか。まだあいつのことは、良くわからない。それでも

「……やっぱり、香代さんの味とは少し違うな」

 それでも名残を感じるのだから、香代さんがどんな顔をしていたのかは気になるな。

 

 朝のワイドショーのコメンテーターなんて似合わない仕事を始めて少し。険しい顔をしたメイン司会に今日のコメント良かったよ、と笑顔で肩を叩かれたのはどうにもくすぐったかった。元アイドルだからと侮られていても仕方ないが、俺もそれなりの教養とプライドはある。それを認められたような気がして、これはこれで悪くない仕事だと最近はやっと思えるようになってきた。トウマは欧州へ、悠は渡米。ZOOLで日本に今いるのは俺と巳波だけだ。時々Re:valeやIDOLiSH7の連中と局内ですれ違うと、どうにも眩しく感じる。

 俺にもZOOLに対する未練が分かりやすく残っていたというのは、自分でも驚くが。

「あ、とらっちだ」

「環くん、そんな馴れ馴れしくしたら失礼だよ」

「別に俺は気にしていないぞ壮五。元気そうだな、環も」

 局の廊下でばったり会うのも久しぶりだな。相変わらず環達も忙しそうだが。今日は二人の姿しかないあたり、MEZZOとしての仕事か。正反対そうに見えて、仲がいいよなこいつらも。

 軽く会釈をした壮五と、頭の上で元気に手を振る環に俺は苦笑いを返した。

「これから仕事か?」

「はい。特番の打ち合わせで。御堂さんは仕事終わりですよね。お疲れ様です」

「大変だな。まぁ、俺達の穴埋めみたいな面もあるか?」

 僅かに壮五の表情が曇る。肯定も否定もしづらいと。まぁ今のは俺が悪い。余計な……妙に斜に構えた癖が、いつまでも抜け切らない。ZOOLであった頃はまだ少し、俺は素直だった気もする。嫌な沈黙が降りかけた時、環が大きくため息をついた。

「そーだぞー、俺達めっちゃ忙しい。あと、割とみんな寂しがってんよ。スタッフさんたちも。何だかんだZOOLさん達、面白い人達だったねって笑ってた」

「そうなのか」

「うん。解散は会社都合とか言うんだろうけど、たまにはゲストとかで歌番組に呼んでもらえたらいーな、とらっちも。いすみんとかは、帰国したら出てきそーじゃん。楽しみだよな」

「そうだな。歌うことを選んだのは、トウマと悠二人だからな。……その時は、あいつらのことお手柔らかに頼むぜ」

「もち。そーいうわけだし、俺達も負けずに頑張ろーなそーちゃん」

「あ、うん。……そうだね。ではこれで失礼します」

 またなーと気楽に手を振って去っていく環に、つい感心した。あいつ、細かいところで気が回るな。見直した。励まされたようなものだ。俯いてしまえば、きっとまた環に笑われてしまうだろうな。壮五は意外と良い相棒に恵まれたらしい。羨ましくもある。俺達にとっては、ずっとトウマがそういう存在だった。

「……はは、巳波の事は笑えないな」

 どうやら俺も案外寂しいようだと自覚して、苦笑いを零した。

 

 帰宅時間を連絡しておくと、ちゃんと時間にあわせて温かい食事がテーブルの上に用意されていた。流石にすみれの姿はなかったが、この所こんなものだ。たまに巳波に呼び出されて食事に付き合う以外の夕食時は、恐らくすみれが用意している。香代さん曰く、置いてもらっている詫びつもりだそうだが。変なやつだな。俺が勝手に余計なことをしているだけなのに。

 まともに、相手に向き合っていないのは相変わらずか。俺も成長しないな。少しは……俺も前へ進まないと。

 軽く息を吐いて、スマホを取り出す。妙な緊張感を纏いつつ、すみれにラビチャを送った。いや、扉の向こうにいるのだから、ノックしたほうが早いのは事実だが。

「……あ」

 起きているか、と送った返答は簡潔明瞭、起きてます、だけ。ふっと肩の力が抜ける。無視されなくて良かった。

─シャンパン開けるから、一緒に飲まないか。

 少しだけ、会話がしたい。俺も人が恋しいのかもしれないが、以前のような女関係はしたくないからな。そういう俺とは、もう決別した筈なのだから。

 返答は数分待っても来ない。既読はついているから、見てはいるんだろうけどな。まあ俺のことを嫌うのは無理もないことだ。少し退屈だが、シャンパン自体は飲みたい気分だから開けてしまおう。その前に食器は片付けて置かないとすみれに睨まれそうだから、それだけは済ませておくか。

 皿をシンクに運び、最近覚えた軽く水を張っておくという手間を加えていると、物音が聞こえた。顔を上げると、パーカーのフードを被ったまま、何故か妙に緊張した顔をしていたすみれがいた。その意味は、流石に分かる。

「……はは、何だ。付き合ってくれるのか? 助かるよ」

「そういうことに、しておくわ」

 それで充分だ。何だろうな、今更謝罪も何も無いにせよ、空っぽになってしまった同族の空気がここにあるのだと、何となく分かってしまった。

 

 特段会話が弾むわけでもなく、無意味に流したテレビから笑い声が聞こえてくる。グラスが空いたら足し、いつの間にか買っていたらしいピスタチオをすみれは黙って食べていた。皿の上には殻が積まれ始めてるな。

「バイト、何してるんだ? そういえば聞いてない」

「言う必要もないとは思うけど……、……花屋」

「そうか。それでたまに指に絆創膏を巻いていたのか」

「えっ」

 驚いた顔で俺を見やったすみれに、小首を傾げる。いや、変なことは言ってないだろう。花を切ったりする時にでも切るんじゃないのか? 真面目に働いてるなと思っていたんだがな。そそくさと目を逸らしてグラスに口をつけたすみれは、飲んだせいかほんのり頬が赤かった。

「ネイルオイルも使ってくれてるのか? 最近は爪荒れてないな」

「っ、どうしてそんなところまで見てるのよ……」

 悔しそうに呟いたすみれだが、普通に見てれば分かると思うんだが。何にせよ、使ってもらえているならそれでいい。詫びにもならないが、女は指先が綺麗な方が良いだろう。

「それと」

「も、もういいからっ!」

「夕飯。用意してくれてるの、すみれだろう」

「ち……ちが……っ」

「香代さんとは味が違うからわかるさ」

 う、と怯んですみれは目を伏せた。どうしてそんなに居たたまれない顔をしているんだか分からないが。クッションを抱き締めて、すみれはぽつりと。

「……口に合わなくて悪かったわね」

「そんな事は言ってないだろう。庶民の味ってやつは悪くない。……あー…、いや、これは嫌味じゃない」

「思いっきり嫌味に聞こえるけど?!」

「吠えるなよ。上手く言えないが……、うん、ただ、言っておきたかったんだよ。いつも用意してくれてありがとう、すみれ」

 それだけは、一番伝えたい言葉だけは何とか紡げた。少し照れくさい気持ちになるな。素直に礼を言うのは、俺にしては珍しいから。

「……無理して食べなくていいわよ」

「好きで食べてるから安心しろ。あと、無理に作る必要もない」

「ここに置いてもらってるから、それくらいって思っただけ。……無理はしてない」

「そうか。なら、今後もお前の気持ちに任せるよ」

「……うん」

 頷いて、すみれはグラスに口をつけた。少し瞼が重そうなその横顔は、ほんの少しだけ安心したように見えたのは俺の見間違いだったのかもしれない。

 

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